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戦後日本の対米従属問題

2010-10-16 | clipping
Study of History|戦後日本の対米従属の事実問題と原因問題 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年10月14日(木)08時43分11秒
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9041

 
おはようございます、皆さん、植田です。

 戦後の日本は、日米安保に見られるとおり、「対米従属」をしていますが、対米従属ぶりを「事実問題」と「原因問題」に分けてみましょう。

 事実問題とは、戦後の日本が対米従属していることの事実の列挙と確認です。
 原因問題とは、そうしているのか誰か、という問題です。アメリカが日本人に、常に、従属せよ、と要求(恫喝)しているのか。そうでなければ、何が原因なのか。

 事実問題としての具体例です。
 たとえば、北方4島問題。
 先日、佐藤優氏が、1950年代に、ダレスが重光外相を恫喝して、日本はソビエトにあくまでも4島の同時返還を要求せよ、と申し渡したと述べていました。これは事実問題です。事実として、ダレスは重光にそのように命じた、ということです。

 では、なにゆえにそのような事実が起きたのか。
 ここから原因問題になります。
 早い話、なぜ重光外相は、日本外務省が計画している交渉戦略を中止せよ、とダレスに言われなければならないのか?
 たとえ、そう命じられても、ノー、と言うだけで済むのではないのか。

 しかし、こう書くと、思いだすではありませんか、1990年代の初頭のベストセラー『ノーと言えない日本』。石原慎太郎氏と、今は亡きソニーの創設者・盛田昭夫氏の共著でした。
 では、なぜノーと言えないのか。
 日本人はアメリカに何か弱みを握られているのか?
 それとも日本人は根っからアメリカが怖いのか?B29の空襲体験か、原爆の2発か。

 で、北方領土です。
 春名幹男の『秘密のファイル』に、当時、ダレスがなぜそのように重光に命じなければならなかったのかの説明があります。
 CIAが立案した冷戦計画の一環です。


 「CIAはソ連の対日宣伝工作にも、警戒の目を向けていた。特に注目したいのは、北方領土問題だ。『ソ連は、日米安全保障条約の放棄を条件に、一部の日本領土の返還と不可侵条約を盛り込んだ平和条約の締結を提案する可能性がある』
 1954年3月のCIA国家情報評価(NIE)文書はそう指摘している。アメリカはソ連の軍事攻撃よりも、北方領土の返還提案といった”平和攻勢”の方を警戒していたのである。」『秘密のファイル・上』共同通信社P.395

 ダレスと重光がロンドンで会談したのは1956年8月19日です。

 というわけで、ダレスにしてみれば、トルーマン政権を引き継いだアイゼンハワー政権の冷戦戦略を遂行したまででした。
 では、それがなぜ佐藤氏の言う「恫喝」外交になってしまうのか?

 ダレスは、ペリー以降の日米外交史をおさらいして、日本人を相手にするには、恫喝するのが一番良い、と学んだのか? 先輩・マシュー・ペリーがそうしたように。そしてイギリス公使のハリー・パークスがそうしたように。

 ちなみに、今年の8月13日に岩上氏がこの問題で岡田外相に質問しています。
 外務大臣会見記録に出ています。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/m/press/kaiken/gaisho/2010/08/13-4.html

 「4.北方領土返還に係る米国の関与

【フリーランス 岩上氏】前回の記者会見のときに、50年代の日米交渉についてお聞きいたしました。その数日後、つい最近ですけれども、NHKのETV特集でダレス・重光会談について詳しく報じられました。56年8月19日のロンドン会談の模様、その中身で米国側が圧力をかけて、北方領土を4島返還にするというように働きかけた模様、沖縄を返還しないぞという圧力を加えたという話、そうしたものが表に出てきております。これについて大臣は存じ上げないというお話だったのですけれども、もしご存じないということであれば、ちょっと観点を変えまして、日露資料集、日ソ資料集という公開されている資料があります。そちらに外交文書が出ているのですけれども、このダレスとの会談の後、ロンドン会談を受けて9月に米国側が日本に対して、外務省に対して出している書簡があります。その中に、もし北方4島を返還しないのであれば、サンフランシスコ講和条約に同意しているというのをペンディングにすると、つまりはチャラにしてしまうことも考えているぞという、米国の恫喝とも思える文章が入っています。これはもう公になっているもので私も読むことができて、確認しているのですけれども、こうした圧力が当時、領土、国境の画定に関して米国側から強くかかっていたという事実に関して、大臣はどうお考えになるのか、もう一度お話を伺いたいと思います。」

 ここでも岩上氏が、「恫喝」という言葉を使っています。
 アメリカ国務省からサンフランシスコ条約での同意をペンディングするという知らせが来たことをもって「恫喝」と。

 状況的には、もちろん、アメリカはここで「冷戦」を行っているわけです。
 アメリカは、どうしても日本を自陣営に留めておきたいわけです。
 しかし、その方法が「恫喝」なのか。
 それとも、それを「恫喝」と見なす、岩上氏の受け取り方がおかしいのか?

 で、岡田外相は、もちろん一国の外務大臣として、当然の言葉を口にします。

 「別に日本はそれに制約を受けるわけではないと。基本的にはそういうことだと思います。」

 主権国家たる日本が、アメリカの要求をそのまま飲むいわれはない、と。
 戦後世代の、2010年に外相になっている岡田氏は、そのように、普通の判断をしました。つい2か月前のことです。
 それでは、戦前の世代の重光外相はどうしたか?

 「日本はアメリカの制約を受ける立場にはいない」と言ったか?

 岡田外相と、重光外相の間には、沖縄返還という事実があります。1972年5月15日です。
 ダレスの時点では、アメリカは沖縄を交渉カードに使えました。
 2010年には、このカードはありません。

 となると、対米従属問題での、沖縄返還カードは、もうない、と、まず断定できます。
 これを理由に、アメリカは日本を「恫喝」できない、と。

 日本国の対米従属からの自立の障害が、これで一つ、クリアです。

 ちなみに、当然、吉田茂首相が、日米安保という「対米従属」条約を結んだ時は、沖縄は人質になっていました。
 吉田体制は今も続いていますが、彼が立案した時と今では、状況は変わっています。
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Study of History|日本経済の輸出主導型の起源と、冷戦前と冷戦後の日本経済の位置 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年10月14日(木)11時53分43秒
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9042

 
 こんにちは、皆さん、植田です。

 戦後の対米従属ですが、整理すると、今の時点での私の考えでは、3点になります。
 1 安全保障問題。
 2 経済問題。
 3 統治論の問題。

 これらの日本側の従属要因を一つ一つ消していくことで、戦後の日本は、晴れて、半独立国家から、全身独立国家になります。
 1952年の主権回復は、限定的な主権回復でした。

  で、今度は、経済での従属問題を見てみます。
 いわく、戦後日本経済の輸出主導構造は、アメリカが作った、というものです。
 いや、日本経済の輸出主導構造は戦前に形成されたものですが、春名幹男の『秘密のファイル』によると、アメリカ製です。

 なぜ春名氏は戦前の要因をカウントしないのだろうか、と私は考えたのですが、きっと「まるごと戦後世代」だろう、と思います。
 春名氏は、1946年生まれです。こうなると、モノゴコロがついたときには、すでに戦後日本は〈対米従属〉構造の中にいました。
 だから、戦後の日本社会のすべては「メイド・イン・アメリカ」である、という戦後世代の「普通」の発想になります。

 で、春名氏が、戦後日本経済の輸出主導体制はアメリカ製であると述べている箇所です。

 「アメリカは日本を西側陣営に引きとめることを重要な戦略とし、〈日本の経済復興〉を主要な対日政策の柱に掲げていた。・・
 アメリカの指導者は、日本製品が輸出競争力をつけるためにはどうすればよいか、真剣に考えていた。吉田政権もこれにこたえ、輸出を振興する体制を整えた。
 1948年12月、国務省と陸軍省は共同声明で〈経済安定9原則〉を伝達した。
 9つの原則とは、均衡予算の実施、税金徴収の厳格化、復興金融金庫貸出の制限、外国貿易・援助の管理体制の改善、生産増などである。
 翌年2月に来日したドッジ顧問が、これらの原則を実行に移す役割を担った。同4月には、1ドル=360円の固定為替レートが実施された。

 最大の問題は、どうやって輸出を振興するか、だった。
 吉田は、懐刀の白洲次郎と構想を練り、ドッジが在日中の2月8日、通商産業省の設置を発表した。それまでの商工省と貿易庁を合併させて、強力な輸出推進体制をつくる、というわけだ。
 当時貿易長官だった白洲は、閣議のあと記者団に、
 『全面的な輸出振興体制をとる』と豪語した。」『上』P.388

 以上のような具合に、春名氏によれば、「米国がつくった輸出主導体制」となります。
 ということは、今となれば、ニクソン・ショック以来、円高に振れるたびに日本経済の危機がメディアで騒がれるのは、このアメリカの冷戦戦略の立場を反映したものだったのか、とも考えられます。
 日本側は経済面でのアメリカの冷戦戦略に、政府が素直に応じただけではなく、メディアもその報道の視点(視座)を、輸出振興策は善、という立場に固定されてしまった、と。

・・・で、話を戻して、戦後の日本経済の輸出主導体制はアメリカが作った、という春名氏の説明でした。
 はたしてそうなのか?

 ターガート・マーフィーと三國陽夫の『円デフレ』によれば、戦前にすでに日本経済は輸出主導構造を構築していました。
 この構造を作ったのは、明治日本人たちの企業家精神の結果ではなく、政府の立案です。
 第二次大隅内閣で大蔵大臣になった若槻礼次郎の発案です。

 「日本を国際資本市場への隷属から解放することを目的にした従来と異なる政策を若槻は提案した。海外で借り入れる代わりに、輸出循環は国内主導型の資本調達から始めるべきである。輸出業者は資本財輸入の必要資金の調達を、輸出による外国為替の獲得で行うべきである。そして国際資本市場に関係なく、対外金融資産を蓄積すべきである。
 日本の金融の外国資本市場からの独立と輸出主導型成長を組みあわせたこれらの政策は、日本の経済運営の指導原理として永続した。
 それが再検討の余地があるとしてついに批判的議論の標的となったのは、日本が世界最大の対外純債権国として出現した1980年代後半のことである。」『円デフレ』東洋経済新報社P.112

 若槻大蔵大臣が、第一次世界大戦までの日本経済が、金融的に資金の調達を海外に依存していたことにより、戦後、日本経済が大不況に陥ったことを反省した結果でした。
 この時の若槻氏の決定は、今も、日本国債の保有者は、ほとんど日本人に限られている、という点に反映されています。金融上の資金調達は、日本経済は自前で行うべきである、と。
 海外に対しては、黒字のみを計上せよ、と。それが、海外市場の変動から日本経済を守るための最善の方法である、と。

 その意図はよし、そして1960年代までは大成功でした。
 1960年代までは、ということは、この中に春名氏の言う「アメリカが作った日本経済の輸出主導」も、年代的に含まれてきます。

 だから、日本経済の「輸出主導」構造は、問題の根が深いです。
 単にアメリカの冷戦戦略だけを取り上げても解決できません。
 明治以来の、この国の経済成長の仕組みそのものが問われる問題です。

 しかし、以上のように整理してみれば、輸出主導構造に関するアメリカの関与がどの程度のものだったのか、私たちはその範囲と限界を見極めることが出来るでしょう。
 アメリカは、すでに日本経済に存在した構造を利用したにすぎなかったのだ、と。

 チャルマーズ・ジョンソンの有名な通産省の研究本では、通産省の起源を1920年代に置いています。つまり、白洲次郎が決定した通産省なる組織は、戦前からあった官僚組織の看板を変えただけのもの、と。
 戦前も戦後も、日本経済は官僚が管理してきたのである、ということになります。

 ところが、これもまた冷戦の終了とともに微妙に変化します。
 北方領土問題では、沖縄返還前と後では、アメリカ側の交渉カードが大きく変わったように、経済問題では、冷戦前と後では、アメリカの姿勢が大きく変わります。

 冷戦期間中のアメリカの姿勢はどうだったか?
 とにかく、日本経済の構造が何であれ、日本経済を成長させよ、でした。
 資本主義型経済がソビエトの共産主義型経済よりもベターであることを、日本経済の成長を通して、「アカ」に見せつけよ、と。

 では、冷戦が終わると、どうなるか。
 今度は、経済大国になった日本から、その富をいただけ、と。
 冷戦勝利の「平和の配分」をアメリカは日本経済から収穫してもいいだろう、と。
 ここに、日本経済の構造転換の要求がアメリカから出てきました。
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Study of History|冷戦勝利後、1995年にアメリカは「金融帝国」として浮上した 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年10月16日(土)12時05分33秒
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9046

 
・・・ 14日に、冷戦前と後では、アメリカの日本経済に対する姿勢が変わった、というところまで来ました。「輸出主導型の起源と、冷戦前と冷戦後の日本経済の位置」。

 そこで、今度は、冷戦後の状況を見てみましょう。
 アメリカはいかに日本経済にアプローチしてきたか、です。
 大別すると、この問題は、2つに分けることができます。

 1 日本だけをターゲットにするアプローチ。
 2 アメリカの世界戦略(グローバル経済戦略)の一環として日本経済に対する要求。

 これまでの議論を振り返ってみると、(このホームページを立ち上げてからの経済問題の話題です)、どうやら1の問題に限られていたと思います。
 で、これは簡単です。
 アメリカは日本に構造改革をせよ、と迫った、と。
 具体的には、輸出主導型経済を転じて、というか、アメリカに輸出攻勢をかけなくても日本経済が成長できるように内需拡大をせよ、と。パパ・ブッシュ政権時代の日米構造障壁会議から、クリトン政権時代の日米包括会議、そしてブッシュ・ジュニア政権時代の「日米年次改革要望書」。

 これらについてもまだ結論がでるまでに充分に論じ切られていませんが、今、2の問題が浮上しました。
 アメリカの「帝国」国家としての経済戦略の問題です。
 日本経済だけをターゲットにする対日戦略としてのアメリカ問題ではなく、世界帝国としてのアメリカの国際戦略問題です。
 これゆえに、日本経済の構造要因(輸出主導型、官僚主導型問題)とは別に、アメリカ経済に内在する日本経済の富への必需がある、という要因です。
 これは何か?

 そこで非常に参考になるのが、水野和夫の『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』です。
 ここにアメリカ経済自身に内在する構造要因から、日本の経済の富を必需する背景が説明されています。
 たとえば、

 「〈フェルドシュタイン・ホリオカ・パラドックス〉が存在し、豊富な日本の貯蓄が日本国内で使われていては、貯蓄不足の米国としては困る。そのために米国は〈帝国化〉し、各国に金融の自由化を求めるなどして、各国の内政をも動かしてきたのである。」p.102

 水野氏によると、アメリカが「金融帝国化」したのは1995年です。
 まさに冷戦後、です。
 冷戦時代は、国の総力をあげてのソビエト共産圏との戦争でした。総力とは、軍事力、経済力、情報力、大学力、資源力、衛星国との関係力、外交力、文化力、などなどです。
 これらの総力戦が始まったのは1946年3月5日。チャーチルのアメリカ・フルトンのウェストミンスター大学での「鉄のカーテン」演説からでした。
 演説の内容の抜粋がここにあります。
 http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/lecture/kokusai/data/ironcurt.htm

 冷戦が終わったのはドイツでは1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊。
 ソビエト連邦が解体したのは1991年12月5日、ゴルバチョフの書記長の辞任。

 ここからアメリカはポスト・冷戦に向かって舵を切り始めます。
 その姿勢が明確に示されたのが、水野氏によれば、クリントン政権下でのルービン財務長の就任。

 「日本では95年に戦後が終わり、時代の大きな区切りとなったが、米国ではそれ以上のことが起きていた。すなわち米国にとって95年は、実物経済の時代が終わり、金融経済の時代の幕開けを画する年だった。金融経済が実物経済を凌駕し、かつ外国のマネーを米国のために自由に使うことができるようになり、米国の意図が国境の外まで及ぶようになった。いわば米国の〈金融帝国〉化元年だった。
 ドラッカーが89年に指摘した〈資本の移動によって、動かされ、形作られるグローバル経済〉を、95年に米国政府は明確な意図をもって構築しようとしていたのである。・・
 95年に財務長官に就任したロバート・ルービンがとった〈強いドル政策〉は、世界のマネーを米国に一端集中させ、その後再び世界に配分するシステム(マネー集中一括管理システム)であり、米国はそれを年々進化させていった。」p.30

 すなわちポスト冷戦のアメリカの新しい国際戦略は、金融界での「帝国主義化」でした。
 その政策が、ひたすら、例えば日本経済からその貯蓄を奪え、という行動になります。
 それに日本最大の銀行である郵貯を民営化して、その貯蓄を合法的にアメリカに流せ、ということになりました。

 ちょうどここに、小泉純一郎氏の、国会議員としての生活の全部を賭けた「財投改革」の構想がはまりました。そして郵貯を改革するのが、財投改革の生命線だ、と。で、小泉氏の構想では、これぞ、2009年8月の衆院選挙の民主党に先駆ける「脱官僚」でした。

 見事な日米の合体です。
 小泉氏の「脱官僚」が、アメリカの金融帝国化戦略と、まるで〈神の手〉が打ち合わせたかのように、ピッタリと合致しました。

 続く。