大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

纏向遺跡・桜井市立埋蔵文化財センター・橿原考古学研究所付属研究所

2014年03月02日 | 日記
  2月20日(木)午後から、纏向遺跡で発掘された建物群跡地の現場見学、当遺跡内容を知るために桜井市立埋蔵文化財センターへ、そして当遺跡で出土の多い東海系土器の特別展示をしている橿原考古学研究所附属博物館へ行ってきた。

纏向遺跡の概要
 最初に午前中の授業を含めて数回に渡り教えていただいた中身を織り交ぜながら纏向遺跡の概要を紹介する。
●纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山西側の東西約2km、南北約1.5kmの一帯に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡で、最古の前方後円墳とされる纒向石塚古墳(前方部を三輪山の方向に向けている)、卑弥呼の墓ではないかとの説もある箸墓古墳がある。
●出土土器の特徴として、全体量のおよそ15%が九州から関東にいたる広範囲な外来地域からのもので、その内の49%を東海系の土器が占める。
●遺跡の西部に位置する溝の埋土に含まれる花粉の分析から、中国由来のベニバナ花粉が検出されており、ベニバナは、染物や薬用に用いられていたと考えられている(庄内3式期(3世紀前半))。
●遺跡の東北部に位置する溝状の落ち込み遺構の中から布留式0式期(3世紀後半)に属する多量の土器とともに巾着状布製品(高さ約3.4cm厚み2.4cm)が出土している。内部の遺物の有無を確認する為にX線撮影したところ反応はなく匂い袋ではないかと考えられている。また、近辺で韓式土器が出土しており大陸との交流が想定されている。
●纏向遺跡の全貌については、レーザー測量(50万回/秒照射)に基づいた遺跡の古地理が復原されておりその中で旧河道域も判明している。また現在、河道岸の痕跡が田んぼの畦道として一部残っている。
●纏向川の河道(辻河道)中洲付近で、数年前卑弥呼と同時代の3世紀前半の大型建物を含む建物群が検出されており周辺は3~4世紀における水辺を選定しての神域の可能性が極めて高いと考えられている。この建物群は、東西軸に大型建物(柱穴が南北19.2m、東西6.2m)を含めて整然と並んでおり、大型建物を神殿と考えた場合通常神殿建物は偶数柱であるが出雲大社神殿同様奇数柱の9本・5本の特異性を持っている。
●建物群付近で土坑が検出されており、遺物の年代観から土坑の年代は庄内3式期(3世紀中頃)のものとみられ、その内容や土坑の北端が柱列のラインと重なる事などから土坑は、建物群の廃絶後に掘削され何らかの祭祀が行われたものと推定されている。遺物としては、当遺跡は内陸部にもかかわらず多様な海水魚が確認されている。{ワシ類・タイ科(マダイ・ヘダイ)・アジ科・サバ科・淡水魚の骨や歯}また、種実ではモモ2,700点以上、花粉では多量のサクラ属(モモ型)の存在が確認されている。
 この内容から、居館域の近隣にモモ・スモモの林が広がっていた事が推定されている。

いよいよ纏向遺跡へ
 午前中の講義を聴き、強行スケジュールのため、午後一番の電車でJR森ノ宮を出発、天王寺・奈良を経由してJR纏向へ
 着くと、さっそく駅のプラットホームから午前中の講義で教示してもらった「河道岸の痕跡が田んぼの畦道に残っている」という所を教えてもらった。
その所を探すのに懸命 
先生から「あの少し曲がったところやん・・・・・」「 ブルーシートの・・・・・」との声がかかる・・・・・・
「どれが・・・・・・」「どれが・・・」
少したって・・・
「あれかな・・・・・」 「あった・・・」との声・・・・・・・
 その当時の景色が一瞬今の風景に溶け込んでいく

 その余韻をもって2月9日現地説明会が実施された纏向遺跡第180次調査(大型建物を含む建物群より東側の遺構状況確認を目的とする調査)地へ
しかし、其の現場はすでに埋められ見学はできず。 残念!

 その後、以前発見された建物群跡地の現場へ行き、先生から説明を受けた。
 ここから望む三輪山は雄大すぎる。そして、このあたりにモモ・スモモの林が広がっていたらしい。
しばしのタイムスリップ

   

 纏向遺跡第180次調査資料によれば、「纏向遺跡辻地区には3世紀前半~中頃の建物群・3世紀後半~4世紀前半の建物と区画・4世紀後半の区画溝・5世紀末~6世紀初頭の石貼り区画溝が存在することとなり、各々が首長居館の一部で、辻地区には首長居館が重複して存在している可能性を指摘できます。」としている。
 もう少しゆっくりしたい気持ちがあったがまだ2カ所の見学があるために、ここでの滞在時間40分ぐらいで、バスで桜井市立埋蔵文化財センターへ

桜井市立埋蔵文化財センターへ
 先生から纏向遺跡を中心に講義内容・現地説明を踏まえての説明をしてもらった。出土遺物・航空写真・全体の地図等わかりやすく展示してあった。

         

 特別展では 「 HASHIHAKA ―始まりの前方後円墳― 」と題して
箸墓古墳出土の二重口縁壺型埴輪等の展示があった。
 その中で、レーザー測量に基づいた箸墓復元図があり、墳丘の真ん中当たりを横切る道は、付近の農民が昔、通り道として利用していた痕跡であるという。また、箸墓は、二重の周溝を持っていたらしくその外周壁に当たる痕跡が墳墓後円部後方に田んぼの畦道として今でも残っているらしい。いつか訪れて箸墓古墳の当時の威容を感じてみることにしよう。

 滞在時間30分ばかりで、タクシーで近鉄新ノ口(近鉄橿原線)へ行き、そこから電車で畝傍御陵前へ橿原考古学研究所附属博物館へ・・・・・やっと着いたという気持ちだ。

橿原考古学研究所附属博物館へ
 さっそく展示物のブースで先生の説明が始まる。
 今回の特別展 ―奈良県から出土している古墳出現期の東海系遺物―
 近畿の土器(庄内式・布留式)との相違点は、煮炊き具に脚台が付いた台付甕を用いる点や貯蔵具や供膳具の装飾性が高い点にあり、中でも赤彩されたパレス式土器やS字状口縁台付壺が有名である。また、それぞれの特徴を有する土器でも東海地方の小地域ごとにより少しずつ内容が違っており、遺跡から出土する東海系土器の特徴に注目すれば、その系譜が求められるようになってきているらしい。
 そういう基礎知識を持ちながら、それぞれの遺跡から出土した土器を見ていたが、外観的にはおおよそつかめるが詳細な違いが判らず、
 今までの内容で頭がパンク状態・・・・
 土器の知識不足もありダウン状態に・・・・・・!
 近くにホノケ古墳の石囲い木槨の模型展示があり、わかりやすくほっとした気持ちに・・・・・・
 地域交流・相対年代観での土器編年の知識の重要性を痛感した展示だった。

       
 
 全体を通して強行スケジュールであり疲れ果ててしまった1日であったが、数回に及ぶ纏向遺跡の講義の後の遺跡探訪であったので興味津々の内容であり、纏向遺跡の景色が以前と違う形に見え興味がますます沸いてきた一日でもあった。いつか、ゆっくりと訪ねてみたい。
ところで、祭殿と考えられている大型建物に関連し、石塚古墳の前方部が三輪山に向いていることに興味を持ち、太陽に対する想いを観点に少し調べてみた。
 石塚古墳と三輪山を結ぶ延長線上に田原本町に位置する八尾鏡作神社があり、この線上に立てば立夏・立秋に三輪山からの日の出を拝められるそうだ。ならば、その遥拝施設として石塚古墳が存在したとしたら興味深い。
 石塚古墳が上記施設だとするならば、太陽のエネルギーが一番弱まる冬至には当然何らかの遥拝施設が存在したはずである。それで冬至遥拝のラインとして知られているのが三宅町に位置する石見鏡作神社と三輪山を結ぶラインである。
 このラインを地図上に落しライン上の建物等に注目すると今回の見学地より数百m行ったところに春日神社があった。また今回の大型建物跡から東西軸を東へ数10m伸ばした所がラインとの交点になった。このあたりに遥拝施設があったのかもしれない?
 また、このラインと重なっているようにみえる旧河道岸跡が県営纏向団地東側に地図上で確認できた。
 そしてまた興味深いことに、弥生時代の集落遺跡である唐古・鍵遺跡内での冬至遥拝ライン上に田原本町立北小学校が位置していた。その付近は楼閣を描いた絵画土器の出土地でもある。もしかして、楼閣が遥拝施設という可能性は・・・・・想像を逞しくする。
(写真の上にカーソルを置いて、マウス左で1クリックすると画面が大きくなります)

                                 
(1班:Y・M )


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