彼岸花

2024-10-01 11:33:44 | 日記
 とうとう10月1日です。2025のカレンダーを買ってきました。春のマラソン大会のエントリーが始まっているからで、今日は3月23日さが櫻マラソンのエントリー開始(先着順)です。ひざの具合が、何㎞、何時間の走行ができるのか、見通せませんが、当面は超スロージョグを続けるつもりであります。


 マイコースの彼岸花も今年は咲くのが遅く、少なかったですね。
9月27日彼岸も過ぎてやっと出てきました。

29日です。
川べりの風がようやく日中にも走れるほどとなりました。うはっ!(鵜の羽)恋だ。(鯉)


爺さんには、もうトキメキは来ないのかなぁ。

 猛暑で、補聴器が鬱陶しくて装着しない日が多かったのですが、何となく聞こえが悪いなぁ、、、耳鼻科の定期検査で聴力(言葉の聞き分け力)が下がっておりました。夏場に下がる人が多いそうです。一日30分の音読をしてくださいと指示あり。TVじゃだめだそうで、補聴器を着けて言葉を脳に入れて働かせるのだ、と。
「古事記」口語訳を読むことにしました。三浦佑之(作家・三浦しおんさんの父上)訳。
文字化以前にこの物語に介在していたであろう音声の世界へと錘鉛を下ろす』意図の口語訳、爺さんも、音読してみましょう。認知症予防であります。それにしても、舌を嚙みそうなややこしい名前の神様の多いこと!


 では、また。

山羊の歌(老いの繰り言・終)

2024-09-22 11:45:56 | 日記
 9月22日お彼岸です。先週末から朝は空気が澄み、我が町内から南には背振山がくっきりと見えるようになりました。暑さはまだまだですが、秋は近いようです。

昨深夜、秋雨前線の南下で雷雨激しく、横で寝ているグータラ娘がパニックになって、おかげで今朝は寝不足です。能登の皆様へ、大雨お見舞い申し上げます。


 平成23年(2011)3月末、爺さんは、再雇用2年を含めて38年間のサラリーマン生活から足を洗いました。『もうイヤだ。』『もうイイや。』と万感の思い積り、また、くたびれ果てたのでした。家のローンを退職金で返済して、幸い娘3人は、「失われた10年」に遭遇し回り道を余儀なくされながらも職業をみつけておりました。「老後の設計」などある訳もなく、(そもそもその頃は、こんなに長く生きながらえるとは思ってもおらず)「なるようになれ。」と(受給繰り下げもせず)年金生活に入ったのであります。満62歳でした。

 それからは、言わば引きこもり。本を読みふけります。トボトボと近所の走り歩きでお日様に会うのみです。
 自分の生きてきた時代は、どういうものだったのだろうか、父母、その兄弟、そして、我が家の流浪の旅は? 「日本近現代史」というジャンルのなかで探してみようとしました。
 走り歩きは、しだいに距離が延び、市民マラソン大会10kmから、ハーフマラソン、フルマラソン、とうとう四万十川ウルトラマラソン(100km)を完走したのは、2014年10月、65歳でした。

 平成27年(2015)は、終戦70年です。夏に終戦記念日が近づき、爺さんは、ふと短歌を詠みます。


        老兵の父は帰省し帰農せり山羊を率いて草山に入る

 朝日新聞「朝日歌壇」に初投稿、入選させてもらえました。選者は、馬場あき子さん。『八月帰省九月帰農』としていたのを『帰省し帰農せり』と推敲の上、わこちゃん、奈良の山添ママさん、瀧上さんと常連さんに続いて4席です。爺さんは短歌を趣味にしているわけでなく、その後はざれ歌を楽しんでいるくらいです。
 これまで繰り言に書きました我が家と我が歩みを、かいつまんで添え書きしていたのを心にとどめていただいたのでしょう。引きこもりの自分なりの勉強が認められたようでたいへん嬉しゅうございました。66歳です。 
 身体はマラソン、精神にはこの歌壇入選で、爺さんの人生の行く先には、虹が見えたようでした。馬場あき子さんは、爺さんの恩人であります。

 もっとも、兄たちは『何を今さら、オマエがそんなことを掘り繰り返すのか。』と困惑気味でしたが、『オマエは、ヤギのおっぱいにしゃぶりつきよった。』と語ってくれました。

 老いの繰り言は、終わります。振り返ると、自分の人生はおおごとやった、こんなに頑張った、ばかりですが、その陰には爺さんのことを「許せん」「あの野郎」と恨みいっぱいの方もいるでしょう。日本人の歴史の振り返り方、そのものですね。
 では。
 

続・わが生家は?(老いの繰り言5)

2024-09-15 10:50:55 | 日記
 9月15日です。相変わらず猛暑です。クーラーを入れっぱなしでゴロゴロしております。昨夏には、徹夜ロングランにも出かけていたのですが、もう無理かな。
 孫1号(小5)の俳句(?)です。


 昭和20年(1945)終戦の秋、父母、長兄(7)、次兄(1)は、筑前大島に帰郷します。が、同じく引き上げてきた兄弟家族大勢のため住むところなく、人家無き山中のあばら家に移り住み、ヤギを飼って暮らします。ヤギ乳を配達して幾ばくかの収入は得たようですが、それで一家の生計が成り立つものではなく、漁師であった母の弟たちの援助を受けていたのでしょう。ヤギは山にはなっておけば草で生きますし、当時の食糧難ではヤギ乳も小児の貴重なたんぱく源でした。(これもまたごくわずかの期間でしたが。)
 そして、この山中が、爺さんの生家となります。現在では、とうに跡形もなく、幼き日に「ここだった。」と教えられた付近は草原、藪に消えております。

 花田勝広氏『北部九州の軍事遺跡』によりますと。(抜き書きを含む。)

 「朝鮮海峡系要塞には、対潜水艦用の砲台が設置された。(筑前大島砲台には4基据えられます。アメリカ艦隊が進出するにつれ)要塞は健在であったが、制海権、制空権を完全に失っては、機能を発揮することはできず、潜水艦による魚雷攻撃、飛行機、空爆・機銃掃射にほとんど対応できなかった。(太平洋戦争末期には、)本土空襲の爆撃機の上空通過を知らせる通信施設に過ぎない状況となった。」
 昭和18年10月には、関釜連絡船崑崙丸が潜水艦魚雷により撃沈されるなど、空爆、触雷、機銃掃射などにより「玄界灘は魔の海に変貌している。」

 (昭和20年には、「本土決戦」に備えて、要塞砲台の移転が行われます。敵上陸部隊を海岸部に足止めしておき、そこに決戦部隊が駆け付ける、ため海岸線防御の砲台としての再配置です。大島砲台4基のうち2基は島内西側、津和瀬集落の南西の断崖上に、2基は湯川山垂水峠(遠賀郡岡垣町)への移転が命ぜられます。)


 現在観光スポット化した砲台跡から、青線で示した海岸線断崖に移ります。一基据えられますが試射に至らず終戦。砲台は、海面迄80~90mの断崖に、尾根両側から掘り進めた洞窟であり、そして緑の矢印で示したところに、おそらく移転工事のための作業小屋、仮兵舎が設けれたようです。(花田氏の著作では確定されていない。)
 今ではこの砲台遺跡の存在は住民もほとんど知らないのではと思う。爺さんは父について歩いた微かな記憶があり、花田氏の著作によって、あああれは砲台跡だったのかと了解できたのでした。
 そして、この兵舎こそ我が一家の数年の住みかとなったのであります。

本土決戦」というと、現在では、何をそのバカげたこと、、とされますが、当時の軍部(とりわけ陸軍)は正気で考えそのための準備を進めています。花田氏がまとめられた終戦時の布陣図です。氏の許可を受けておりませんが、労作に最大の敬意をこめて引用させていただきます


 本土決戦が現実に行われていたら、、、、沖縄戦の惨状は無論、国の形さえ変わっていたかもしれません。
 続きます。では。

 




我が生家は?(老いの繰り言4)

2024-09-11 19:29:41 | 日記
 9月11日です。「老いの繰り言」は、あと2回程で終わりたいと思います。書くのにけっこうエネルギーが必要なのに気づきました。

 昭和20年8月15日我が祖父(父の父)は、筑前大島にて逝去しました。老衰のようですから、8月15日終戦の日となったのは偶然のことでしょう。若き日は、郵便局長や、村役場助役を勤めた日もあったようですが、ある事件に巻き込まれ、没落、最期は借家同然のわび住まいだったようです。
 爺さんの父は、大分県某町に、母と、長兄(7歳)次兄(1歳)を残して応召、長崎県五島福江に、駐屯していたとのこと。祖父の臨終にはおりません。

 終戦間際に、40歳を過ぎて召集されて激戦地へ送られ戦死された方も多いので、内地に留まれたのは幸運だったのでしょう。秋になり、一家は故郷へ引き上げてきます。が、兄弟大勢、やはり家族を連れて引き上げてきます。

 筑前大島(宗像大島)です。今でこそ、宗像大社中津宮など世界遺産の島であります。


 『北部九州の軍事遺跡と戦争資料』(副題 「宗像沖ノ島砲台と本土決戦」) 花田勝広編著(2020年6月刊 サンライズ出版)は、大変な労作です。戦前、戦中の公式軍事資料を渉猟し、砲台などの軍事遺跡を踏査、考古学の手法により実測、作図、記録を作成してあります。
 花田勝広氏は、宗像出身の考古学者、この著作には頭が下がりますし、感謝に堪えません。爺さんが、長年、疑問に思っていたことの解決の糸口をいただきました。

以下、花田氏の著作に基づき記述します。

 「太平洋戦争中ごろまでは、日本と大連、釜山、羅津の航路は、大陸から軍需品や米、大豆、岩塩などの生活必需品を、南満鉄道、朝鮮鉄道を経由し、船舶で内地に送り込む大輸送路であった。朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)は、大陸間輸送船の航行を安全確保に援護する事が任務となっていた。」

 筑前大島には、陸軍下関要塞司令部のもとに、昭和11年、4基の砲台が設置されます。現在の砲台跡です。爺さんの小学生時代には遠足のコースでした。風車は、観光施設です。

左側円形が砲座の跡、右側が指揮所・観測所の跡です。指揮所の中からの眺望です。


続きます。画像は、宗像市HPほかからです。謝謝。

通奏低音(老いの繰り言3)

2024-09-01 16:32:36 | 日記
 9月1日です。台風一過、少しは涼しくなるかと思いきや、真っ青な空にしばらく猛暑は続きそうです。
 爺さんのカレンダーは、為すことなく過ぎてゆきます。


 グータラ娘は、相変わらずだらしなく昼寝をしております。


 前回の記事につき友人より注意有り。『オマエねぇ、それを言うなら「通奏低音」だろ。』と。音楽用語であって(爺さんには理解不能の意味)、「常に底流としてある考えや主張のたとえ」の意味で使うのは誤用だそうであります。まぁ、一字違いで並びを間違えたくらいではありませんか。ご時世、「裏金」がばれたって収支報告書を書き直せばおおかたお咎めなしですから、「底通奏音」と書いたくらい笑って許してよ。(反省なしの開き直り) しかし、こういう音楽についての間違いをしたからには、書かざるを得ませんね。

 小学校、中学生そして高校と波乱万丈の青春時代を過ぎて、昭和43年、爺さんは福岡教育大学に入学します。(記事は一挙に飛びます。)
 本気で小学校の先生になろうと思ったのと、家から通えて合格見込みのある授業料の安い国立大学であったのです。ここまでに紆余曲折ありまして、中途半端な浪人生となり、親の期待に背いて人生のフライングスタートは解消しております。

 小学校教員養成課程というのは、卒業必要単位が、そのまま教員免許状(当時の小学校一級普通免許)の必要履修単位にイコールであります。当然、苦手な体育音楽も、「教科教育法」としてしっかり単位数があります。爺さんは、体育はうまい具合に、卓球、テニス、剣道とか、なんとかごまかしの効く講師の授業を取って、ずいぶん恥をかきながらもやり過ごします。しかし、「音楽」ばかりは。

 ピアノは弾けない、歌唱もまるでダメ、どうやって単位を貰ったのか、もう記憶にありません。最後の難関の単位ひとつ、すでに大学5年生であります。担当教授は、安永武一郎さん。(九州交響楽団常任指揮者ほかを歴任される。)下級生の女の子たちにまじって(本来3年生の必修科目)、器楽合奏は失敗するし、『えんどうくん「ソ」を発声してごらん。』と言われて『そ~』と声を出すと教室中が大爆笑。ついに『えんどうくんは、どうしようもない音痴だなぁ、、、』と武一郎さんがため息
 そのころ、ご子息、徹さんが、日本音楽コンクールで優勝され、のちにベルリンフィルのコンサートマスターになられる。こういう訳で、爺さんは、品質保証付きの世界一の音痴とうたっているのであります。

 どうも小学校の教員には向いていないのかなぁ、、、と思い始めていた頃、ある先輩の曰く『担任の先生は、子供たちにとってスターじゃないといかんのよ。うちの先生がいちばん速い、とか、歌が上手とか、、、。』 まったくその通りですねぇ。これで、もうダメだとおもいました。が、卒業はできたとしても、教員採用試験に受かる見込みは全くありません。ここから、爺さんはどうやって生計の道を見つけるのか、今、回想しても冷や汗たらたらが待ち受けておりました。
 なお、安永武一郎さんは、「えんどうを大学に残しておいても有害無益」と判断されたのでしょう、「」をくれました。

 気が向いたら続きます。では。