京都の闇に魅せられて(新館)

一文橋 @ 京都妖怪探訪(554)





(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 そして、すみません。
 シリーズ第551回からシリーズ前回までに引き続いて今回も、京都府長岡京市と向日市(むこうし)にある伝承地を訪れました。
 一部には心霊スポットとの噂もある、「一文橋(いちもんばし)」です。


 まずは、いつもの通りアクセスから。
 向日市と長岡京市の境目、小畑川にかかる橋のひとつです。
 最寄りの交通機関は、阪急バス「一文橋」停留所です。








 橋の両側に停留所があります。
 JR「長岡京」駅、阪急電車「長岡天神」「東向日」駅などからバスに乗れそうですが、一日の便数があまりないので注意が必要です。


 橋の東側にある交差点にも「一文橋」の地名が。






 少し離れた場所から見た一文橋です。









 一見しますと、ごく普通の橋に見えますが……。
 橋の東側に、由来が書かれた小さな石碑が立っています。





 ここは古くから、西国街道など、交通の要衝でもあったようです。
 さらに、この橋がかかる小畑川は大変な暴れ川であり、何度も橋が流されていました。その為、通行人から一文ずつ徴収していたそうです。
 それで「一文橋」という呼び名がついたそうです。


 橋の欄干前にそれを示す一文銭の碑が。








 現在の橋は、平成5年に建て替えられたもののようです。
 
 
 この橋が何故、心霊スポットとされるようになったのか。
 その当時、橋の通行料金を徴収するのは前代未聞のことであり、この橋は日本史上最初の有料橋だったのです。
 通行人の中には、それが納得できない人たちや、貧しすぎて一文の通行料すら払えない人たちも居たようで、川を泳いで渡ろうとする人や、ただで渡ろうとして捕らえられたり、その場で斬り捨てられたりした人たちも居たようです。
 そんなことがあったから、夜になると多くの人魂が飛び交い、「橋を渡らせろ」という恨み声が一晩中聞こえ続けた、などの噂も流されたそうです。

 また半兵衛という、通行量を払えない貧者を気遣って、わざと知らぬ顔で見逃した橋守も居たそうです。
 この故事から「知らぬ顔の半兵衛」という言葉が生まれたという説もあります。


 さて、こんな故事・伝承を生んだ一文橋、小畑川とはどのようなものだったのか。
 少し興味がわいてきましたので、調べてみることにしました。
 ます、一文橋の上から観た小畑川、結構深そうな川です。






 下の河原に降りてみます。
 河原にこのような注意書きが。






 現在では近代的な堤防が築かれていますが、結構高く、下へ降りる階段は急になっています。












 川の中州に生えている草木も観察してみます。











 激しい水の流れによって草が倒され、木の幹や根元さえねじ曲げられているようです。
 雨などで増水した時は、相当な量の水が流れ、凄まじい急流・激流が発生するのだろうということがわかります。
 なるほど、この小畑川が大変な暴れ川であり、このような哀しい伝承も生んだ理由や背景というのがわかるような気がしてきました。






 今回はここまで。
 また次回。




*一文橋へのアクセスについてはこちらを参照(向日市観光協会より)。




*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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