大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

特別校外学習:大阪府近つ飛鳥博物館・八尾市立埋蔵文化財調査センター

2013年08月26日 | 日記
8月8日、特別校外学習:文化祭のテーマを探るため、猛暑が続くなか、大阪府近つ飛鳥博物館、八尾市立埋蔵文化財調査センターを訪れました。

★大阪府近つ飛鳥博物館

今期2度目の訪問です。
何度見ても新しく出会ったように思う数々の出土品等が展示している常設展、夏季企画展の「さまざまなお墓-墳墓のうつりかわり-」を見学をしました。常設展をはじめさまざまなお墓のようすを、出土品を中心に植田先生に紹介していただきました。その一部を報告します。
なお、常設展の報告は前回(6/6)訪問時に詳しい報告がされているので省きます。


瓜生堂遺跡は弥生時代中期の方形周溝墓です。河内平野の中央低地に位置し、たくさんの遺構・遺物がみつかっています
板を組み合わせて作られた木棺は、赤ちゃんが葬られていたようで箱式木棺といいます。土器棺は子ども用の棺と土器がしてつかわれ、供献土器はお墓のお供えをするために使われた土器で、この遺跡ではたくさんの弥生式土器が見つかっています。赤ちゃんや子ども用の棺が多いのは、当時は成長率30%、平均寿命30才というお話に納得しました。


久宝寺遺跡
旧大和川によって形成された河内平野に位置し、弥生時代前期以降の集落、水田、墓などがみつかっています。
*久宝寺1号墳は、古墳時代前期の方墳で大阪で一番最初の古墳といわれている。墳丘内から、コウヤマキ製の割竹形木棺がほぼ完全な状態でみつかったことで有名となった。また、墳丘の四隅に穿孔を施した同形同大の庄内式土器の直口壺が配置されたのがみつかり、おしりに穴が空いていることから、首長層の古墳祭祀で使われていたようです。
*竜華操車場跡から小さいお墓がたくさん見つかり、弥生式土器から庄内式土器までの土器が出土した。土師器の土器棺の壺の横に丸い穴が空いているのは東海地方によく見られ、交流があったと思われる。

*円筒形の土器はお墓に使われていたが、7世紀にはこれを何本もつなぎ合わせて排水管に使用した。


高槻城跡
高槻市の高槻城跡で中世後半の木棺墓群がみつかった。伸展葬されていることからキリシタン墓地とわかった。木棺の蓋に十字架の墨書があるものや、ロザリオとよばれる木製珠が副葬されていた。写真の木棺は○の所に十字架のマークがかかれていた。キリシタンの埋葬習俗や信仰活動の実情を伝える重要な遺跡です。

大坂城跡
大坂城の外堀の埋土の中から、安土桃山時代の墓もみつかっている。竹行李を棺とし、遺体を折りたたんで埋葬した墓や、遺体を薦で巻いて埋葬した墓がみつかっており、銭貨や数珠を副葬してた。大坂城の堀の埋戻し工事にかかわった人々が堀の中に埋葬されたようです。


★八尾市立埋蔵文化財調査センター
  
午後は八尾市の企画展「八尾を掘る-平成24年度市内発掘調査成果展-」を見学した。
この企画は平成24年度に市内で実施した発掘調査成果を紹介する展示会です。調査センターの学芸員さんに説明をしていただきました。
八尾市は大阪府の南東部、河内平野の真ん中に位置している。河内湾から河内潟を経て弥生時代中期に河内湖に変化していった。古大和川が運んだ土砂でデルタ地形となり、豊かな水量と肥沃な土壌により、水田を中心とした稲作が行われ、多くの集落が作られた。

*恩地遺跡(第29次調査)
弥生時代中期後半の遺構や遺跡が多数発見され、大量の土器、石器類が発見された。装飾も多く施されていた。  
集落も大きくなり、中心的な役割りを果した時期です。河内の土器は、角閃石類を多量に含むので茶色っぽくて、ほかの土器とは容易に識別される。白っぽいのは搬入土器です。
生駒西麓から銅鐸も2個見つかっている。まだまだ埋まっているのではないかと思われる。集落へ入る道から災いや病気の進入を防ぐために埋められていたのだろう。東部の亀井遺跡や跡部遺跡でも銅鐸が見つかっている。

*東郷遺跡(第78次調査)
河内平野南部の低位沖積地の複合遺跡で、邪馬台国時代は河川の自然堤防上に居住区があり、河川跡の低い部分が水田や墓域がある集落でした。各地域間交流があったようで外来系の土器がみつかっており、この遺跡は邪馬台国時代に中河内地域の中心的な役割を果たしていると思われる。
*久宝寺遺跡(第82次調査)
古墳時代後期中葉から後半の大型掘立柱建物群が見つかり、大和朝廷で中心的な役割を担っていた物部氏一族の本拠地と考えられる。
*中田遺跡(第55次調査)
埋没古墳の中から古墳時代の土器棺墓や埴輪類が発見され、たくさんの古墳群があったと思われる。
*東郷遺跡(第75次調査)
平安時代後期から室町時代後期居住地に関係する遺稿や遺物がたくさん見つかりました。室町時代初等に修築された八尾城が建てられていたと思われる。
*弥生時代後期の弥生土器、古墳時代前期の古式土師器や後期の土師器・須恵器、奈良時代の渋川廃寺の軒丸瓦などが展示されていた。

八尾の地下深くには人々が生活した遺跡がまだたくさん眠っているというお話に夢が膨らみます。調査できない現状があるということですが、これまで発見されていない珍しい遺跡・遺物を見てみたいものです。
1班(S・K)


橿原考古学研究所附属博物館見学(13.7.18)

2013年08月22日 | 日記
 考古学研究科  7月18日の授業
午前は教室で講義を受け、午後はJRと近鉄電車を乗り継いで、奈良の橿原考古学研究所付属博物館に出かけました。

【午前】
講義は、三内丸山遺跡と青谷上寺地遺跡のことを中心に、百済の前方後円墳、「縄文海進」、古代の大阪平野にも若干触れる内容です。
青森の三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期(約5500年~4000年前)の大規模場集落跡で世界遺産の登録を目指しています。調査によって竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大人や子供の墓、土器・石器、木製品、骨角製品など多量に出土し、平成6年には青森県の特別史跡に登録されています。
青谷上寺地遺跡は鳥取市に位置し、保存状態がよく、「地下の弥生博物館」とも呼ばれる集落遺跡です。5m超の高層建築や水田の跡、まつりやまじないに使用されたであろう、木片や木製楯、鯨の骨の剣、イノシシの頭骨、また、魚をとる道具、分銅形土製品、鉄製工具、獣が描かれた土器、船形木製品など弥生人の暮らしを物語る多彩な遺物が数多く出土しています。また、100体以上ものバラバラな人骨、刃物傷のある頭蓋骨、国内はじめての前頭葉のある脳などは、当時を推量する貴重な資料となります。

【午後】    
 橿原考古学研究所附属博物館(略称「橿考研」)は1938年(昭和13年)「紀元二千六百年記念行事」の橿原神宮外苑整備事業として橿原遺跡調査が行われた跡に建てられています。
 常設展では発掘調査で出土した考古資料を中心に、旧石器時代から中世に至るまでの考古資料約5000点が展示されています。


    
 当橿考研の訪問は2度目で、この日は、主に特別陳列「シリア・古代パルミラの人々」と「2012年度発掘調査速報展」の見学です。
 「シリア・古代パルミラの人々」は奈良県の22年に及ぶ発掘調査の成果として、パルミラの墓に葬られた頭骨をもとに復顔し、当時の彫像と類似性を検討するという試みがされています。
 紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけ、東西の交易の隊商都市として栄えたパルミラ、その墓には副葬品が伴わないこと、また、骨折や関節症などパルミラ人の病を骨から推量していることにも興味が湧きます。



  
 奈良県には、先人が残した貴重な文化遺産である、都城跡や古墳をはじめさまざまな埋蔵文化財が数多く存在します。これらは、歴史や文化を研究するための重要な資料となります。そのため県内の「大和を掘る」調査は、毎年行われており、今回で31回目に当たります。
今回の「2012年度発掘調査速報展」
<報道提供資料>
 ◎史跡唐招提寺旧境内(旧開山堂)
 ◎弥生前期水田管理の実態解明(中西遺跡・秋津遺跡)
 ◎中西遺跡・秋津遺跡などの弥生水田遺構から採取した水田土壌を使用したイネの栽培
 ◎桜井市脇本遺跡第17・18次調査
 ◎箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成
<現地説明資料>
 ◎史跡・名勝飛鳥京跡苑池第7次調査
 ◎桜井市脇本遺跡第18次調査
 
 この「2012年度発掘調査速報展」は9月1日まで行われています。旧石器時代から中世に至る出土品の常設展示も内容が豊富です。遺跡・遺物を実際に見て、触れて体感することは大事なことです。機会を作って橿考研にもまた足を運んでみてはいかがでしょう。


                        
担当 3班(S・M)