見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

自己表現力を鍛える米国(その2)

2006-08-19 10:30:53 | 生き方・生活
米国の非営利組織の各事務所の出入り口付近には、自分たちの組織の存在意義や社会的使命(mission)が来訪者の目に付く場所に掲げられています。
組織の役員たちの顔写真を廊下に掲示している団体もありました。
自分たちの組織を来訪者にイメージ化させようとしているのです。

週末は、そうした団体が主催する一般市民向けのワークショップが、各所で行われています。ミッション系の団体は、特に参加者の内面に迫るWSを多く開催しているようでした。
下の写真は、「あなたにとって宗教とは何か」を語り合うWSです。


この日、参加したのは30名ほどの年齢幅の広い女性たち。
10名程度の3つの輪をつくり、それぞれのリーダーが用意したWSに入ります。
ひとつのグループは、細く丸めた紙を一人ずつ「くじ」のように引き、そこに書かれている短い詩を読み上げた後に、自分の思いや感想を述べ、他の参加者と意見交換をするというもの。
別のグループは、画用紙に自分の紹介を言葉とイラストで描き、壁に貼りながら参加者に今考えていることを発表していくもの。
そして、写真にあるグループは、床に広げられた様々な宗教関連の写真から、ひとつを選び、宗教観について述べながら意見交換をするというものでした。写真の中には、日本の奈良の大仏や、神社の写真もありました。

米国の義務教育学校を参観したときも同じことを感じましたが、
米国では、個人(ひとりひとり)の気づきを想起させる場面が多く設定されます。日本は、どちらかというと「みんなはどうか」「みんなでひとつの意見にまとめて」と集団思考へ誘導していく手法が中心となります。
こうした大人対象のワークショップでも、個人が自分の意思で題材を選択し、様々異なる対象について自分の見解を論理立て、聴衆にわかるように話すという訓練が好まれますが、小さい頃から習慣化されているからでしょう。

講演会の際、聴衆に挙手を求めたり、参加者の個の考えを問うような質問をすると、嫌がる人が多いのも日本の特徴かもしれません。

「わかってくれない」という「くれない族」が流行った日本は、自分をいかにわかってもらえるかという自己表現力より、「相手をいかにわかってあげるか」という言葉に頼らない理解力に力点がおかれるために、「以心伝心」「言わずもがな」などが美徳とされるのでしょう。

先日、保育士の採用面接試験に立ち会ったとき、「『相手の気持ちになれる』『相手を思いやれる』子どもたちを育てたいと思います」と言った受験生が多くいました。
セクハラ論争や911テロ事件を見ていると、性別や文化の違いなどの壁は厚く、「相手の気持ちになる」ことにも限界を感じます。かといって、自己主張一色というのも疲れます。バランスの問題なのでしょうが。


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