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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

意味よ。

2006-06-25 23:27:43 | 
身体表現と言語に関する断章。



 獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙(ねら)い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔(むかし)、ピル・ナピシュチムの洪水(こうずい)以前には、歓(よろこ)びも智慧(ちえ)もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶(ものおぼ)えが悪くなった。これも文字の精の悪戯(いたずら)である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚(ひふ)が弱く醜(みにく)くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及(ふきゅう)して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

     『文字禍』中島敦~『青空文庫


ダンスの話の続きをしたいのだけれど、私は否応なく言葉の人であるので、そこを通らないことにはどこへも行けない。

その、前の記事の最後に、伊藤虹さんと松田空さんの言葉を引用した。
言葉ならざる何か、と言う問題。

我々は、様々な媒介物によって、メッセージを間接的に交換して生きている。
近代メディア以前に、例えば文字や声よりも前に、我々は、或いは動物たちのコミュニケーションはどういうもので有り得る(/た)のか。

アプリオリに存在する何かについて、それが無かったとしたら、と言うことを仮設するのは中々難しい。しかもそれが言語。そのことについて考える手段そのものがない状態をどう想像すればよいのやら。


メディアを介在させない感覚とはつまりなんなのか。
殴られれば痛い。
しかし、脳がそれを知覚するためには、神経を。

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。
ことば?

空さんが「外側にある、私たちの言葉或いは尺度では量り知れないものの一片一片が、私たちの身体の内側では波紋を構築し、それを再び外側に押し出」すと言うとき、そこにコトバはないのか。その波紋は何?


認識と解釈と意味と、そこにどれほどのずれがあるというのか。



意味。
絶対音楽のこと。抽象画のこと。標題のこと。
体操やフィギアの人たちは、それぞれに「意味」をつけているんだろうか。
歌舞伎舞踊ならもう少し解りやすいのに。



認識と解釈と意味との配列。
シニフィエはシニフィアンに先行するのか。


良いタイミングで表象文化学会の第1回大会が開かれるので、覗いてみようと思う。
〈身体〉としか呼びようのない形式≒内容を/で思考するアーティストたちによるパフォーマンス つき。これはおいしい。

身体。
うう。

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