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近代日ユ関係1:「アヘン戦争」と「開国維新」とユダヤ人

2010-10-09 | clipping
「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 ~ イギリス、ロシア、アメリカの極東戦略の実態 ~ 作成1998.3
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe150.html#07


■■序章:はじめに

●「日中戦争(支那事変)」勃発の背景(遠因)は、人によって様々な意見(見方)があると思うが、当館は20世紀初頭に起きた「日露戦争」(1904年)を抜きにしては語れないと思っている。

特に「日露戦争」直後に起きた「ハリマン事件」による日米関係の悪化(日米対立)は、その後の日本の運命を決定づけた、かなり重要な事件だったと感じている。(「ハリマン事件」については第4章で詳しく紹介します)。

また「アヘン」という麻薬の存在(利権争い)も、「日中戦争」の実態(深層部分)を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思っている。

●当館はユダヤ研究をメインにしているので、学校の教科書では絶対に触れることのない(であろう)開国維新後の「日本とユダヤの微妙な関係」に重心を置きながら、「日本がアメリカに占領されるまでの歴史」を少し違った角度からグローバルに考察していきたい。

もちろん、異論・反論あると思うが、何か参考になれば幸いである。

なお、「おまけ情報」や「追加情報」が多く、内容(情報)が重複している部分が多々あるので読みづらいと思うが予めご了承下さい。
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■■第1章:「アヘン戦争」と「開国維新」とユダヤ人

●1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。

「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」

●「アヘン」は先述したように、「日中戦争」の実態を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思うので、この章では「アヘン戦争」や「アヘン商人」の暗躍について簡単に紹介しておきたい。  

●まず、有名な「アヘン商人」といえば、中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーンが挙げられる。

彼は1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。

(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
  
●やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。

※ サッスーン一族については、第9章で再び触れるので、頭のすみっこに記憶しておいて下さい。(このファミリーは「日中戦争(支那事変)」で重要な役割を演じます)

●ところで、鎖国時代における長崎・平戸のオランダ商館長は、すべてユダヤ系の人物だったと言われる。長崎にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が作られていた。また、1853年7月8日に浦賀に来航して日本開国を迫ったペリー提督もユダヤ系だったという説がある。

幕末、幕府側を援助したのはフランスであり、近代兵器を提供することなく兵制を教えた。一方、倒幕派の薩摩や長州を援助したのはイギリスであり、海援隊の坂本龍馬などを通じて近代兵器を提供した。

外国人貿易商にとって、日本は武器輸出市場であった…。

※ この「明治維新」の舞台裏(坂本龍馬とグラバーの関係など)については、別のファイルで詳しく触れたい。

●日本は、「アヘン戦争」以降のイギリス、フランスなどが清国に対して行使した軍事力の強大さに驚愕し、開国維新を断行して西洋近代文明への“改宗”を行なった。

しかし、清国はいつまでも中華思想にとらわれて、現実を直視できず、やがては新興帝国である日本に敗北する(日清戦争)。

●新時代の政治体制と法制をつくったフルべッキ、民法の基礎をつくったボアソナード、大日本帝国憲法の生みの親ロエスレル、陸軍を育てたジュブスケ、近代海軍を整えたデュグラス。

また、外交の功績者デニソン、貨幣制度をつくったキンドル、銀行経営の道を開いたシャンド、殖産工業の推進者ワグネル、後の東大工学部を創設したダイエル、学校制度のモルディ、生物学の基礎をつくったモース、哲学・美術の父といわれたフェノロサ……。

これら日本の近代国家としての体裁を整えていった「外人お雇い教師」の多くはユダヤ人であり、日本はユダヤ人たちの力添えによって、近代国家へと脱皮をとげていったのである。
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★おまけ情報: 幕末・明治維新後の在日ユダヤ人について

●ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように語っている。

参考までに紹介しておきたい。

「幕末には横浜にユダヤ・コミュニティーが結成され、世紀の変わり目には50家族がこれに属していた。その少し前、帝政ロシアによる迫害を逃れてきたロシア人が長崎にやってきた。このグループはまもなく解散し、700名あまりが東京・横浜や神戸に移住したといわれる。日本各地のユダヤ・コミュニティーは、第一次世界大戦後のパリ講和会議で設立されたユダヤ代表委員会の後継組織である『世界ユダヤ人会議』の傘下にあった。」

「第二次世界大戦が終わるまで、普通の日本人の中にはユダヤ人とはキリスト教の一派だと思い込んでいる者が少なくなかった。 〈中略〉

横浜外国人コミュニティーの会長で『ジャパン・エクスプレス』という英字紙を発行していたラファエル・ショイヤーがいるが、彼の後任は、同じユダヤ人のウィルフリード・フライシャーで、この新聞を『ジャパン・アドヴァタイザー』と改称し、これは1940年に発行禁止となるまで最も影響力のある英字紙だった。発禁後は『ジャパン・タイムズ』に吸収される。

しかし、日本で最も著名なユダヤ人は、フライシャーの友人で後継者でもあったヤコブ・シフにちがいない。シフはかつてその影響力を駆使して日本にきわめて有利な状況を作り出すのに貢献した。そして、『金持ちで影響力に富む』という日本人一般のユダヤ人についてのイメージを体現する存在となったのである。」  

「アメリカの対日制裁は不安と怒りを呼び、日本は攻撃的になる。 〈中略〉 当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。

日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。

日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。

1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。 〈中略〉

かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた。彼らに比べると、何年も前に上海に移住したドイツ系、オーストリア系のユダヤ人や、その後到着した東欧系ユダヤ人は、遥かに厳しい運命にさらされることになる。」

※ 以上、『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
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■■第2章:「日清戦争」で日本を援助したユダヤ人マーカス・サミュエル

●1894年に「日清戦争」が勃発すると、「シェル石油」の創業者であるイギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルは、日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
 
●そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、サミュエルは日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

●サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

この年1月に「日英同盟条約」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。

(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。

※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使イギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。

「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係だったといえる。この同盟関係を守りきれなかったことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。

●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。

「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」

●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。
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■■第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ

●「日清戦争」勝利後、日本は、帝国ロシア南下政策と中国の権益をめぐって「日露戦争」(1904年)を行なった。しかし、日本はわずか1億7000万円の予算しか持っていないので、戦費を海外から調達しなければならなかった。

●当時の日銀副総裁の高橋是清(たかはし これきよ)が日本の公債の買い手を求めて絶望的な気持ちで欧米を駆け回っていたとき、ロンドンで日銀創立の功労者であったシャンドと出会った。そのときシャンドは、ユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」を率いるヤコブ・シフを高橋是清に紹介し、ヤコブ・シフは当時2億ドル(現在の1兆円)の公債の引き受けをした。

その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ヤコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。

(※ このヤコブ・シフと高橋是清の話は、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)の第4巻でも紹介されているので、知っている方は多いだろう)。

●ロシアは歴史を通じて、反ユダヤ主義が最も盛んだった国である。

歴代の皇帝はロシア正教に改宗しようとしないユダヤ人を圧迫した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺(ポグロム)が進行した。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が最も大量に殺された国であった。(当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった)。「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカへ逃げることになった。

●1905年、「日露戦争」で東洋の島国・日本が勝利すると、全世界のユダヤ人が狂喜した。

今日のイスラエルの国歌「ハ・ティクヴァ(希望)」の歌詞を書いたユダヤ詩人ナフタリ・インベルは、日本勝利の報せをきいて、明治天皇と日本国民を称える詩を発表した。

有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の原作者であるユダヤ人文学者シャローム・アライヘムは、1905年にワルシャワで「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表し、日本の勝利を称えた。

●敬虔なユダヤ教徒であったヤコブ・シフは、後になって次のように述懐している。

「私はロシアにおけるユダヤ人虐殺に、深く憤っていた。ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する“神の杖”であるにちがいないと、考えた。」

「日露戦争後(1906年)、私は日本政府の招待によって、初めて日本を訪れた。明治天皇は私に親しく感謝を述べられた。皇居では完璧に西洋流の、美味な料理が供されたが、食卓の飾りつけも、西洋式にきわめて洗練されたものだった。明治天皇は健啖(けんたん)で、ユーモアに溢れていられた。ご自分の治世が始まったころの愉快だった逸話について、自由闊達に話された。」

●この明治天皇のユダヤ人への感謝の思いは、昭和天皇にも引き継がれていた。

外交評論家の加瀬英明氏は、次のように述べている。

「もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった。他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は1966年から5年にわたって、東京に在勤された。

私は大使からきいたが、着任してすぐに、皇居において信任状の奉呈式が行なわれた。その時に、昭和天皇から『日本民族はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて、わが国はヤコブ・シフ氏に大変にお世話になりました。この恩を忘れることはありません』という、お言葉をいただいた。

大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。

昭和天皇は明治天皇を慕っていられたので、日本がヤコブ・シフとユダヤ人によって救われたことをよく知っていられた。

昭和天皇は日本国民のほとんど全員が、日露戦争について関心を失っていたというのに、日本の運命を決定した日露戦争を、昨日のことのように覚えていられたのだった。私は深く感動した。」

●昭和天皇は、その後のイスラエル大使に対しても、信任状の奉呈式が行なわれるたびに、ヤコブ・シフとユダヤ人への感謝を述べ、その上で、新任の大使を労(ねぎら)われたという。

昭和天皇とユダヤ人(イスラエル)に関しては、次のような逸話もある。


●1989年、昭和天皇が崩御された。

イスラエルのヘルツォーグ大統領は、「日本はナチスの友邦だったから参列するな」という国内の一部の反対を押し切って、大葬の礼に参列するために来日した。

東京のユダヤ人協会の歓迎の宴に招かれたヘルツォーグ大統領は、こう挨拶したという。

「先の大戦において、多くの国がドアを閉ざしていた頃、日本及び日本の管理地では数万のユダヤ人に避難場所が与えられました。我々は日本国民のこの行為を永遠に忘れません。ユダヤ人に対する日本の態度は、当時ヨーロッパで起きていた事とは全く対照的であり、ひときわ輝いています。」
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★おまけ情報: 「日露戦争に関与したユダヤ人」について

●20世紀初頭のロシアには全世界のユダヤ人の半分に当たる約500万人が住んでいた(これはロシア総人口の4%に当たる)が、「日露戦争」が勃発すると、ロシア軍兵士として戦ったユダヤ人がいた。

ヘブライ大学の有名なユダヤ人教授ベン・アミー・シロニー博士は、「日露戦争に関与したユダヤ人」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

「19世紀末、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により、押し進められていたのが現状だった。

1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほどの民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを『内の敵(ユダヤ人)』と『外の敵(日本人)』に向けようとした。」

「1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパのユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。

この資産家たちの中には、『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロシア人を援助する機関に寄付することにとどまった。

ロシアに対する態度とは対照的に、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフである。」

「日露戦争は、ユダヤ人が兵士として、また様々な物語の生みの親として大いに関係した、近代における最初の大戦である。(それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった)

ユダヤ人は『シベリア鉄道』の建設に携わり、戦闘態勢を整えた点でロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。(日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の約6.6%、このうち約3000人が戦死した)

しかしその一方、戦争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であった。

そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行して同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシア系ユダヤ人であった。」

「『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾みをつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達によってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』である。ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東地域の開拓につとめ、ロシアの存在を強めるためである。

中国の北東に位置する満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッパユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であった。

1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた。」

「日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった。

1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。

『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また忘れることはないであろう……彼は一個人でありながら、日本のアメリカからの資金調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人である!』」