秋だというのに~、って『メランコリー』ですね。
……全然涼しくならないんですが、秋イベントがごろごろ。
で、ここ数日のキーワードは“素人芝居”、ということになりそう。
9/11は、野外劇場“有度”で、“SPAC県民劇団がくらく座”第1回公演「こだまがきこえる杜」。
10日に続き、二日間ともほぼ満席の由。
ちょっとしたお祭り騒ぎの様相。
身内の知り合い、という感じのネットワークがあって、土曜日にも意外な人と出くわしたり。
私は、伽藍の佐藤さん以外知り合いはいないので、まぁ、アウェイ。祭の外のひとだ。
この芝居に関しては、ク・ナウカの阿部一徳さんがかなり厳しい意見を書いている(9/10)。
演劇として、ということでいうなら、私も同じ意見。
佐藤さんが何を、どんな芝居をやりたかったのか、正直解らなかった。
地域のネタで、地域の人たちと、地域でやっていくことで、“何か”が生まれるなら、それはそれで良いとおもう。
それに対価を払うことも、意味があるだろう。
ただ、今、この方向で良いのかどうか、疑問が残る。
SPAC(ミヤシロ様!)は、前の監督と違って、地域の様々なアマチュアを巻き込みながら演劇文化を浸透させることをかなり熱心にすすめている。
こどもたちのワークショップも盛んに行っていて、「こだま……」にも、前に『唐版 風の又三郎』に出ていた若者が出演していた。
『唐版 風の又三郎』といえば、高等学校の演劇部合同公演の『転校生』にも、出演者が出ていたのだった。
『転校生』のインパクトというのは恐ろしく強くて、アマチュアも適材適所、ちゃんと機能すれば間違いなくすごい事が出来る、ということがはっきり認識されてしまい、その分こういう企画への期待も高い(飴屋法水のその後の展開も、“アマチュア”ということが一つの大きな鍵になっていると思うし、桜井圭介のいう「子ども身体」という概念も、どこかで微妙に繋がってくるのかも知れない)。
今期のSPAC公演、『ユメミルチカラ』も、スノドの柚木さんが書いているように、現代芸術の動きに敏感な人たちが大注目の舞台で、“予想通り”、絶賛の嵐だった(私は1年前から決まっていた“夏合宿”で行けなかったんだけれど、聞いたところでは、伊豆の公演の集客が厳しそう、という話だし、ひょっこり行ってくるかも)。
アマチュアの身体に対する期待の地平の上昇は、やる方にとってはしんどい話だろうけれど。
12日の午後は、“グランシップ静岡能 能楽入門公演”。
これも、もう何年ものつきあいで、実は招待券を戴いている。感謝。
文字通り、老若男女、20人以上の“素人”が、謡や仕舞を披露した。
今年は留学生を含め、数人の学生をお稽古に送り込んだんだけれど、今日の舞台には立てず。どうやらみんな日程が合わなかったらしい。残念無念。
全体に、う~~ん、というできばえだったけれど(一人、一番小さな女の子の姿、振舞いがとても綺麗で目を引いた。「いみじうおひさきみえてうつくしげなるかたちなり」という風情)、第二部の解説付きの公演も含め、こういう活動をずっと続けているグランシップや観世家の人々には、本当にありがたい、としか言葉がない。
さて、実は、12日の午前中は、『パリ20区、僕たちのクラス』という映画を観、そのあと、おなじみ、コルベイさんの講演を聴いたのだった。
この映画は、パリの“問題校”(日本の中学校に相当?)をドキュメンタリー風に撮ったもので、実際にワークショップなどに参加した子供たちが出演している。“主演”の国語教師は原作者でもある元教師。
ワークショップ・オーディションを通して出てきた“リアル”な言葉や状況を再構築して台本化し、改めて本人ではない誰かのせりふとして割り振って“演技”させているらしい。だから登場人物は皆本名で出演しているけれど、演じられているのは“自分”ではない。
移民の多い“底辺校”で起きる本当に様々な問題。それから“自己紹介”という課題。さりげなく組み込まれるピタゴラスや、生殖や、プラトンや……一つ一つの話題が、個別的で在りつつ、普遍的な深みをもちながら、しかし何処にも結ばずに過ぎていく。
ん、これって???
そう、これは、究極の『転校生』だ。
映画では、こういうやり方が出来る。
いや、映画でも、ここまでやればカンヌで大賞の水準。
コルベイさんの解説によると、この映画(というか、この映画の描く教育現場のやり方)には、厳しい批判もあり、論争にもなっているらしい。
色んな意味で語り合うべき作品だと思う。
話が逸れた。
演技経験のないアマチュアを、どう動かすか。
いきなり高いスキルを求めてもどうしようもない。
能楽は、そこで、基本的な姿勢や心構えを伝え、“型”を身にしみこませる。
『転校生』や『パリ……』では、出演者たちの内省が、芝居そのものの深さとリンクしているように思う。
で、さて、『こだま……』はどうだったのか。
短い期間で、他者の物語をどう我が事として振る舞うのか。
或いは、他者は他者として演じるのか。
私にはよく解らない。
私は教師という役割を演じているのか、それをそれとして生きているだけなのか、それは何処が違うのか。
長くなりそうなので、取りあえず。
……全然涼しくならないんですが、秋イベントがごろごろ。
で、ここ数日のキーワードは“素人芝居”、ということになりそう。
9/11は、野外劇場“有度”で、“SPAC県民劇団がくらく座”第1回公演「こだまがきこえる杜」。
10日に続き、二日間ともほぼ満席の由。
ちょっとしたお祭り騒ぎの様相。
身内の知り合い、という感じのネットワークがあって、土曜日にも意外な人と出くわしたり。
私は、伽藍の佐藤さん以外知り合いはいないので、まぁ、アウェイ。祭の外のひとだ。
この芝居に関しては、ク・ナウカの阿部一徳さんがかなり厳しい意見を書いている(9/10)。
演劇として、ということでいうなら、私も同じ意見。
佐藤さんが何を、どんな芝居をやりたかったのか、正直解らなかった。
地域のネタで、地域の人たちと、地域でやっていくことで、“何か”が生まれるなら、それはそれで良いとおもう。
それに対価を払うことも、意味があるだろう。
ただ、今、この方向で良いのかどうか、疑問が残る。
SPAC(ミヤシロ様!)は、前の監督と違って、地域の様々なアマチュアを巻き込みながら演劇文化を浸透させることをかなり熱心にすすめている。
こどもたちのワークショップも盛んに行っていて、「こだま……」にも、前に『唐版 風の又三郎』に出ていた若者が出演していた。
『唐版 風の又三郎』といえば、高等学校の演劇部合同公演の『転校生』にも、出演者が出ていたのだった。
『転校生』のインパクトというのは恐ろしく強くて、アマチュアも適材適所、ちゃんと機能すれば間違いなくすごい事が出来る、ということがはっきり認識されてしまい、その分こういう企画への期待も高い(飴屋法水のその後の展開も、“アマチュア”ということが一つの大きな鍵になっていると思うし、桜井圭介のいう「子ども身体」という概念も、どこかで微妙に繋がってくるのかも知れない)。
今期のSPAC公演、『ユメミルチカラ』も、スノドの柚木さんが書いているように、現代芸術の動きに敏感な人たちが大注目の舞台で、“予想通り”、絶賛の嵐だった(私は1年前から決まっていた“夏合宿”で行けなかったんだけれど、聞いたところでは、伊豆の公演の集客が厳しそう、という話だし、ひょっこり行ってくるかも)。
アマチュアの身体に対する期待の地平の上昇は、やる方にとってはしんどい話だろうけれど。
12日の午後は、“グランシップ静岡能 能楽入門公演”。
これも、もう何年ものつきあいで、実は招待券を戴いている。感謝。
文字通り、老若男女、20人以上の“素人”が、謡や仕舞を披露した。
今年は留学生を含め、数人の学生をお稽古に送り込んだんだけれど、今日の舞台には立てず。どうやらみんな日程が合わなかったらしい。残念無念。
全体に、う~~ん、というできばえだったけれど(一人、一番小さな女の子の姿、振舞いがとても綺麗で目を引いた。「いみじうおひさきみえてうつくしげなるかたちなり」という風情)、第二部の解説付きの公演も含め、こういう活動をずっと続けているグランシップや観世家の人々には、本当にありがたい、としか言葉がない。
さて、実は、12日の午前中は、『パリ20区、僕たちのクラス』という映画を観、そのあと、おなじみ、コルベイさんの講演を聴いたのだった。
この映画は、パリの“問題校”(日本の中学校に相当?)をドキュメンタリー風に撮ったもので、実際にワークショップなどに参加した子供たちが出演している。“主演”の国語教師は原作者でもある元教師。
ワークショップ・オーディションを通して出てきた“リアル”な言葉や状況を再構築して台本化し、改めて本人ではない誰かのせりふとして割り振って“演技”させているらしい。だから登場人物は皆本名で出演しているけれど、演じられているのは“自分”ではない。
移民の多い“底辺校”で起きる本当に様々な問題。それから“自己紹介”という課題。さりげなく組み込まれるピタゴラスや、生殖や、プラトンや……一つ一つの話題が、個別的で在りつつ、普遍的な深みをもちながら、しかし何処にも結ばずに過ぎていく。
ん、これって???
そう、これは、究極の『転校生』だ。
映画では、こういうやり方が出来る。
いや、映画でも、ここまでやればカンヌで大賞の水準。
コルベイさんの解説によると、この映画(というか、この映画の描く教育現場のやり方)には、厳しい批判もあり、論争にもなっているらしい。
色んな意味で語り合うべき作品だと思う。
話が逸れた。
演技経験のないアマチュアを、どう動かすか。
いきなり高いスキルを求めてもどうしようもない。
能楽は、そこで、基本的な姿勢や心構えを伝え、“型”を身にしみこませる。
『転校生』や『パリ……』では、出演者たちの内省が、芝居そのものの深さとリンクしているように思う。
で、さて、『こだま……』はどうだったのか。
短い期間で、他者の物語をどう我が事として振る舞うのか。
或いは、他者は他者として演じるのか。
私にはよく解らない。
私は教師という役割を演じているのか、それをそれとして生きているだけなのか、それは何処が違うのか。
長くなりそうなので、取りあえず。
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