棚田地帯を眺めていると、不思議な現象を目撃する事に。水稲と言って、水を主体とした稲作だが、圃場である田圃から水が消えているのだ。7月の中旬前後、何処の田圃でも行われる「中干し」が始まったのだ。師匠の田圃を覗いてみたら、画像のように丁度水を抜き終わった段階と思え、少し湿った土の状態だった。やがてこれが乾燥してひび割れが生じ、彼方此方の田圃が皮靴でも平気で歩けるようになってくる。中干しには明確な目的があって、稲作の中間的な作業でもあるのだ。主な目的は、①土中に酸素を補給し根腐れを防ぐ、②土中から有毒ガスを抜く、③窒素の供給を押さえ過剰な分けつを防ぐ、といった点にあり、稲刈りへの準備でもあるだろう。再度水入れは行うのだが、一端乾燥させて土を硬くしておけばコンバインやバインダーなどが走りやすい。
中干しが始まると稲作も峠を越えたな・・・・・・・といった印象で、秋の稲刈りへの期待も膨らんでくる。但し、雑草の処理は続いており、手法によっては大変な労働ともなってくる。今は止めてしまったが、我々が稲作を行っていた頃は田圃に入り、歩き回りながら手作業で雑草を抜き取っていた。腰に負担が掛かり悲鳴を上げながらの作業でもあったのだ。今は、大半の方が除草剤の使用であろう。除草剤の使用に関しては賛否両論あるかと思うが、作業の過酷さを考えれば一概に否定も出来ない。机の上で空論を語るのは簡単な事なのだ。
田圃は青々として稲も元気が良さそうだ。今年はまだ台風の影響も受けておらず、このままの進捗を期待したいが、こればかりはお天気次第。直撃されると目も当てられないような被害が生じることも。農作業は自然界の支配下の世界、人知の及ばない領域も存在するのだ。「田圃の中干し」に見られるように、稲作はご先祖様達の遺産に頼る部分が多い。伝統を踏まえながらも少しづつ機械化や改良を加えて、稲作の省力化を図りたいもの。それでなくとも従事者の減少と高齢化で、農作業というか食料生産は危機的な状況だ。自前の食い扶持は自分達で確保したいもの、他国に頼るようでは首根っこを押さえられた状態、自立的な生存は不可能となってくる。