「市民と静大、共同企画講座をすすめる会」通称「あっぱれ会」。
もともと、存亡の危機にある文科系基礎学の、静岡に於ける拠点であるべき言語文化学科を市民側から支えるために、学科共通科目「情報意匠論」と「静岡の文化」を提供する組織として出来たものだ。
しかし、名称からはそういう「文系エゴ」「学科エゴ」は伝わってこない。
そうして、実際に動き出し、転がりだして得られた成果は、社会の中で学ぶことの重要性への認識であり、地域と大学生の連帯も生まれた。
学生が、大学の中で完結しない。これは大事なこと。
「卒論ミュージアム☆」にしても、門前塾にしても、既に「言語文化学科」の枠組みの外に展開している。
それは、関わったオトナたちからも、学生たちからも、肯定的に受け止められているし、私自身良いことだと思っている。
ただ、そこに関わったオトナたちにとって、大学は魅力ある物に見えているだろうか。人文学部言語文化学科の輪郭は明確になっただろうか。
学生たちは、大学で学ぶことの重要さに気づいて、教室に戻っただろうか。
「文学」や「語学」の基礎を学び、古典を読むこと、言葉の仕組みを識ることと、実社会で生きることの関連を実感しているだろうか。
私には、そうは思えない。
相変わらず、大学はつまらない場所で、授業に出ているより、社会勉強をした方が実社会で生きていくために役に立つ事が沢山ある。
大学は4年間のモラトリアムであって、単位をこなしながら地域のオトナたちとの関わりを持つ時間を大事にするのが学生の特権。
そう思わせている一番の原因は、大学の授業に魅力がないからなんだと言うのは、否定しがたい。
そのことを、却って際だたせる結果になってしまったらしい。
つまり、あっぱれ会というひとつの成功した実践例は、どこかで軌道を逸れてしまい、あらかじめ設定した標的ではない、別の、しかしもっと大きな物に命中したようなのだ。
何度も言う。
それは勿論悪いことではない。
しかし。
それにしても、これでは結局、「文学教育不要論」を推進することに力を貸したことになる。
それは勿論私の本意ではない、どころか、全く逆だ。
この方向に進めば、私の居場所は無くなる。
と、そんな小さな問題ではない。
文化を、教室で学ぶことの意味を問い直さないと。
中野三敏先生が『読切講談大学改革―文系基礎学の運命や如何に』 (岩波ブックレット (No.449))を出されたのは98年3月。今からちょうど10年前だ。
私も、01年以降、言語文化学科の存在意義についてホームページに色々書いた。
そういう危機感の上に、あっぱれ会はあったはずだ。
“理科離れ”については、さんざん議論があり、国語教育の重要性も、そのころよりはよほど表に出てきているように見えるのだけれど、“文系基礎学”軽視の流れは、全く変わっていない。
だから、私は、あっぱれ会とは別の展開を模索しなければならない。
学生の特権は、何ものにも妨げられずに大学の教室で学べる、という事に尽きる。
もともと、存亡の危機にある文科系基礎学の、静岡に於ける拠点であるべき言語文化学科を市民側から支えるために、学科共通科目「情報意匠論」と「静岡の文化」を提供する組織として出来たものだ。
しかし、名称からはそういう「文系エゴ」「学科エゴ」は伝わってこない。
そうして、実際に動き出し、転がりだして得られた成果は、社会の中で学ぶことの重要性への認識であり、地域と大学生の連帯も生まれた。
学生が、大学の中で完結しない。これは大事なこと。
「卒論ミュージアム☆」にしても、門前塾にしても、既に「言語文化学科」の枠組みの外に展開している。
それは、関わったオトナたちからも、学生たちからも、肯定的に受け止められているし、私自身良いことだと思っている。
ただ、そこに関わったオトナたちにとって、大学は魅力ある物に見えているだろうか。人文学部言語文化学科の輪郭は明確になっただろうか。
学生たちは、大学で学ぶことの重要さに気づいて、教室に戻っただろうか。
「文学」や「語学」の基礎を学び、古典を読むこと、言葉の仕組みを識ることと、実社会で生きることの関連を実感しているだろうか。
私には、そうは思えない。
相変わらず、大学はつまらない場所で、授業に出ているより、社会勉強をした方が実社会で生きていくために役に立つ事が沢山ある。
大学は4年間のモラトリアムであって、単位をこなしながら地域のオトナたちとの関わりを持つ時間を大事にするのが学生の特権。
そう思わせている一番の原因は、大学の授業に魅力がないからなんだと言うのは、否定しがたい。
そのことを、却って際だたせる結果になってしまったらしい。
つまり、あっぱれ会というひとつの成功した実践例は、どこかで軌道を逸れてしまい、あらかじめ設定した標的ではない、別の、しかしもっと大きな物に命中したようなのだ。
何度も言う。
それは勿論悪いことではない。
しかし。
それにしても、これでは結局、「文学教育不要論」を推進することに力を貸したことになる。
それは勿論私の本意ではない、どころか、全く逆だ。
この方向に進めば、私の居場所は無くなる。
と、そんな小さな問題ではない。
文化を、教室で学ぶことの意味を問い直さないと。
中野三敏先生が『読切講談大学改革―文系基礎学の運命や如何に』 (岩波ブックレット (No.449))を出されたのは98年3月。今からちょうど10年前だ。
私も、01年以降、言語文化学科の存在意義についてホームページに色々書いた。
そういう危機感の上に、あっぱれ会はあったはずだ。
“理科離れ”については、さんざん議論があり、国語教育の重要性も、そのころよりはよほど表に出てきているように見えるのだけれど、“文系基礎学”軽視の流れは、全く変わっていない。
だから、私は、あっぱれ会とは別の展開を模索しなければならない。
学生の特権は、何ものにも妨げられずに大学の教室で学べる、という事に尽きる。
シンポジウムへのコメント、ありがとうございます。
今回は「県大+参加団体」への広報のみで、静大生はいませんでした。
テーマの「学生がキャンパスを変える~社会を変える!」は、私の個人的な想いも反映したモノではありますが、内容的には、まだまだ深堀が必要との認識を持っています。
また、参加学生の意識はもちろんですが、サポートする側の人間の意識や立ち位置に関してももっと注意を払わなくてはいけないと感じています。
いろいろ考えさせられたシンポジウムでした。