京都の闇に魅せられて(新館)

奈良特別編・元興寺 @ 京都妖怪探訪(421)





 どうも、こんにちは。
 今回は奈良まで足を延ばして、平安京よりも古くから伝わる有名な妖怪伝説の地を訪ねました。
 それは、平安初期に書かれた最古の仏教説話集、『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記・にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』に伝わっている、有名な鬼退治の伝説です。
 『日本霊異記』の最初から3番目「電(いかづち)のむがしびを得て、生まめし子の強力(ごうりき)在りし縁」という説話に記されている「道場法師」の話。
 雷の力によって生まれ、怪力を持った童子が、元興寺に出没する鬼を退治して、のちの「道場法師」と呼ばれる僧となったという伝説です。この時退治された鬼は、「がごぜ「がごぜ」「ぐわごぜ」と呼ばれ、『ゲゲゲの鬼太郎』や『ぬらりひょんの孫』など現代のエンターテイメント作品にも登場する有名な妖怪の一人として知られています。
 また、鬼のことを「がごぜ」とか「ぐわごぜ」などと呼ぶこともあるそうです。
 今回はそんな妖怪「ぐわごぜ」の伝説が遺されている奈良・元興寺を訪れました。

 まずはいつもの通りアクセスから。
 今回は、近鉄(近畿日本鉄道)「近鉄奈良」駅からスタートです。






 実を申しますと、昨年奈良国立博物館で行われた「正倉院」展を訪れたついで、だったのです。






 「正倉院」展に行った時のことは、本題から外れるので、また別の機会にしましょう。
 「近鉄奈良」駅前から続く、「ならまち商店街」を南へと抜けていきます。













 奈良交通バスの「田中町」停留所から5分ででも行けるそうですが、今回は「近鉄奈良」駅から歩いて行きました。


 元興寺の入り口が見えてきます。












 この元興寺は、元々は蘇我氏の氏寺だったそうです。
 飛鳥の法興寺が前身だそうです。
 つまり、蘇我氏や聖徳太子の時代からある、かなり歴史ある古刹ということです。
 藤原・奈良時代にには官寺として大きな敷地と勢力を誇ったそうですが、その後の長い歴史の中で勢力が衰え、現在は以下の2つの規模大きく縮小した寺院に分かれています。


(1) 西大寺の末寺で真言律宗に属する。奈良市中院町所在の元興寺。

(2) 東大寺の末寺で華厳宗に属する、奈良市芝新屋町所在の元興寺。


 今回訪れたのは、(1)の方です。
 平成10年(1998年)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産に登録されています。


 まずは本堂に礼拝します。





 本堂は国宝にも指定されている「極楽堂」という建物です。
 本尊は『智光曼荼羅(ちこうまんだら)』という極楽浄土の様子を描いた板絵の曼荼羅ですが、仏像ではなく浄土曼荼羅がご本尊とは珍しいですね。


 さてここで。
 『日本霊異記』に記された道場法師の鬼(妖怪がごぜ)退治の伝説を解説していきます。

 6世紀後半、敏達天皇の時代。
 尾張の国に住んでいたある農夫が、地上に落ちてきた雷神の生命を助けたお礼に、子供を授かります。
 その子供は、二匹の蛇が巻き付いているという恐ろしげな姿で生まれました。
 その子供は人並み外れた怪力の持ち主へと成長し、10歳の頃には、都で力自慢の皇族と力比べをして勝つまでになります。
 その子供は、後の元興寺の童子となります。
 その頃、元興寺の鐘堂(鐘つき堂)で夜毎に死人が出るという事件が起こります。
 子供の童子は自ら名乗り出て、この事件に取り組みます。
 4人の共を引き連れて、夜の鐘堂で待ち続けますが、真夜中に鬼が現れます。
 共の4人は恐ろしさのあまり動けませんでしたが、童子は鬼の髪の毛を掴んで引っ張ります。
 鬼は頭皮ごと髪の毛を抜かれて逃げていきました。
 翌朝、鬼が遺した血の跡を辿っていきますと、「寺の悪しき奴(やっこ)」埋葬した場所に辿り着きました。鬼の正体は「悪しき奴(注:寺で悪事を働いた者、身分の低い者などの意)の霊鬼」だったのです。
 『日本霊異記』の記述によれば、その時童子が引き抜いた鬼の頭髪は、今でも元興寺に遺されているという話ですが……。
 その後も童子は、寺の田に水を引くのを皇族が妨害した事件を解決するなど活躍をし、元興寺で出家して正式な僧となることを許され、「道場法師」と称されるようになりました。
 『日本霊異記』『今昔物語』には、同じように人並み外れた怪力を持った道場法師の孫娘の話も遺されていますが、その話はまた別の機会にでもしましょう。


 境内の散策を続けます。
 小さな庭にお茶席もある、県指定文化財「小子坊」。









 境内には、無数の石仏や石塔が並びます。












 こんな石仏(?)も。
 こうして見ると、妙にエロいような(笑)。






 弁財天を祀った祠も。






 歴代住持の石塔が並ぶ場所です。





 その中には、この寺が「極楽院」と呼ばれていた時期の名残りも。



 石舞台の脇に、修験道の開祖・役行者の像が。








 役行者といえば、奈良・葛城山を修行の場にしていた人物でもあります。
 本シリーズでは、第44回第408回で触れたことがありますが。
 葛城山といえば、かつて天皇以上の権勢を誇りながら、最後は「鬼」や「土蜘蛛」などとして闇に葬られた古代豪族・葛城氏ゆかりの土地だった場所。
 そういえば、元興寺の前身だった飛鳥の法興寺を作ったのは蘇我氏。この蘇我氏も、天皇を上回る権勢を誇りながら、最後は滅ぼされた一族。
 あの蘇我入鹿も死後、鬼や怨霊となって出没したという伝説も遺されています。
 そんな蘇我氏の氏寺だった場所に、同じように歴史の敗者となって「まつろまぬ民」として、「鬼」「妖怪」として葬り去られた葛城氏ゆかりともいうべき聖人が祀られている。
 何やら意味深です。
 そういえば、霊鬼(妖怪がごぜ)が現れたのも、またそんな伝説が遺されているのも、ここが鬼(蘇我氏の怨霊)に縁の深い場所だったからか、と思えてきます。


 国宝の「禅室」。





あと、本シリーズならばぜひ取り上げておきたいものがもうひとつ。
 それが、禅室のほぼ向かい側の、庭の一角にある「かえる石」です。








 現在では、「福かえる、無事かえるの名石」として親しまれていますが、この石はかつて大阪城の堀のそばにあって、「淀君の霊がこもっている」とか、「堀に身を投げた人もこの石の下に帰る」などの言い伝えがある、曰くつきの石だったとか。






 こうして元興寺境内の散策を終わりました。
 しかしこの境内の中には、妖怪がごぜ事件の現場は、道場法師と妖怪がごぜが戦った鐘堂はなかったようです。
 どこにあるのでしょうか。
 あるいは、どこにあったのでしょうか。
 そういえば、奈良市内にはここの他にもうひとつ、元興寺と呼ばれる寺がありました。
 シリーズ次回ではそこも訪れ、妖怪がごぜ伝説の地を引き続き追いたいと思います。









 それでは今回はここまで。
 また次回。




*元興寺へのアクセス・周辺地図はこちら




*元興寺のHP
http://www.gangoji.or.jp/




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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