好きに生きていい その2

2019-06-13 09:04:34 | 日記

好きに生きていい  その2

人は あるがままの自分ではなく

あるべき姿っていうのを目指させられている。

未来将来こんな小学校に入った方がいい

こんな中学校に入った方がいい

こんな高校に入った方がいい

こんな大学に入った方がいい

こんな会社に入った方がいい

こんな地位についた方がいい

いい続けるわけですいわゆる教育者と呼ばれる人たちというのは

常に未来のあるべき姿 というのを提示し続けます。

それは

重要人物であるということが大切だとエゴは思っていて

その重要人物だと周囲の人から思われるために線路を引いているからです。

 

中学高校大学 会社昇給昇進地役職

そういったものをどんどんどんどん提示しつつ

そういったものを持っていることを 社会の中から重要だと思われていることを

重視して あるべき姿っていうのを

常に提示し続けます。

 

あるべき姿を提示するとは

どういうことかって言ったら

あるがままの姿を否定するということ

 

今この瞬間はあるがままです

そこにあるべき姿っていうのが提示されれば

間接的にあるべき姿とあるがままの間に

ギャップができますから

あるがままの姿が否定されたことになるわけです

 

だからあるがままの姿が否定されているので

当然過去全ても否定ですよね

なぜなら今のあるがままに導いてきたのは

過去だから

あるがままが否定されたということは

過去全てが否定された

その教育で自信を持てと言われても

それは不可能に近いわけですよ

 

 

じゃあいい中学校に入りました

頑張って勉強しました

いい中学校に入ったすぐにいい高校が提示されます

 あるがままのあなたじゃダメだから

あるべき姿はこっちだよと

頑張って勉強して高校に入りました

そしたら 大学が提示されるわけです

あるべき 姿はこっちだよと

それはもう間接的にあるがままの否定なわけです

 

大学でまた今度はいい会社

いい会社に入れたら貴方は素晴らしい

しかしいい会社に入れなかったら

あなたは素晴らしくないと

 

権力的にずっと続いていくわけです。

いつもどの瞬間もあるがままの姿を肯定してはくれないのです

 常にあるべき姿を提示し続ける。

それは 相手のためでもなんでもない

相手のためでもなんでもない

 言う側のエゴなんです

 

常に 自分に対してあるべき姿を提示できるって言うのは

どこか上から目線なのですよ

私はもっと上のものをあなたに提示します

そしてあるべき姿を否定して間接的にいう側は

自分自身のエゴというのを守っているわけです。

 

親は常に子供よりも上なんだから

そして親の権威、親のエゴという牽引を守っているわけです。

だから 教えるって言うことをするわけです

こっちがいいよとこうした方がいいよと

学校の先生も一緒です本当は子供のためにも何でもないんですよ

あるべき姿を提示するっていうのはね

ただ単に自分のほうがものを知っていると

自分は正しい答えを知っていて

あなたは知らないから私が教えてあげるっていう方です

ただそれだけなんです。

それはね本人たちも悪気はないんですよ

意識的には悪気はないんです

 

ただ先祖代々ずっとそういうことが続いてきている

 淡々と淡々とね

その自分の親も自分を担当してくれた学校の先生も

またその親その先生からそういう ふうに教育されてきたわけです

 

好きに生きていいなんて言われたことがないだから

当然相手にも言えない自分自身も好きに生きていないわけです

でもそれはエゴが不安と恐怖によって作られたものです。

社会において作られたものであって

本当の姿ではないということを理解したいのです。