大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

校外学習(社会の参加活動)  1月30日

2014年02月09日 | 日記
*堺市文化財調査事務所
少し雨模様の中、事務所に着きました。ここは、堺市内の遺跡を発掘調査し出土した土器などの、文化財資料を整理保管する機関です。ここで、遺物の洗浄、ネーミング、拓本をさせてもらいます。学芸員の指導のもと、作業をします。

*洗浄
SKT 1087(堺環濠都市・・1087回目の調査)
  バットに入っている千利休の時代の土器を洗います。付いている煤や、食物の痕跡などを落とさぬように注意して洗います。
「これ何?」の声が上がります。洗っている中に15㎝位の土器片に1㎝位の泥の塊が付いています。なんと便です。堺、千利休の時代の人の残した便!生きた人間の痕跡です。「ワアー」興奮のどよめきです。この喜びが洗浄する醍醐味なのでしょう。洗い終わったら間違えないように、分類された、バットにいれて、乾かします。

*ネーミング
 OOT-23 64(大野寺テンプル・・23回目 整理番号)
 洗浄した遺物を一片ずつに、番号を付けます。白のポスターカラーで版下筆で3mmの大きさの字で出土した瓦の裏側の端に書き入れます。絵の具の濃度の具合で、滲んだりします。相手は紙でなく、瓦だからです。筆を持つのも久しぶりの人も多く、この作業はなかなかに大変でした。

*拓本
 鎌倉時代、行基上人により築かれた堺の土塔を相手は整備する時に出た瓦の拓本です。瓦を製作する時粘土が木型から、外し易いように布をはります。
その布目が瓦に残っています。瓦の上に和紙を置き、水を含ませた脱脂綿で押さえ凸凹を浮かびあがらせます。乾かして、タンポに墨を付け、むらのないように、少しずつ打っていきます。
博物館や資料館に並べられている壺や甕などはこれら地味と思える作業(もっと複雑で難しい作業がある)の積み重ねで成ったものです。その一部を体験出来たことは大きな喜びでした。

*泉北すえむら資料館
陶邑(すえむら)は、「日本書紀」の「茅渟県(ちぬのあがた)陶邑」から名付けられました。古墳時代中頃から平安時代まで500年間、日本最大の須恵器の生産地でした。茅渟の海といわれた大阪湾を望む今の泉北ニュータウン一帯のことで、陶邑は須恵器を作る村でした。

*須恵器
 須恵器という呼び方は、1930年代から使われ始めました。陶器と区別するためです。須恵器は、釉薬を用いないのが基本です。奈良、平安時代、和泉国は、官窯として須恵器を都に納めました。

*アナ窯
 須恵器の色は灰色です。中国殷代の灰陶という焼きものです。5世紀前半、朝鮮半島から伝えられ焼かれ始めます。窯は丘陵の斜面に幅2m、深さ1.5m、長さ8m前後の大きさに掘り、側面に竹を立てて並べ、天井は地表面上に割竹で形を作り、粘土にスサを混ぜて作られた。そして、一度火を入れ乾燥させる。この様な半地下式のアナ窯は、1000基以上あったと推測されます。素焼きの土器は空気中の酸素で明るい土色になりますが、この窯では、焼成の終わりに焚口、煙だしを密封します。その為、空気があたらず、還元状態になり、灰色になります。

*須恵器の移り変わり
 初期須恵器・・朝鮮半島の陶質土器に似ています。しかし、窯によって形に器種に違いがあり、技術者が朝鮮半島の複数の地から渡 来したことがわかります。
第一型式・・・各地で斉一性が見られる様になる。日本化と言えるでしょう。
第二型式・・・須恵器の需要が高まり、量産されてきます。作り方もやや粗くなります。
第三型式・・・盤、皿、平瓶、など供膳用の器が作られる様になります。
第四型式・・・水瓶、鉄鉢、など金属仏具をまねた容器も作られ、円形硯も多くなります。
第五型式・・・須恵器の終焉、そして、シンプルなものへ移っていきます。ロクロの糸切り手法が見られ、量産されます。

*陶邑が消滅した
 500年の間、木を切りつくしてしまい、燃割竹でお料が手にはいらなくなったためです。陶邑の薪争いとして、平安時代の「日本三代実録」にのっています。ここ陶邑では焼かれなくなりましたが、六古窯といわれる、瀬戸焼、備前焼、丹波焼などは、平安時代の終わり頃から始まりました。須恵器は、陶器の母親と言えるでしょうか。須恵器について、資料館の方の詳しく説明を受けました。
(2班  M ・ M)



校外学習 崇福寺 百穴古墳群方面

2014年02月03日 | 日記
2014.1.23

 抜けるような青空の大阪を出発し、長等山トンネルを抜けると大津京は曇天でした。時折しぐれる中しっかり登山装備の面々が元気に滋賀里の駅に集合しました。この辺りは縄文時代は琵琶湖の波打ち際であったそうだ。正確にいえば現在も地形は日々変化続けているのだろう。最初に参拝した八幡神社の境内には古墳の石と思われる大きい石がごろごろ頭を出していた。
大津市埋蔵文化センター
 神社参拝後 埋蔵文化センターを訪れ、出土品の展示物を拝見する前に、館長さんから6世紀前半~7世紀前半までの古墳に副葬されたかまどのミニチュア炊飯セットを見せて頂いた。

 主な展示品は、真野廃寺、上仰木遺跡、坂本里坊遺跡、穴太廃寺、大津城跡、青江遺跡の出土品であった。特に目にとまったものは、上仰木遺跡の美しい緑色の陶器の破片。中国磁州窯系の陶器「緑裕白地掻落牡丹唐草文梅瓶」12世紀~13世紀(大英博物館所蔵のものと同工品)や皿に描かれた墨書土器、堺のすり鉢。大津城の胞衣壺(あと産を入れた)

石造 阿弥陀如来坐像(志賀の大佛)
崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へ抜ける旧山中越え(志賀の山越え)で、大津側の入り口に位置する場所で旅人が道中の安全を祈願したという。
高さ 約3.5m  幅 2.7m  13世紀頃造られた。

東海自然歩道
東京の「明治の森高尾国定公園」から、大阪の「明治の森箕面国定公園」まで1300キロある道が通っている。

崇福寺跡
崇福寺は天智天皇7年(668)の大津遷都の翌年に建立された寺で寺跡は三条の尾根の上に残っている。
南尾根は、金堂・講堂の跡で白鳳時代の遺物は出土しない。(桓武天皇によって建立された梵釈寺ではないかの説もある)
中尾根 小金堂・塔跡
 東側の建物は塔あとで、基壇中央部の地下1メートルの所に塔の基礎があり、舎利容器は金銅製外箱・銀製中箱・金製内箱・金製の蓋をもった瑠璃(ガラス)壺からなっており、 壺の中には水晶の舎利三粒が納められていたそうです。
北尾根は 弥勒堂跡です。
 南尾根(金堂・講堂跡)から中尾根(小金堂・塔跡)への移動は狭い山道でした。事故なく完歩しました
壬申の乱によって大津の宮が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代十大寺の一つに数えられるほどになったようです。

百穴古墳群              
 際川の谷口部の北側、南北150m、東西250mに広がる古墳群で現在は六十数基が確認されています。いずれもドーム状の横穴式石室を内部主体とした小円墳で直10m前後。被葬者は百済系渡来人、6世紀後半と推定されている。
往時、近江には百済系渡来人の一大中心地であった。飛鳥から奈良・京都へと政治の中心が移る中間に大津京があったこと、渡来人が住みついた理由などを辿る校外学習でした。 

午後は大津市歴史博物館見学
穴太遺跡のオンドル遺構 
7世紀前半につくられた物渡来人が暮らした跡がよくわかる遺構です。