それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

新型コロナと修学旅行

2021-01-16 12:58:21 | 教育

 神戸新聞は、相生市立N中学校が、近場のリゾート施設への日帰り旅行に出かけたのに、隣の市立F中はUSJに行っていたことを取り上げて、記事にしている。

 相生市教委は、近場で日狩りの旅行をしてほしいと各学校に要請していたという。N中学校では、当初、東京、その後、長崎に変更したもののコロナ感染拡大のためこれも変更になったのだという。結局、都市部である大阪も除外して、県内のリゾート施設に行くことになった。しかし、隣の学校はN中の旅行実施の直後に、USJへの日帰り旅行に出かけたことから,N中の生徒の不満が噴出したのだという。

 生徒会は3年生に以下のアンケートをして、9割の賛成を得ている。
 
  (1)N中が県内、F中が県外の旅行になったことを疑問に思いますか
 (2)対応が違うことの理由を、納得のいくように説明してほしいですか
 (3)かなうのであれば、県外(USJなど)に行きたいと思いますか

  生徒会役員は、後日、市教委を訪問し、学校によって対応が異なったのはなぜか」と質問し、説明を求めている。市教委は、不思議なことに、当日ではなく、後に、文書で、すべての学校に近場への日帰り旅行をするように求めたと回答している。

 校長は、3年生の教室を回り、市教委の指示を伝えた。しかし、旅行先決定の内容には触れなかったと言う。校長の感想は、「納得してくれたかな」というものだったという。

 一連の流れを見ると、問題は解決したかに見える.。しかし、よくよく考えれば、生徒も、市教委も、学校の校長・職員も、すべてに問題があり、教育、学習の場における認識活動や言動とは思えない。せっかくの「学習」と「指導」、つまり「教育」の機会を逃してしまっているのである。

  まず、生徒の反応について考えておこう。生徒の「気持ち」は分かる。ただし、気持ちが分かると言うに過ぎない。事情はともあれ、行きたいところに行けなかったことは残念だったに違いない。しかも、隣の学校は行っているのに。その残念な気持ちが、市教委に出かけさせたのであり、アンケートまで作成、実施させているのである。

 ただし、彼らは「被害者意識」に基づいて行動している。なぜ県外に出かけることができないのかという「状況認識」ができていない。自分の言うことを聞き入れてくれない大人に対して、駄々をこねているに近い。アンケートの(3)に「かなうのであれば」という条件が付されている。正しい状況認識の手がかりにする可能性があった。「なぜかなわないのか」を問題にし、自分の頭で考え抜くべきことであった。残念ながら、「9割賛成」に大した意味はない。

  つぎに、市教委の対応は、教育委員会という名に反して教育的でない。いかにもお役所仕事である。せっかく生徒が押しかけて来ているのなら、修学旅行先決定の方針とその理由について納得のいくような説明をすべきであった。「後日、文書で」とは何ごとであろうか。中学生すら説得できない職員で構成されている「機能不全」の機関なのであろうか。

  さらに、3年生の教室を回った校長の行動は、善意のそれか、管理職としての責任を感じてのそれか判然としないが、説明の内容は、市教委通達の説明だけで、県内の旅行に決定した経緯を説明していない。客観的に見て、何の効果もない行為である。学校の対応として気になるのは、校長以外の教員の顔が見えないことである。近年は、職員会議も、会議ではなく、校長による「通達」の場になっているそうだが、今回の対応を見ると、校長には荷が重いように見える。

 三者ともに、当事者意識がない。せっかくの学習と指導の機会を逸してしまっている。
教育の場としては大失策というべきであろう。

 新型コロナは、我らの生活全般に多大の災厄をもたらした。国も、国民、市民も親も、学校も、すべての人間が深刻な影響を受けている。誰かを責めて解決するほどに単純な問題ではない。であるなら、すべての人間が、「自分の問題」として、ことの本質、自らの対応に思いを馳せるべきではなかろうか。中学校の修学旅行をめぐる今回の一連の騒動には、状況認識を深め、対応を考える契機は随所にあったはずである。ひとりひとりがこの問題を正面から受け止めることなしに、難局を切り抜けることはできない。政府に言われるまでもなく私たちひとりひとりが「非常事態」に直面しているのである。

  ところで、このニュースを報じた新聞社の立ち位置とはいかなるものであろうか。事態を客観的に報じたと主張できようか。客観報道とは理想的なもののように見えるが、実際にはほとんど存在しない。報道に際して、一般的に、「事実」は、取捨選択され、選ばれた事実は、さらに分析、意味づけされ、特定の関係の中に位置づけられ、特定の人間、集団によって選ばれた表現手段によって定着され、公表される。この過程は、「客観」とはほど遠い。今回のニュースは、限りなく、生徒に寄り添う({すり寄る)立場のように見えるがどうだろうか。そしてその立場は、非生産的であり、自ら当事者意識を欠くことを表明してはいないか。、報道機関として、緊急事態下の今、未成年に語りかけ、目を開かせる機能を担い得たのに、と残念である。 


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