それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「勇気と感動を与える」という傲慢

2019-12-27 15:49:32 | 教育

 「与える」という日本語は、上から下へという相手意識を含んでいる。手元の大型辞書で確認してみると、以下のように、いわゆる「上から目線」の動詞であることが判る。

【与える】 ①自分の物を目下の相手にやる。 ②影響・効果などを、相手にこうむらせる。 ③特別の配慮を、相手にほどこす。 ④仕事・課題などを、課する。あてがう。

 新聞(毎日)地方欄に、地元の高校ラグビー・チームが全国大会に出場する記事があった。生徒である主将は、「……ひたむきに、謙虚に戦う。」との意思表明をしていてほほえましいが、監督は、「全力を尽くし、元気、勇気、感動を与えたい。」とあいさつしたそうである。

 高校野球の全国および地方大会での選手宣誓は、多くの国民の聞くところであり、「……感動を与える」という表現が通り相場になってしまっていた。気になって仕方がなかったが、このところ少しばかり改善があって、「……感動を届ける」という表現も、たまに見られるようになった。

  野球で活躍しているとはいえ、年端もいかない高校生に、「勇気を与えられる」筋合いなどないのであり、一生懸命プレーに専念してくれていれば、それ以上の期待はしないという人達も多いのではなかろうか。

  問題は、宣誓の当事者が何の悪意も傲慢さもないのに、「与える」という言葉を使用していることである。宣誓の言葉は、多くの大人のチェックを経て完成するのが普通であろう。チェックを経た結果が「与える」の表現であるとするなら、あまりに言語感覚が低劣な世界だといわざるを得ない。

 一方で、テレビの料理番組などで、講師が、食材について、「……塩水に漬けてあげる」、「皮をむいてあげる」などと言うのである。

  母なる言葉「日本語」にもっと敏感になろう。


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