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香竹日記

書道の奥深さを楽しんでいます

虢季子白盤銘 拓本

2024-10-23 22:53:29 | 拓本
第9回光晨書展にて特別展示する『虢季子白盤銘の拓本』につきまして
こちらも展覧会の始まる前に、予備知識として一通り頭に入れなくては、
という訳でこちらも簡単に纏めておきます。


西周晩期の宣王期(前827~782)ころの金文
清・道光年間(1821~50)陝西省宝鶏で発見され、今は国家博物館にあり、
長方楕円形である。
約  長さ137cm ・ 高さ40cm  ・ 幅 87cm  ・ 重さ215 kg

その用途はたらいのように水をため、祭祀や宴会に先立って手を清めるために使ったとされる。

盤の内底には8行111文字の銘文が鋳込まれています。

内容は製作者である虢季子白が北方の異民族と戦って勝利し、周の宣王がその功績を讃えて餐宴を催し、乗馬、弓矢、鉞を賜ったので、この盤を作ってそのことを記念したというものです。


  拓本と釈文   

写真はWikipediaから引用させて頂きました。

実を言いますと、私は初めての金文というものをまだ若いころ寒鴎先生に指導を受けました。
その時の金文がこの『虢季子白盤銘』でしたので記念に拓本が欲しくてもとめて手元に置いていたものです。

さて勉強の仕上げに全臨しようとしたとき、先生が「長鋒 軟毛を使ってやりなさい」とのアドバイスを受けて、
さぁ大変・・・この時 見かねたんでしょうね、
先輩が筆を貸して見せてくださいました。大変有難かったのを覚えております。
先生がイメージしていた書きぶりは、
はたしてどうなのか?
今も思い出して書いみては、師匠の恩の深さを噛みしめております。


では会場でお会いできますように



三老諱字忌日記 拓本

2024-10-22 20:49:22 | 拓本
第9回光晨書展にて特別展示する『三老諱字忌日記 拓本』につきまして
展覧会が始まる前に予備知識を確認したいと思います。


どのような拓本か?
内容よりなによりも先ず、この拓本そのものについてのストーリーに
こころ惹かれて手元に置きたくなったものです。
 

この刻石は1852年に浙江省餘姚の客星山下から出土したもので、
最初は同地の周世熊の所蔵でありましたが、
ある時、この刻石が日本に売却されようとしたそうです。
しかもこの時この衝に当ったのが河井荃盧先生であったとのことです。


ところが 古物の流出を防がなくては、、、
浙江の人達が募金をつのり買い取り、西冷印社(浙江省西湖の孤山)の所有とし、
石窟を築いてそこに保存されていると言うことで有ります。

いいお話ですね、これに感動したのです (⋈◍>◡<◍)。✧♡


  
では、その拓本    



後漢 建武28年(52)頃
88✖46

三老とは漢の制度の一つであり、徳のある人物が民間の推挙によって任命されたものであります。
この刻石は、界線によって5つに分かれ、右三分の二を四段にしたものと、左三分の一とで構成されている。

第一段には、三老となった祖父や祖母の父母の諱字・忌日を刻し
第二段には、父母の諱字・忌日、
第三段・第四段には11人の子女の諱字が刻されている。

左側には、その由来を刻しており、
祖徳に副わんことを願って、家廟の庭か或いは堂に建てられたもので、普通の墓誌銘とは違っている。
しかしこうしたものが、自然に墓誌銘を産むことになったものではないかと考えられています。
 
※ 釈文
<第一段>
三老諱通 字小父
庚午忌日
祖母失諱 字宗君
癸未忌日


<第二段> 
掾諱忽 字子儀
建武十七年歳在辛
丑 四月五日辛卯忌日
母諱捐 字謁君
建武二八年歳在壬
子 五月十日甲戌忌日
  
<第三段>
伯子玄 曰大
次子但 曰伸城
次子紆 曰子淵
次子提餘 曰伯老
次子持侯 曰仲雍
次子盆 曰少河

  
<第四段>
次子邯 曰子南
次子士 曰元士
次子富 曰少元
子女 曰无名
次女反 曰君期

<左側>
三老徳業赫烈 克命先己 汁稽履仁 難名兮 而右九孫 
日月▢伐 猶元風力射 邯及所識祖諱 欽顕後嗣 盖春秋義 
言不及尊 翼上也 念高祖至九子末遠 所諱不列 言事觸忌
貴所出 嚴及▢ 敬曉末孫 ▢副祖徳焉



※ 30年3月書品58号に掲載されている「松井如流先生」の記事を
参考にさせて頂きました。


芙蓉文化賞記念展覧会ー3(完)

2024-05-01 09:54:37 | 拓本
書道を続けていると、漢詩にも関心が沸き
師匠の下で手ほどきを受けて,
よちよち歩きで自分で作詩しはじめておりました。


それから後、お茶の水の湯島聖堂に通って更に漢詩を学び続けました。。

そんなこんなで


日中友好自詠詩書展にも出品し、毎年中国と日本で展覧会を開催、
と同時に各地を旅する機会に大いに恵まれることに発展していきました。
(※ それ以前からも師匠の個展で中国には一年に一度くらいは旅しておりました)


勿論、多くの地を訪れては拓本にも興味津々になり、
その途上で
現実に足を運び、そこに行った場所で現物の碑を目の前にし、
手に入れた拓本だけに限定して、今回の展覧会に何点か展示してみました。


記念にその中の一点を紹介させて頂きます。
許阿瞿画像石題記
(キョアクガゾウセキダイキ)



1973年河南省南陽市で出土した 
70✖112cm  後漢の画像石 
南陽漢画館が所蔵する3000件の画像石の中で、こちらは最も重要な画像石の一つであろう・・・とされております。

画像石題記は左側の 56✖16cmの部位に刻られている。
 
建寧3年(170年)僅か5歳で夭折した『許阿瞿』を亡くした家族の哀悼の辞を記したもので、四言体の韻文で綴られているのは珍しい。
しかも完全な墓誌の形態なのも特別である。
そんな訳で貴重な資料であると感じ記念に購入した次第。


書体は古隷の系統を引くが、一面この期の石刻中、字の重心の低い書風で、「郙閣頌」などに共通する趣がある。
たぶんさほどの書き手が書いたものでは無いのかもしれなくても、
書の美で最も肝心な活き活きとした大らかさが溢れている。

上層左寄りには雑技を観覧する許阿瞿の像を刻し、その傍らに「許阿瞿」と文字が見える。


因みに画像の主題は、許阿瞿の生前の一日である。
旅回りの芸人が、許の家で『舞楽百戯』を演じたのを、幼い瞿が大喜びした。
その賑やかな一日を偲んで、墓中にそれを刻りこんでやったのでしょう。


こうした事情を思い合わせるとき、題記の書風は、いかにも五歳の童にふさわしい素朴さ、それでいて、精一杯の祈りのような心を感じさせてくれる。
好きな拓本のひとつであります。


※伊藤 滋先生の著書を参考にさせて頂きました感謝です。


これにて芙蓉文化賞受賞記念の記録は終わりにいたしますが
ほんの一部を紹介させて頂いたことで大変有難く、
今後の歩みの一里塚としたい。
すべてに対して感謝しかありません_(._.)_



                 ー芙蓉文化賞記念展覧会・完ー    
                

蒼山城前山漢画像石題記

2023-10-23 22:07:00 | 拓本
この度、もうすぐ10月27日(金)~29日(日)開催される第八回光晨書展に「蒼山城前山漢画像石題記・第一石」と 
「蒼山城前山漢画像石題記・第二石」の二本の拓本を展示します。

どうぞ会場までお運び頂きたく思います。

坂田玄翔・王思礼・頼非 の三先生による「山東新出土漢碑石五種」を参考に何年間か臨書しておりましたが縁あってこの二種の拓本を手に入れることが叶いました。

よって、多くの拓本愛好者に見て頂きたい気持ちもあって、今回展示することにしました。
上記の先生方の解説を参考に、どのような拓本なのかという事を簡単に説明しておきます。

元嘉元年(151)年の刻
この碑は今、山東省文物考古研究所に収蔵されています。
題記は二本の石柱に刻され、
第一石は高さ84cm、幅22cm、厚さ22cm
第二石は高さ48cm、幅16cm、厚さ44cm


    第一石
    



    第二石
    



文字の刻し方は筆意に忠実に行われ
拓本では単入刀法で刻されたように見られますが、多くの部分は双入刀法で刻され、単入刀法で刻されたように見られるのは石工の刻法に起因すると思われます。

本の解説によりますと、
石灰質の石を刀で押し切ればその切り口は直になるが、刀を叩けば衝撃で波状なってしまいこのようになるのである。
とのことです。


下記の資料を参考にさせて頂きました
ありがとうございます

何君閣道摩崖碑 拓本

2021-07-01 00:06:06 | 拓本
実は私は、、、
2014年5月にこの碑に会いに現地に行っておりまして、
その際、縁あってこの拓本を入手することが叶い
この度の第六回光晨書展を開催するにあたり、ご披露させて頂くことにいたしました。

         

【釈文】
蜀郡太守・平陵何君、
遣掾臨邛舒鮪、将
徒治道造尊楗
閣。袤五十五丈、用
功千一百九十八日、
建武・中元二年六月就。
道史・任雲、陳春主。

【書き下し文】
蜀 郡太守 平陵何君、
掾 臨邛の舒鮪を遣わし、
徒を将いて道を治め、尊き楗  
閣を造らしむ。袤は五十五丈、
用功 千一百九十八日、
建武より中元二年六月もて就る。
道史 任雲 陳春 主す。



蜀郡太守の何君が部下の舒鮪(じょゆう)を派遣して道路を工事させ、桟道をつくった。
その長さは五十五丈(126.7メートル)、要した日数は1198日であり
建武に始まり、中元二年(57年・漢の時代)六月に完成した。
という内容であります



さて何君閣道摩崖は、四川省の成都から南西におよそ200キロの山岳地帯、
更に南東に行ったならば、峨眉山の霊峰が聳えている。
そんな位置にひっそりと佇んでいます。



この碑は2004年3月15日のこと、地元、民建小学校の教員である劉大錦先生はこれまで急流であった滎河の流れが、花難ダムが出来た事によって穏やかになり、そこで春まだ早いのに水泳に興じた。
ふと、河岸の切り立つ岸壁を見上げると、崖の途中に刻まれている文字らしいものを発見し、急ぎ当局へと報告したという・・・・・・。


では実際、中国に旅して見学した時の写真を見てください
こんなところでしたよ



すぐ下には流れる川が迫る せまいところを行くと





崖のところに鉄格子で囲まれて 厳重に鍵が掛かっておりました




見上げる高さにしっかり、くっきり見えました



近づいて拡大写真を ハイッ!




※「墨」184号 髙澤浩一先生の記事を一部参考にさせて頂きました、謝々