大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

校外学習:府立弥生文化博物館 (2月13日)

2014年03月02日 | 日記

 今回の校外学習は府立弥生文化博物館で行っている「王の系譜-稲作の伝来からの前方後円墳の成立」の摂河泉シリーズ第1弾「和泉」という企画展へ行ってきました。では和泉とはどのような場所でしよう。
 古代、大阪は摂津、河内、和泉に分かれていて南西部に位置する和泉は、東は大部分を山脈が占め、西に長い海岸線を持つ。山から北西に流れる河川の規模は小さく河川が作り出す平野の面積は狭い。淀川、大和川という大河川が流れた広い平野をもつ摂津、河内と比べると生産力は低く人口も少なかったようです。

弥生時代前期         
 小坂遺跡―石包丁
 池浦遺跡―弥生土器壺
 弥生時代の始まりは、水田稲作の導入、貯蔵用壺の出現、各種の石斧、石包丁といった新しい磨製石器の登場により特徴つけられます。集落の規模は拡大し、水や土地をめぐる周辺集落との緊張関係も高まり、ムラを環濠で囲うようになったのだろう。又大規模な集団作業を指揮するリーダーの役割も大きくなっていった。

弥生時代中期          
 男里遺跡―イイダコ壺
 下田遺跡―銅鐸  
 和泉に根づいた弥生社会は、発展を続け、中期には特に大規模な四ッ池遺跡、池上曽根遺跡といった拠点集落が出現する。池上曽根遺跡では中期後半に最盛期を迎えその人口は500人、またはそれ以上とも推定されている。「漢書」地理志に描写される「百余国」に分かれたクニは、こうした拠点集落を中心とする地域的な弥生社会であったのだろう。

弥生時代後期          
下田遺跡―製塩土器
 観音寺山遺跡―鉄器 
 高地性集落
 弥生中期末、和泉だけではなく西日本の広い範囲で社会に大きな変化が起こり、それまでの拠点集落が消滅し新しい小規模なムラが増加する。池上曽根遺跡も例外ではなく中心部の大型建物が廃絶し、環濠も埋没する、人口も大幅に減りかっての面影は失われて行く。一方で、生活に不便な高台に防御性を高めた高地性集落が出現する。社会を激変させる原因は、大規模な自然災害か鉄をめぐる争いの激化だったのか、決定的な理由は依然謎のままである。

 もう一つ大切な事がありました。
それは、弥生時代最大級の大型建物がみつかりその規模と構造から神殿、倉庫、王の館、といくつもの説が出されているが、まだ定まっていないとの事ですが、この建物は弥生時代中期後葉のものであるが、使用されていたヒノキ柱(柱12)の年輪年代測定で紀元前52年に伐採されたものである事が明らかとなり、それまで中期後葉の年代は紀元後1世紀頃と考えられておりその定説をくつがえす事になり、およそ100年の年代の修正が必要になったとの事。
 

写真の一部は大阪府立弥生文化博物館「平成25年度冬季企画展『王の系譜-稲作の伝来からの前方後円墳の成立』の摂河泉シリーズ第1弾 和泉 リーフレット」より引用しました。

(1班 T・I)


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