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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

身体:不如意なるもの

2006-06-20 00:36:55 | 
コンテンポラリー・ダンスと呼ばれるジャンルの身体表現についてのメモ。


昨年11月に、『踊りに行くぜ!』という公演をみた。
そのときの感想は、今振り返ってみて、それほどはずしていないな、と感じる。

昨日、その、今年の公演のための公開審査会に出席させて頂いた。
これは、“クリティカル・レスポンス・プロセス”(以下CRP)という、出演者・審査員・見学者が車座になってポジティブな意見を出し合うアート版ブレイン・ストーミングみたいなモノで、これ自体非常に示唆的だった。収穫。

そのことはさておき、3組の「演技」の感想。

1 柴田菜々子「文明の道」
16歳の高校生。いかにもなバレエ体型で、ルックスも上々、踊りもきれい。
バレエかな、フィギアっぽい? と言うようなところで、あとでプロフィールを見たら新体操でかなりの実績がある人らしい。納得。

ここで面白かったのは、私が、タイトルだけみて「作品ノート」というひとこと解説を見逃していたことで。
実はこのタイトルは音楽の曲名であって、表現したかったことは、大きく緑豊かな草原に風が吹く……というようなモノだったらしい。
そういわれればそうだけれど、私はタイトルのイメージで、例えば布のはためきを国家や戦争のメタファーとして見ていたり。
新体操でリボンや布を使うことの意味と、自由な身体表現において、と言う場合の意味合いについて、自覚的になれたら拡がるかも知れない、とか。

若い、と言うこともあるのだけれど、自分の動きの向こう側に在るもう一つの世界へ突き抜ける気概のようなモノの手前で、結局自分の手の内だけで何かを作ってしまおう、に戻ってきてしまったような、もどかしさを感じる。
ジャンプしても届かない高みにまで手を伸ばせると感じさせる何かを見せて欲しい。

この人は、CRPをしなかったし、あとの交流会にも来なかったので、この感想を伝えられなかった。またいつか、参加してくれるかな。


2 アンジェラ 「コンピュータ・ウィルス」
中年(?)女性二人組。コミカル且つ具体的。説明的にしたくなかったと言うが、他に解釈しようのない寸劇。
CRPで明らかになる作品の成立過程はそれとして、やはり様々なレベルで不徹底なところが気になる。
一番大きな問題は、テーマについての想像力というか、掘り下げがないと言うことなんだろう。「コンピュータ・ウィルス」は、「ウィルス」ではない。メタファーとして非常に似ているプログラムである。それは駆除ソフトと、他のアプリケーションとも普通には区別がつかないからやっかいなのだし。実際に、3年見過ごしてきたモノらしい。それならそのことについて、自分の持っている貧困な情報やイメージを豊かにするために徹底的に調べて、或いは討論して、その上で、何をどう表現するか考えるべきだったと思う。作・振り付けのひとと、相方に、十分な相互理解があったのかどうかも疑問。
即興的なバトルないしセッションなら議論は邪魔なだけかも知れないけれど、決まった動きを求めるなら、イメージを共有する方が良いのではないのか。

私なら、「作品ノート」にあった「ある日のパソコン」の方をタイトルにして……、などと。
選曲はポピュラーで、ある意味色の付いた2曲を敢えて選んだらしく、そこの挑戦は買えるけれど、それが成功していたかどうかは別の問題。


3 佐藤七美 「かくせい-覚醒-」
もうすぐ30と言う女性。
最初無音。動いているのか判らないくらいの微動、前進。いくつかの突発的、または持続的な動き。突然音楽(クラブ系の安っぽいダンス音楽)、それにあわせて様々な、やや激しい動き。最後、壁に向かって歩き出し、とまる。

議論になったのは、後半に音楽が必要だったか、その選曲で良かったか、と言う話だった。
彼女は全部無音で良いと思っていたらしく、ある種の解釈への補助的な意味もあったらしい。
私は、前半から音があって然るべきだと言った。
彼女にとって、音楽は内側にあるモノの表出であるというので、それなら効果音でしかないのではないか、と。

この問題は、ダンスという身体表現その物についてかなり本質的な問題であるように思う。
最初の人の場合も感じたことなのだけれど、踊っている身体が現しているのは、情景なのか、情景の中にいる何かなのか。そういうモノを超えるところにある何かであって欲しいのだけれど。

内面の表出であるなら、音楽は、誰かの作った「作品」を「選曲」するという行為は何なのか。それが語ってくれるモノ? そこに起こる違和感はどう説明されるのか。


去年初めてダンスを見て書いたこと、

最初の人は、日本語の歌詞が入った音楽を使って、かなり具象的だったので、むむむむむぅと言う感じで、自分としては、どうかと思った。
2番目に、松田空さんという、静岡在住の人が出てきて、白いドレスで踊った。音との調和、裏切り、はぁ、これは面白い物だ、と思った。

正直、松田空さん(この人が、正確には「静岡在住」でないことを知ったのはずっと後のことだ)のダンスを憶えていないのだけれど、音楽に合わせ、同調して踊るのでも、踊りの説明として音楽があるのでもないと言うことは感得できたと思っている。


さて、佐藤さんの踊りに戻る。
ディスカッションの中で、彼女の意図していたことがかなり誤解されていたらしいことが明らかになっていった。その過程も面白かったのだけれど、私自身は、もっと深められるテーマが見えてきたことのほうを楽しんだ。

彼女は、「歩きたいけれど歩けない」ひとがやがて歩き出すまでの……というような話をしたのだけれど、「歩きたい」という意識が最初から在るのをやめたらどうか、と。音楽は外在的なモノとして最初からあって、それをどう受容して、ナニモノでもない身体がどう目覚め、動き出すのか、と言う問題。
そのとき、かなり批判された「型」を積極的に使う意味も出てくるように思う。生まれてくる何かにとって、意味不明の、ノイズでしかない音に、時に同調し、時に反発しながら、多くの型を吸収し動き出し、やがてその先の境地を切り開く、と言う流れは、多分普遍的なテーマとして使える。どうぞ。

そうそう、私は、彼女の服装や選曲を支持します。

ところで、佐藤さんが時々鼻をクシュっとやったのはわざとではないらしい。
なんだ。そうか。期待したんですが。
アンジェラの「ウィルス役のひと」が、曲の合間にシャツを直したのはどうだったんだろう。演技だとしたらなかなか。もし演技でないとしたら、相方の演技が終わる前に休憩したのは失礼だ。



話は変わるが、永井愛の『ら抜きの殺意』は、役者泣かせな芝居だ。ら抜きはら抜きで、「正調」は正調で、言い間違いも演技として要求される。
文章表現の授業でも、登場人物が知識不足で思い違いをするセリフには苦労する。
たいていの場合、書いてる学生の知識に間違いがあったりするので。

身体表現の場合も、ミスなのか、意図的なのか、と言う極限が面白いし、意図しても不可能なモノをどうするか、と言うところに本質的な興味がある。現代陶芸とかもかなり近い。

去年の公演で一番の衝撃だった「しげやん」さんなら、この問題をクリアしてくれるのではないかと思う。そうそう、バラの花びらがどう動くのか、と言うことは、完全には予測不可能であったはずで、それを演技の中で昇華して見せたのはやはりさすが。

佐藤さんは、彼女のワークショップで覚醒したらしいのだけれど。だからこそ、次に期待。


去年の公演から、昨日までの間に、松田空さんとマシマさんのアトリエで少しだけ話をし、先月は伊藤虹さん・松田空さんのデュエット公演を見、懇親会でお二人とも話をし、更に空さんと対話し……。そういう交流の中で、そして、昨日の審査会・交流会を経て、ダンスその物に対する理解が深まったという実感は全くないのだけれど、ここに、とても大切なモノが存在している事実は、もはや否定のしようがない。
絵でも良いし、音楽でも良いのだけれど、身体という不如意なメディアを使い、どこから来てどこへ行くのかも判らないナニモノかを変換してみせる行為は、究極的な表現だな、とは。

そのとき、音楽が必要なのかどうか、言葉或いは声を排除することの是非は。
或いは面を被るとか。

去年の公演「しげやん」への感想。
自分の身体が、どのような物であるかを知り、細部まで意識化し、言語化し尽くし、その果てに、それら全てを相対化し尽くした先に、身体化、ということがある。“身(み)”。

そういうことかな。

しばらくつきあってみようかな、と思っている。


060620 12:04 以下を加筆・ここまでの部分も一部訂正

審査会の主催者でもある関川さんが「ダンスリテラシーを伸ばして、……」と言うようなこと仰っていて、解るんだけど、一方でまたしても考えるのは“リテラシー”という言葉もまたメタファーでしかないと言うこと。

別の所で伊藤虹さんが

究極、考えてわかるみたいな世界ではやれないこと、
それぞれの表現がありますが、踊りだったら、踊り。
究極の存在。


と仰っていたことが、とても気になる。
メタファーでもアナロジーでもない何か。
そっちの方が余程本質的であるはずの何か。
そこに、どうやっていくのか。
虹さんが、日本の伝統文化に接近しつつあることにも期待している。


おなじく、松田空さんの言葉。

はじめから言葉で表現する術を備えていたら、
こんなに踊ることを求めたりしない。

『なんとも形容しがたい』

という形容は、時に用いられるけれど、外側にある、私たちの言葉或いは尺度では量り知れないものの一片一片が、私たちの身体の内側では波紋を構築し、それを再び外側に押し出したときには、目に見えるあるひとつの形となって存在し得る。

そう信じている。


このイメージは、コミュニケーションのモデルとして、実は言語表現でも同じ事が起こっているんだろうと思うのだけれど、そして私はそちら側に生きているわけだが、だからこそ、その可能性を信じたいし、目の当たりにしたい。

しかし、お二人とも、なんだかんだ言って、ちゃんと言葉を持った上で身体を駆使しているのだからかなわない。審査会で見た人たちと、そこが全く違う。上の方で書いた“身”の問題に戻るのだけれど。

久々に、戦闘意欲に駆られるジャンルなのだよな。
このままで終わってたまるか、と言う感じ。


*虹さん・空さん、無断引用、ご容赦を。

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