コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

古典へ

2009-07-07 21:04:49 | 
『ふたりの女』は、かなりめんどくさい作品だ。
『源氏物語』「葵」がベースにあって、能の『葵上』があり、三島由紀夫の『近代能楽集』「葵上」と来て、唐版。
それぞれが、その分野で“古典”になっている。
今回はその“唐版”の宮城演出。
これだけの蓄積があるともう、考えるのも疲れる。
でも、ホント言えば、『源氏物語』だって、その前を承けて成り立ってるんだよね。



宮城氏は『ふたりの女』当日配付資料「演出ノート」で

今回初めて気づいたのは、唐さんの戯曲が「レチタティーヴォ(叙唱)とアリア(詠唱)、そしてクライマックスの二重唱」という、古典的なオペラに似た形式を備えているということだ。現代において「リリシズム」を表現しようとするにはこの古典的な形式が必要なのだろう。

と書いている。
ん~。
これってつまり、リリシズムを喪失した今、敢えてそれを表現したかったら、古典の様式に従うしかないんじゃないか、と言う話、で良いですよね。

日本的抒情主義は浪花節にとどめを刺すと思ってるんだけど、実際、今やると明らかにお笑いでしかない。
んで、『ふたりの女』の、抒情は、抒情として成立し得たか、と言う話。


冒頭、ノイジーな音響とアジ演説風の絶叫と、白塗りの舞踏と。
それから「砂に書いたラブレター」。
ここから、後半の“リリシズム”へ、どう持ち込むか、という……。

実はアジ演説やシュプレヒコールというのはきわめてリリカルなものだった、というのは、例えば中島みゆきの「世情」(78年)を思い出しても良いし、そもそも、それは簡単に笑いにも涙にもなり得たことは、つかこうへい“飛龍伝”を想起しても良い。

『ふたりの女』初演は79年だという。
どんな演出だったんだろう。
飴屋法水が音響やってたんだろうか。


以下、初演を知らないので、そのことは無視したまま書きます。
リリシズムのことはさしあたり棚上げして、まずは演出の効果など。


舞台、まず目につくのは文字通りの“桟敷”。
舞台そのものの床面が、全て障子戸のような桟によって10cmほど高くされている。
そして、役者たちは皆、足袋を履いている。
そして背後には材木を組み合わせて川のように奥に向かって延びていく道(?)。

この劇場は本当に、森の奥行きが素敵だ。


さて、この床では、演技しにくい。
当然。
しかし、鍛え上げられた身体をもってして、あたかもフラットな床の上にいるかのように普通にやりとりが展開し……、となれば、それはそれですごいんだけれど、そうはならない。
かといって、追いつめられた身体が叫び声を押し殺しながら“演技”してみせる緊張感を味わうべきなのか、といえば、実はそうでもない。

勝手な推測を言うなら、この装置は、例えば現実の不確かさや、“浮遊感”、文字通り“浮き足だった”世界の象徴なのかも知れないけれど、観客に対しては、常に“役者の身体”を意識させる仕掛けの意味があると思う。

しかし、何のことはない、役者の足は“地に着いている”。
歩きにくい岩場を歩くように足元を見る俳優もいて、この装置の狙いが何だったのか、考え込んでしまう。
少なくとも、あの床は、観客である我々には見えていて、“演じられている誰か”に取っては存在しない物ではないのか。

“演じている誰か”が“不意に”顔を出す為の仕掛け?
あぁ、それなら納得がいくかな。
でも、そしたら、10cm下にある舞台の床に着く足とは?
意図的な演じ分けがあったのかな。


これも、あとで書くつもりなんだけれど、同じ日の昼間観た映画『劔岳 点の記』では、役者たちは、本当に劔岳に登頂している。
本当に、命懸け。
その、極限で、本当に登ったことで、あの表情が生まれる。
それは演技なのかどうか。
登ったのは、柴崎なのか、浅野なのか。
役者が、作中人物として、本当に山に登った。
それは、“演技”、なのかどうか。

同日だったこともあって、ちょっと考えてしまった。
『ふたりの女』の役者たちは、あの桟が10mだったら同じ事が出来ただろうか。
まぁ、30cmでもいいけど。

せっかく甲野善紀がコメントを寄せているんだから、全員が一本歯の下駄で芝居してくれたらもっと伝わったと思うなぁ。

おっと、なんだか意地悪が過ぎたか。
勿論、足の裏の感覚を確かめながら演技するというのは、並大抵のことではない。
私には無理。
にしても、そういう“絶対的な”切迫感が欠けていたように思うのであります。
そんな物は狙ってない、といわれればそれまでですが。




音響のこと。

見えない壁。
見えないドア。
見えない鍵。
見えない電話……。
ドアや鍵や、海岸の波は“リアル”な(というか、あざとい)音で示される。
見えないのはそうした“道具”だけではない。
人と人との距離感も無視され、接触しないで殴ることが可能な世界。
それなら投げた蜜柑は何? あやとりは?
段ボールのレーシングカーは??

我々は、パントマイムによって壁を幻視することが出来る。
しかし、その壁は、“演じられる誰か”には存在しているのか、その誰かにとっても幻覚でしかないのか、判然としない。

この芝居の、というか、この演出のキモは、この辺にありそうな気がする。

主演女優は“二役”なのか“六条の憑依したアオイ”なのか、どちらでもないのか。
主演男優は医師光一なのか、医師と言うことになっている患者なのか、どちらでもないのか。

化粧水なのか髪油なのか、アパートの鍵なのかバギーの鍵なのか。
病室なのか海岸なのか。

我々が、見、聴いているのは、“誰”の目・耳の感覚なのか。

演じているのか演じられているのか。
狂人のまねをして裸で疾走すれば狂人。
誰が、誰に取り憑いているのか。
憑霊というのは、モノガタリの、そして勿論演劇の、最も始原的な姿だ。

まぁ、ホントか嘘か判らない“伝説”だけれど、紫式部本人より『源氏物語』の登場人物の方が歌がうまい、という話もあるしね。

あぁ、そういえば、シアタースクールで覗かせて頂いた『唐版・風の又三郎』も、そういう話だったな。
この作品が『源氏物語』以来の諸作品を模倣しているのか、この作品の登場人物たちが、“古典”を模倣しているのか。

結局のところ、“本当は”誰が“実在”なんだろう。
全くつまらない思いこみで“妻”になってしまう六条も、やたらヒステリックなアオイも、王女メデイアや、宮城氏が再生せしめたデズデモーナのような存在感は希薄だ。
それは、主体性のない光一が、勝手に思い描いた“女”なのではないのか。
ん、それなら光一は実在? 医者? 患者??

そして、笑いに堕しないギリギリのところで、リリシズムを実現しようと思ったら、狂気しかない、ということなのかな。
そして、ベタな抒情歌謡風BGM。


なんだかやたら長くなってしまった。
そして、ワケ解らなくなってきた。

“不条理”とか“前衛”とか、意味や解釈を拒絶するような言い方をされることがあるけれど、だからこそ、そこに何を見てしまったのか、ちゃんと書いておきたいし、いつか、誰かと話のネタにしたいな、と。
だから、我ながらハチャメチャだなぁ、と思っても、書いておきます。




傘が宙を舞うあたりで、ベトつくような髪油のにおいがあの夜風に乗って漂ってきたら素敵だったろうなぁ。

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