一期一会・

宇宙と仏法のあり方についての洞察。人間の成仏。

確率と蓋然性

2015-09-10 | 日記

私は永年ソロバンの先生と言われてきました。少年の一時期に「君は天才だね」とも言われました。ソロバンの計算が得意だったのです。

小学校5年生になった時に自宅の近くのそろばん塾に入門しました。

ソロバン教室の先生は当時、早稲田大学に在学中の大学生でした。

先生は未だ成熟していない少年の僕にとても親切で、解りやすく指導を続けていただいた結果、僕はソロバンの珠を弾くことがとても好きになりました。教室で20名くらいの少年少女達が一度に会して弾くソロバンの珠の音は、海の波が寄せて返す時のさざ波のように聞こえて、何か音楽性のある技のようにも思えました。

何よりも、珠算では答えを合わせるのが一苦労ですが、自分が計算した問題の解答が正解時の満足感は経験のある人なら良く分かると思います。

何百時間もの計算練習により、次第に正解の確率が高くなり、計算速度も次第に速く

なって来ると益々。記録を伸ばそうとする意識が、強くなり、他の生徒に負けたくないという競争心が募ります。

私は、血液型がAB型であるの青年になった時に初めて知り、AB型は緻密な性分の傾向にあることを知り、自分なりに、数を操るという事が自分に適していることが理解出来ました。アスリートの感覚にも似ていて、激しい競争心と忍耐力が湧いて来ます。

「読み」「書き」「ソロバン」はまともな人間の3種の神器です。現代ではどうでしょうか、やたらと英語重視の社会現象で、カルチャーで英語会話重視で自国の日本語がなおざりにされているではないでしょうかはぼくのひがみでしょうか?

文科省でも英語を小学校3年から学習指導要綱で組み込むという。もっと、自国の言葉を

正しく継承させていくべきだと思いますが?諸賢のご意見をお聞きしたいと思います。

早稲田の商学部の学生だった私の先生は、少年の僕に、しっかりした理論を教えてくれる先生で生年の僕が計算上の仕方について意見を述べると、決してバカにしないで、対等の口調でよく聞いて下さった先生でした。

僕が極めて未だ弱輩であるにもかかわらず、人間として人格を尊重していただいたのを記憶しています。

戦後の僕の家は貧しい大家族で生活も困窮しているのを知って、僕が中学1年位なると、先生は未だ中学1年生の少年である僕を塾の助手にして下さったのです。

そして、先生不在の折には先生の代行する事になりました。アルバイト料もい頂期、その上

塾が終了した夜には先生と先生の母と先生の姉と3人家族に僕が加わり、家族の1員の扱いで、自分の家では食せないような栄養価の高い食事を提供していただきました。

今は既に他界された先生ですが、当時の思い出は現在でも深く心に宿っていて、事あるごとに現代の先生と生徒のあり方に深く思いを致します。

この話にはまだ、続気があります。

蓋然性と確率がどう関係あるのかと、テーマと記述内容に隔離があるのは次回に少しずつ

まとめて行きたいと思います。

つたないブログを最後までお読みくださったアナタに感謝いたします。