京都の闇に魅せられて(新館)

首塚大明神(前編) @ 京都妖怪探訪(492)





(記事中の写真はクリックで拡大します)


 どうも、こんにちは。
 源頼光と四天王、平井保昌が、大江山で退治した酒呑童子の首を埋めたという、首塚大明神。
 そこを目指す第3回目。
 今回は、その首塚大明神を訪れ、その例祭を見ていきました。
 そこは有名な妖怪伝説地であるだけでなく、現在もなお心霊スポットとしても有名です。
 『京都妖怪探訪』シリーズをしているならば、必ず訪れなければならないと思っていた場所のひとつです。
 今回、年一度の首塚大明神例祭の日という機会でもありましたので、是非ともと思って訪れてみました。
 まだ桜の花咲く4月15日。
 シリーズ前々回の子安地蔵、前回の廃モーテル跡前を通り過ぎ、さらに山道を奥へと進みます。








 さすがにこの辺りに人家らしきものは見当たりませんでしたが、畑や建設業の資材・残土置き場らしき場所はありましたが。
 心霊スポットとその周辺だということもあって、正直びびりながら歩いていたのですが、こういう人の営みが行われているしるしのようなものを見つけて、少しほっとしました。
 途中にあった首塚大明神への幟と、方向を示す案内板を頼りに山道を歩き続けていると、小さな鳥居の神社の入り口が見えてきました。






 遂に来ました。
 これが首塚大明神の入り口の鳥居です。





 ここの噂のひとつに「鳥居をくぐると呪われる」というものがあります。
 それを知っていましたので、最初のうちは私も、この鳥居をくぐらないよう、横に避けて通っていましたが。
 しかしその後例祭が始まって人が集まってくると、少し考えが変わりました。
 あまり多くはないけど、ちゃんと氏子さんも居られるし。
 神域には鳥居を入っていくのが礼儀だし。
 そう思い直して、鳥居をくぐることにしました。
 いや、くぐるどころか。
 鳥居に、鳥居の「貫(ぬき)」という部分に頭をぶつけてしましました(注:この鳥居はあまり高くない小さな鳥居で、身長が170センチ少しの私でさえ、立って歩くと頭をぶつけてしまうほど低かった)。
 後から「あ、もしかしたら私は呪われるかな?」とも思いましたが。
 あれから一ヶ月、今のところ特に何事もなく過ごしております。
 「鳥居をくぐると呪われる」というのは迷信だったのか?
 ご祭神の酒呑童子さんは、今日は例祭でもあり、(詳細は後述しますが)お酒を供えて一緒に飲んだから、ご容赦か手加減をしてくださったのか?
 あるいは私の守護霊か、ご先祖様か、普段持ち歩いているお守りか、あるいは今までお参りした寺社仏閣の神様・仏様たちが守ってくださったのか?
 あるいはもうとっくに呪われた人生を送っているから、それ以上呪われてもどうせ同じ、ということか?(苦笑)。
 またまた別の理由でもあるのか?
 いずれにせよ、少なくともこれを書いている現時点では、とりあえず無事(?)に過ごしております。


 話を戻します。
 境内を進んでいきます。









 ご覧の通り、境内とは言っても、地面や木の根がむき出しの、ほとんど山林そのままの状態。
 この写真ではわかりにくいかもしれませんが、朝でもなお薄暗く、その為か涼しい……というより、ひんやりと冷たい、薄ら寒い空気が漂っていました。
 朝ですらそんな感じなのですから。
夜中の時間帯だったら、真っ暗な山林の中となるから、非常に気味悪い光景となるかもしれないな、とも思いました。


 ほとんど山林の中となっている境内、小さな山というか丘の上に、小さな祠のような本殿が立っていました。





 ここがあの、平安時代に都やその周辺で悪事の限りを尽くして、源頼光とその配下・四天王によって倒された、鬼たちの頭目・酒呑童子の首が埋められたと伝えられている場所のようですが。
 なお、伝説上で酒呑童子ら鬼たちが根城としたという伝説の「大江山」ですが、通説では京都北部にある「大江山」だとされているようですが、この老ノ坂峠がある京都市西京区と亀岡市との境にある「大江山」だとする説もあります。
 もしかしたらかつて、この辺りに酒呑童子が率いる鬼の集団が、あるいは「鬼」とされた山賊や盗賊の集団が、あるいは今で言う反体制武装勢力のような人々が根城を構えていたのかもしれない。そのようにも思えてきます。


 本殿の裏には、このような石が積まれた、塚のような場所が。





 参拝・祈願していった人たちが奉納した石が積まれていったのでしょうか。


 本殿の横に由緒と、酒呑童子退治の物語が記された石碑がありました。





 ここで、源頼光らによる酒呑童子討伐の伝説を振り返ってみましょう。
 平安時代、都で若君や姫君が行方不明になる事件が相次ぎ、陰陽師・安倍晴明に占わせたところ、大江山に棲む酒呑童子ら鬼たちの仕業だとわかります。
 時の帝(天皇)は、源頼光と四天王(渡辺綱坂田公時碓井貞光卜部季武の四人)、平井保昌らに、酒呑童子らの討伐を命じます。
 途中、頼光一行は、四人の老翁に出会います。その老翁たちは、石清水八幡住吉明神熊野権現日吉山王の4人の神様の化身でした。その4神から「神便鬼毒酒」という、人が飲むと力を得られるが、鬼が飲むと力を失うという神酒を授かります。
 やはり4神からもらった山伏の衣装に着替え、頼光、保昌、そして四天王の6人だけで山奥へと進んでいきます。
 やがて一行は、川で血の付いた布を洗う老婆に出会います。
 老婆は「ここは鬼の住処ですから、早く逃げなさい」と言いますが、頼光たちは「我々はその鬼を退治しに来たのだ」と告げ、老婆に何者かを訪ねます。
 すると老婆は、泣きながら身の上を語ります。
 「私は元々、都の貴族の妻でしたが、鬼たちに攫われてここに連れてこられました。ですが、やせてあまりおいしくなさそうだと思われたので、鬼の力で200年の寿命を与えられて、こうして下働きをさせられています」
 その老婆から鬼の住処への道筋や、中の様子などを聞き出し、頼光たちは鬼の住処へと辿り着きます。
 そして「道に迷ったので泊めてほしい」と言って、中に入れてもらいます。
 頼光は、宿のお礼だと4人の神様から授かった酒を振る舞います。
 鬼たちの大将格である酒呑童子、その副将核の茨木童子、星熊童子、虎熊童子、熊童子、かね童子などといった配下の鬼たちも出てきて、酒盛りが始まります。
 上機嫌になった酒呑童子は、次第に身の上を語り出します。
 酒呑童子の生まれについては、伊吹山説、越後説、大和国説などいろいろありますが、長くなりますので、また別の機会に。そのいずれでも、元は人の子として生まれたのですが、鬼となった後、比叡山へと流れてきます。
「自分は最初、比叡山に住んでいたが、伝教大師が延暦寺などといったものを創ったから、居られなくなった。その後、いくつもの山を転々としたが、最後はこの山に移ってきた。近年は、伝教大師弘法大師のような強力な術者も居ないので、やりたい放題している」
 やがて夜になると、頼光らは起きて、老婆の教えてもらった通り、酒呑童子の寝ている部屋へと忍び込み、その首をはねました。酒呑童子の首ははねられてもなお、頼光の兜に噛みつきましたが、「おのれはかったな。鬼はこんなだまし討ちをしないのに」と叫んで絶命します。
 その後、頼光たちは他の鬼たちも襲撃して、全滅させました。
 帰りに頼光は、血まみれの布を洗っていた老婆のいた河原に行きましたが、そこには人骨が転がっているだけでした。鬼が倒れて、本来の寿命に戻ったのだろうと、頼光たちはその骨を丁寧に弔いました。
 その帰り、酒呑童子の首を持って子安地蔵の場所まで来た時、子安地蔵から「そんな邪悪で穢らわしいものを都に入れてはいけない」と言われ、そこから首が全く動かなくなります。力自慢の“金太郎”坂田公時が持ち上げても全く動かず、やむを得ずその場所に首を埋めていきました。
 その場所が、ここ首塚大明神だと伝えられています。
 また酒呑童子は、死後は自らの罪を悔いて「これから先は首から上に病を持つ人々を助けたい」と言い残したという話もあるので、ここ首塚大明神は首より上の病気を治すというご利益がある、とも伝えられています。



 さて、その日は。
 年一度の首塚大明神の例祭日です。
 この後、氏子の皆さんが集まってきて例祭が始まりますが。
 記事がそこそこの長さになりましたので、今回はここで一旦切ります。





 この続きは次回に。




*首塚大明神へのアクセス・周辺地図はこちら




*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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