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経済学を王座から引きずり下ろせ!

2010-09-13 | clipping
JBpress|経済学を王座から引きずり下ろせ! 2010.09.08(Wed)Financial Times
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4405


(2010年9月7日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)

ノーベル経済学賞の受賞者であるポール・クルーグマン氏と、著名な歴史学者で本紙(フィナンシャル・タイムズ)にも寄稿しているニーアル・ファーガソン氏が経済危機への最適な対処法を巡って対立した際、ファーガソン教授はユーモアを交えた謙虚な姿勢でこれに応じた。

 「猫も王の姿を見ることは許される(下々の者も目上の人間に対して一定の権利を持つの意)。たまには歴史学者が経済学者に意見することがあってもいい」

 シャルトリューという種類の灰色で大柄な猫を飼い、大学では歴史学を専攻していた筆者は、知識人の間にあるこの暗黙の序列をひっくり返す時が来たと考えている。今こそ猫は鋭い爪を露わにし、王に飛びついて化けの皮をはがしてやらねばならない。

 経済学者たちの虚栄心に異議を唱える必要がある。とりわけ、経済学はモデルと方程式で支えられた厳密な科学であるという主張は、もっと疑ってかからねばならない。

■グローバル化時代の導師としてもてはやされた経済学者だが・・・

 世界経済が順調に回っていた頃、経済学者たちの威信は着実に高まっていった。彼らはグローバル化の時代のグル(導師)だった。政府やコンサルティング会社、投資銀行などが、貴重なスキルや情報を握っていると思われていた経済学者を競って雇った。

 これとは対照的に、歴史学者はただの芸能人か講談師のような扱いだった。古文書ばかりあさっていて科学的な手法を使わない。テレビ映りは悪くないが、パワーポイントを持たせても何もできないし、政府や取締役会の役には立たない、というわけだ。

 世界が経済危機に見舞われてから、経済学者たちの中にも反省や自己分析の動きが少し見受けられるようになった。クルーグマン氏と同じくノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ氏はこんなことを述べている。

 「もし科学とは『未来を予測できるもの』だと定義されるのであれば、経済学を扱うことを職業とする者の大半が危機の到来を予測できなかったことは、大いに懸念すべきことである」

 ところがスティグリッツ教授はそう言いながら、がっかりするほど穏当な結論に達している。経済学者は新しい「パラダイム」を探さねばならない、というだけなのだ。恐らく、それができたら科学的な予測をまた手がけるということだろう。

■そもそも経済学は「未来を予測できるもの」なのか?

 歴史学徒として教育を受けた者なら、上記のスティグリッツ教授の問題提起から全く異なる結論をすぐに思い浮かべるだろう。そもそも、経済学を「未来を予測できるもの」という定義を満たす科学として扱おうとすること自体が間違いである、という結論だ。

 この話になると、筆者は1980年代半ばに聞いた故ジェフリー・エルトン氏のテーブルスピーチを思い出す。

 当時、ケンブリッジ大学で現代史の欽定講座担当教授だったエルトン氏によれば、歴史学者の役目は特定の出来事や具体的な出来事に意識を集中することであり、過去を研究することによって将来の予測に役立つ一般的な法則を導こうと無意味な努力を続ける社会科学者に、それは思い上がりだと分からせることであるという。

 筆者はタバコと酒のにおいが充満した部屋でこれを聞いた時、歴史家の役割を奇妙なほど保守的かつ否定的に定義するのだなと感じた。つまり、手を挙げて、「諸君、いや、実際はもっと複雑だったんだよ」と言うことが我々の仕事だと言っているように思えたからだ。

 しかし、今日の知識人たちの状況に照らしてみると、エルトン教授はとても大事なことを言っていたように筆者には思えてくる。教授は経験主義的な手法を擁護し、過去を研究することで得られると期待できるものには限界があることを示唆していたのだ。

■「物理学羨望」に冒された経済学者

 勘違いをした少数のマルクス主義者たちは別として、歴史学者は、自分の仕事が将来の予測になど利用できないことを承知している。歴史は過去のよく似た出来事や教訓を教えてくれるし、知恵を授けてもくれるが、物理学の法則に相当する社会の法則を示すことはできない。

 ところが、「物理学羨望」に冒されていることで知られる多くの経済学者は、そういう社会の法則の発見を目指しているようである。

 このように書くと、いわゆる「ハードサイエンス」のハードさと経済学のソフトさを誇張しているという反論が出てくるかもしれない。確かに、そうかもしれないとも思う。だがそれでも、物理学の法則に基づいて構築された建物は持ち堪えるように思えるが、経済学の「法則」に基づいて構築された政策やトレーディングシステムは破綻を繰り返しているではないか。

 しかし、経済学は「進歩」をもたらしたり問題を解決したりする学問分野であり、その意味で物理学や化学といったハードサイエンスに似ているという見解を経済学者たちが捨てることはなさそうだ。

 米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が2004年に「大いなる安定(グレートモデレーション)」について行った有名なスピーチは、そうした見方の好例だろう。議長はこの時、「マクロ経済の変動性は著しく低下した」と指摘し、その主な理由を経済学の進歩に基づく金融政策の向上に求めていた。

 その後の金融経済危機で、ある学派に属する一部経済学者の自信はいささか傷ついたかもしれない。

 ところがもっと根本的な見方、すなわち経済の世界には将来を予測できる「法則」が存在し、どこかで発見されるのを待っているという多くの経済学者の考え方は、今日の「大不況(グレートリセッション)」をもってしても揺るがないようである。

■歴史学者から学べ

 だが、恐らく、物理学者の模倣を試みるのはもうやめるべきだろう。経済学者たちは今こそ歴史から、正確に言うなら歴史学者から教訓を学ぶべきである。

 本格的な歴史研究の起源は紀元前5世紀のヘロドトスにまでさかのぼる。しかしこの学問からどんな業績が期待できるかということについて、現在の歴史学者は現在の経済学者よりもはるかに謙虚だ。

 歴史学者は、大問題には決定的な解答など存在しないことを知っている。重要で興味深いトピックは何度も繰り返し取り上げられ、違った角度から検討されることも承知している。世代が替われば過去の出来事の解釈も変わり、そのたびに新しい判断が下されるのである。

 決断を下そうとする実際的な人にとっては、こんな世界観はあまり役に立たないだろう。しかし、経済学者という名のエセ科学者が売り歩いている見栄えの良い確実性に代わるものが、そろそろ登場すべき時期に来ているのかもしれない。

By Gideon Rachman

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