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大本事件以後 新興宗教のおさらい

2009-06-25 | clipping
大本事件(おおもとじけん)は、大日本帝国において大本の宗教活動に対して、日本の警察が行った宗教弾圧。大本弾圧事件とも。 1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

第一次大本事件による検挙の数年前から大本は教勢を拡大させていた。1919年(大正8年)には亀山城を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。また1920年(大正9年)には大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する。しかし一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎を中心とする一派が独走し、社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する向きもあった。 また、右翼団体の資金源となっているとの疑いももたれはじめていた。
1921年(大正10年)2月12日、不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、出口王仁三郎と教団幹部を検挙。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、綾部の本宮山神殿は破壊された。
1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともにモンゴル地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて張作霖により危機もあったが、7月に帰国している。
裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926年(昭和元年)12月25日、大正天皇が崩御し、1927年(昭和2年)免訴となる。
なお王仁三郎は保釈の後、秋頃から『霊界物語』の口述を始めている。また、この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後浅野和三郎は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を興している。

第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎はエスペラントの導入・ラマ教との提携など様々な活動を展開する。その一方で、頭山満・内田良平ら右翼人士との交流を行い、昭和神聖会を結成して軍事教練などを施したり、三月事件では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「昭和維新」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。
1935年(昭和10年)12月8日に内務省警保局長唐沢俊樹の直接の指示のもと、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、教団幹部61名が検挙・王仁三郎ら8名が起訴された。この第二次大本事件では徹底した弾圧が行われ、綾部・亀岡の聖地は跡形も無く破壊、関連施設も競売に付された。また激しい拷問で16人が死亡している。王仁三郎の『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱によって発売頒布禁止処分となった。
裁判は1938年(昭和13年)に開廷して以来、高山義三を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われたが、1942年(昭和17年)7月に下った第二審判決で治安維持法違反について無罪となった。不敬罪については大審院まで持ち込まれたものの、結果として有罪判決が下った。しかし、1945年(昭和20年)10月17日には、敗戦による大赦令で無効になった。なお、1947年(昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
第二次大本事件は、当初共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった。この事件により信教の自由を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある。一方、宗教団体に対する弾圧というよりも、急進的な政治的主張をする集団を摘発した事件と見る視点も必要と思われる。

二度の逮捕に共通する点は、実質上の信教の自由を許さず、天皇崇拝による国家の統合・統制を志向していた当時の日本にあって、大本の教義や活動内容が皇室の尊崇とは相容れないものであったことがである。また二度とも逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件では生長の家、世界救世教など・第二次事件では三五教など)が独立した。
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世界救世教(せかいきゅうせいきょう)とは、大本教の幹部であった岡田茂吉(おかだ もきち、1882年(明治15年)12月23日 - 1955年(昭和30年)2月10日)が1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団。現在の教主は四代目の岡田陽一。

神奈川県箱根町強羅に箱根神仙郷[1]、静岡県熱海市に熱海瑞雲郷[2]、京都府嵯峨野(広沢池隣接地)に京都平安郷[3]と、国内3ヶ所に教団の聖地と定めた神殿および庭園を有している[4]。箱根の聖地・箱根神仙郷には箱根美術館、熱海の聖地・熱海瑞雲郷にはMOA美術館があり、教団所蔵の美術品を展示している。

世界救世教の特徴的な宗教活動は、浄霊という手かざしの儀式的行為を各信者が行うこと、自然農法という農法を推進すること、芸術活動を行うことである。

分派が目立ったのは、激しく変革が行われた岡田茂吉死去の1955年以降(晴明教・世界浄霊会など)と、教団運営の中央集権化が図られた1970年以降(救世神教・神慈秀明会など)に多い。

上記団体以外にも世界真光文明教団や崇教真光など「真光系」と呼ばれる教団も、教祖である岡田光玉が世界救世教の布教師として活動していたことや、教義の酷似性などから、一般的には世界救世教の分派として捉えられている(真光系教団は、教祖が世界救世教の布教師として活動していた事実を公表はしていない)。

その後、組織運営の主導権をめぐって世界救世教自体が、松本康嗣らの新生派・川合輝明らの再建派・中村力らの護持派に分裂した。数々の法廷闘争などを経て、三派は1997年に和解、2000年に宗教法人世界救世教を包括法人とし、三派がそれぞれ被包括法人として、世界救世教いづのめ教団(新生派)・東方之光(再建派)・世界救世教主之光教団(護持派)として独立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%95%91%E4%B8%96%E6%95%99

大日本皇道立教会(だいにほんこうどうりっきょうかい)は、南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元で、1911年に創立された。中山忠英(父親は中山忠光)が初代会長に就任し、大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族により構成されている。
後に、大日本皇道立教会を母体として、創価教育学会が創立された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87%E9%81%93%E7%AB%8B%E6%95%99%E4%BC%9A

新潟県柏崎市(正確には柏崎市刈羽郡荒濱村)と言えば創価学会の初代会長、牧口常三郎の出生地だが、この常三郎とココでは何かと話題に挙がった京都の大本の上田喜三郎(後の出口王仁三郎聖師)が腹違いの兄弟だという説がある(w
http://antikimchi.seesaa.net/article/48126323.html

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大日本皇道立教会を母体に創価学会が創立というwikiの説明は間違いではないのだろうが、ネットに散見される説明のいくつかに大日本皇道立教会が牧口や戸田の創建によるというのがあって、これは間違いだ。彼らは若き児玉誉士夫らとともに会員にすぎない。