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戦後の言論をすべてご破算にする「昭和天皇が安保条約を主導」説

2010-04-15 | clipping
Study of History|戦後の言論をすべてご破算にする「昭和天皇が安保条約を主導」説 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年 4月15日(木)12時27分12秒http://8706.teacup.com/uedam/bbs


こんにちは、皆さん、植田です。

 豊下楢彦の『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)と『安保条約の成立』(岩波新書)を読みました。

 いやあ、こういうのをショックというのでしょうか。
 茫然自失というのでしょうか。

 なんと戦後日本の安全保障保障体制の構築を主導したのが昭和天皇だったとは!!
 臣・茂は、自分の外交官としての考えがあったものの、結局は、昭和天皇の意向に従うしかなかった、と。だから、私たちが聞かされてきた「吉田ワンマン政治」はウソであり、昭和天皇主導のカモフラージュでしかなかった、と。

 ダレスと講和・安保交渉を行った外務省条約局の文書を分析しながら、豊下氏がこのことを読み解きました。これが1996年の『安保条約の成立』でした。
 で、日米安保があまりにアメリカの言いなりになった背景には昭和天皇がいると気がついた豊下氏は、次にマッカーサーと昭和天皇の会見の全11回の内容を調べました。そこから浮き上がったのは、9条のもとに悩む昭和天皇でした。昭和天皇は共産主義に怯えていました。だから、日本軍が消滅したからには、アメリカ軍しか頼るものがありませんした。
 そこで昭和天皇は、ダレスに、アメリカは日本国を好きように扱ってもよいとメッセージを送りました。これで日米安保条約の基本方針が決まります。
 日本の外務省が日米の関係を対等に持っていこうとする条約案を立案しますが、天皇の意向を受けた吉田首相が、結局、ダレスの言いなりになります。

 というわけで、戦後の日本をアメリカの言いなり国家にしたのは誰か、といえば、昭和天皇でした。
 理由は、内外の共産主義です。
 折から、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。
 天皇は、これを皇室の危機と認識しました。共産主義勢力は天皇制をつぶそうとしている、と。
 吉田茂は、朝鮮戦争は対岸の火事と見なしていました。しかし、天皇の意向には逆らえず、吉田茂がやったのは、講和条約には出かけたくないとゴネたことだけでした。天皇に叱られて、吉田首相はいやいやながらサンフランシスコに出かけ、日米条約にたった一人で署名しました。実質的にここで署名したのは、昭和天皇でした。

 1951年9月に調印された安保条約の一条には不思議なことが書かれています。アメリカ軍は日本国内の騒乱に出動してもよい、と。
 これは何か、と私はずっと気になっていたのですが、昭和天皇がこの条約の主導者とわかってみれば、疑問が解けました。昭和天皇は、国内の「アカ」による暴動を警戒していたのでした。「アカ」になった日本人よりも、資本主義とデモクラシーの民であるアメリカの軍隊のほうが信用できる、と。

 で、さらに思うに、戦後の日本がアメリカに言いなりになっていることに、昭和天皇はどう感じていたか。
 私は戦争末期にヒトラーが命令した指令を想起しました。
 「戦争に勝利できないドイツ人は、存在してはならない」とドイツ全土に焦土作戦を出しました。さすがにそれまで忠実にヒトラーの命令を実行してきたアルベール・シュペーアはこれだけは実行しませんでした。

 昭和天皇にもヒトラーに似た気持ちがあったのではないか。
 皇室も守れない日本人は、アメリカに従属しておればよい、と。
 うーむ、です。

 で、私は、戦後の日本が官僚主導である証拠を探しているのですが、戦後の日米安保条約こそがその真骨頂でした。
 天皇主導の安全保障体制の構築とは何か。これぞ、日本が律令システムであることの証明であり、現代に生きる不比等戦略です。

 それゆえに戦後の日本人は外交問題に対して完全に思考停止をしてしまったのでした。
 天皇が主導したことには臣民は口を出してはならない、と。
 その結果が、今の鳩山首相の普天間基地移設問題での袋小路です。

 もちろん、日本人が自然理性人になればどうってことはない問題です。
 しかし、今は、もし昭和天皇が日米安保を主導したのであれば、戦後の日本人がなんだかんだと言ってきた言論は、すべてご破算になるだろうと、しばし、頭が茫然自失となりました。

 豊下氏の本のついでに、現在防衛大学学長の五百旗頭真氏の『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫2005)を読んだのですが、豊下説を見た後では、もう完全に「天皇象徴パラダイム」の中にいました。象徴になった天皇は、現実の政治にタッチしない、という戦後日本人が勝手に思い込んだ思考の枠組みです。
 しかし、共産主義の脅威を前にして、万世一系を守らねばならない昭和天皇には、憲法の条文など、ただの紙切れにすぎなかったわけです。

 さて、私たちがその中にいる「アメリカ言いなり」体制の戦後の日本を昭和天皇が作ったのだとすれば、私たちはどうしたらいいか。
 実に面白い問題です。

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吉田茂のストライキ 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年 4月15日(木)16時45分31秒


こんにちは、皆さん、植田です。

 戦後のサヨクもウヨクも昭和天皇に見事にうっちゃりをくらいました。
 ただの「象徴」であるはずの天皇が、戦後の「国体」を決定していました。
 日本国の安全保障を全部アメリカに依存する、という体制です。
 吉田茂は、昭和天皇の決定を追認し、首相として安保条約に署名するだけでした。

 なぜこのことが豊下氏が解明するまでわからなかったのか。
 というと、すべては主権が回復される前の出来事だったからだ、という点にあるでしょう。
 主権が回復後になってから、戦後の日本がなぜアメリカに従属するのかと調べても、一向にわからない秘密がここにありました。
 その時はすでに天皇の役割は終わり、名実ともに「象徴」となってその役割を見事に演じきって死んで行きました。
 ただ、節目節目には、アメリカに、「すべてオーライ」という合図を送っていました。アメリカ軍の日本駐留はすべて順調である、と。

 昭和天皇の恐怖・不安は2つありました。
 1 戦争犯罪人として裁かれること。
   これがクリアされると、次は
 2 憲法9条下での共産主義は皇室の死活的脅威となりました。
   共産主義を敵とみなすアメリカは、皇室を敵と考える共産主義勢力にとっては敵にな るので、アメリカと天皇は味方同士となり、利害が一致しました。
   そこで日本国土に米軍基地を提供する、と。
   もともと日本国土のすべては天皇のものだから。
 普通の日本人が、それは違う、と主張しても、天皇の僕(しもべ)たる外務官僚は天皇の意向のままに動く、と。
 これで占領中に日米安全保障条約が立案され、署名されました。
 1952年4月28日に主権が回復したときはすべて終わっていました。戦後の「国体」が作られていました。
 そして日本人は新憲法のもと、天皇は象徴になったので、政治には関与しないと考えるようになりました。
 以後、私たちは、戦後の日本の〈対米従属〉という現実を受け入れるしかない、となりました。

 『昭和天皇・マッカーサー会見』の「はしがき」で豊下氏が言います、

 「この拙論で筆者が取り組んだ課題は、占領下の政治外交過程における〈天皇ファクター〉の重要性を抉り出すという、それまでおよそ本格的な研究の対象とはなっていなかった〈空白〉の領域に挑戦することであった。」P・

 そう、豊下氏は実にいいところに着眼したわけです。
 これで私たちは戦後の日本人の言論の「すべて」を見直すことになります。

 問題は、天皇とは何か。
 なにゆえに天皇はそこまでこの国の「国体」を決定できるのか。
 となります。

 この天皇が決定した「国体」の中で、金丸・元自民党幹事長の「思いやり予算」があったり、ジョセフ・ナイが日本の防衛方針を決める「ナイ・レポート」があったり、普天間基地移設問題があったり、と、私たちが戦後に目撃してきたゴタゴタが置きます。

 豊下氏が1996年に言いました、

 「そもそもなぜ〈ナイ・レポート〉が日本の防衛外交方針の指針とならねばならないか、という前提自体が問われることはないのである。かくして、日本における〈有事対応〉体制の確立こそが、〈日米緊密化〉の証しとして位置づけられることになった。」『安保条約の成立』P.239

 「米大統領補佐官キッシンジャーが、国際政治の重要なイッシューに関わる資格がない〈つまらぬ簿記掛と蔑んだ日本への認識は、〈ナイ・レポート〉においては、安保条約の意義を〈核兵器能力をもとうとする試みを未然に防ぐのに役だっている〉ことに求める、根底における対日不信感として維持されている。」P.240

 戦後日本の問題の核心と根源は、占領中の昭和天皇の政治介入にありました。
 「万世一系」をどうしても守りたいという昭和天皇の不比等戦略への忠誠です。いや、皇祖皇宗への誓いです。

 吉田茂以下、講和条約、日米安保条約の立案に頭を振り絞る外務省官僚は、結局、この昭和天皇の意志に服しました。律令官僚です。

 吉田茂が、もし、後醍醐天皇に反抗した足利尊氏のようであったら、どうなったか。
 いや、いましたよ、吉田茂の側近に、足利尊氏もどきの日本人が。
 白洲次郎です。
 白洲次郎は、冷戦が始まった時点で、中国をアメリカとの交渉カードに使いました。
 しかし、これが天皇の逆鱗に触れます。
 皇室を守ってくれるのはアメリカ軍だから、交渉などするな、と。ただ、日本はアメリカの言うことを聞いて、その通りに動けばいいんだ、と。

 吉田茂はここでストライキを起こしました。

 「〈総理の口から漏れた総理の心境ー平和会議に自分は出たくないというー〉(調書Ⅶ昭和26年9月サン・フランシスコ平和会議)問題、つまり、来るべき講和会議において日本側全権主席を当然になうべきはずの吉田が、執拗にその任務を固辞した・・。」同前掲書P.211

 「吉田の固辞は執拗をきわめた。会議の開催地がサンフランシスコとなることが最終的に日本側に伝えられたは7月7日であったが、それ以降も吉田の態度は、シーボルトの側がワシントンに送った報告にしたがえば、『サンフランシスコの選択が全権の任務を人に託す格好の機会を与えるのみならず、そのような兆候がいよいよ高まってきた』というものであった。」P.215

 「つまるところ吉田は、調印されるべき安保条約にそれほどにも自信をもつことができなかった、ということであろう。それは、みずからの〈外交センス〉で構想していたのとはまったく異なった筋書きで日米交渉が進展し、その結果としてまとめられた安保条約であったことを示しているのであろう。
 さてそれでは、かたくなに〈異常〉なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであろうか。それは、天皇への〈拝謁〉であった。」P.216

 要するに、私たちは、対米従属問題を論じる時、つねに昭和天皇の呪いの中にいる、ということです。
 よくも日本人は皇室を守る努力を怠ったな、と。

 昭和天皇の政治介入は、日米がイコール・パートナーになるための交渉を封じ込めたわけですが、さて、私たちはここからどうやって抜け出すか。

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池田ミッションは、昭和天皇の意向に違いない=残念ながら、決定的証拠がない 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年 4月15日(木)19時28分14秒


 こんばんは、皆さん、植田です。

 鳩山首相の普天間基地外交、ピンチです。
 今となれば、昭和天皇が作ったアメリカに依存する戦後日本の「国体」ラプリンスの中に鳩山首相も迷い込んでしまったわけです。
 誰が首相になっても、今後も、否応なく「昭和天皇の呪い」の中に入っていくでしょう。

 ただし、占領中においても外務省は日米をいかにして対等にするかということを念頭に、必死で条約案を作成しました。国連を仲介させたり、中国やソビエト・カードを持ち出したり。
 これらの試みは、すべて昭和天皇の政治介入の前に吹き飛びました。

 しかし、昭和天皇は1989年に故人になり、昭和天皇が怯えたソビエト共産主義は昭和天皇とともに、まるで心中するように消滅しました。

 ところが、以後も日本人は昭和天皇の呪いを抜け出せません。
 私たちはどうしたらいいか。
 安保条約は、律令理性と自然理性問題にとっての、最大のケース・スタディーとなりました。

 豊下氏が言います、

 「東京裁判に〈謝意〉を表わしつつその地位を守り抜いた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、〈国家元首〉としてみずから乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重要な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。
 結果として天皇の行った〈外交〉は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政府外務省の政策決定を見事に先取りするものであった。そこには、共産主義の脅威から天皇制を守りきるためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするためには吉田であれマッカーサーであれ、バイパスし、侵略に対してはあらゆる手段の行使を米軍に求めるという、天皇リアリズムとも言うべき冷徹さが見られる。要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の〈国体〉と位置づけられたはずなのである。」『昭和天皇・マッカーサー会見』P.128

 天皇リアリズムとは、要するに、不比等戦略リアリズムです。
 「万世一系」を私の代で終わらせてはならない、と。
 それには、天皇制に脅威を与える共産主義を断固、ブロックしなければならない、と。

 このような決意を持つ天皇に、アメリカに従属することを嫌って、中国とも、ソビエトとも、アメリカとも、等距離外交を採用する、という外務省のアイデアが通用したか。
 外務省でなくても、今でもあります。
 しかし、今なら、共産主義ソビエトは存在しないから、昭和天皇の時代とは国際環境が変わりました。

 平成天皇は昭和天皇のような外交センスを持っているのか。
 それとも、猪瀬直樹が言う「ジミーの誕生日」の日に、ただA級戦犯のことを思い出すだけなのか。

 ところで「戦後の開幕を告げた」、と従来常識的に考えられてきた池田ミッションですが、豊下氏が『安保条約の成立』の中でたっぷりと疑っていました。
 1950年4月25日、池田隼人、宮沢喜一、白洲次郎がマッカーサーをパイパイしてワシントンに向かったミッションです。

 豊下氏が、吉田茂の『回想10年・3巻』を引用しつつ、述べています、

 「『池田君が・・私の意見をきいて行きたいということであった。そこで・・私の講和に対する意見を語り・・』
 この叙述によれば、講和に関する〈私の意見は〉は、あくまでも池田の要請にこたえて開陳されたもので、吉田のスタンスはきわめて受動的なのである。誰よりも自尊心のつよいはずの吉田が、なぜ、安保の基礎を構築した自らのイニシアティブと先見の明を誇ろうとしないのであろうか。」P.121

 その後、秘密のミッションがマッカーサーにばれます。当然、ワシントンからミッションの報告がマッカーサーに届いたわけです。
 そこでマッカーサーが当分、吉田には会わないと伝えます。
 そこで豊下氏が言います、

 「この喜劇的ともいえるドタバタ劇をみていると、〈日米安全保障条約の基礎がここにはじめて生まれた〉という宮沢の有名な定義かむなしく響くのである。」P.125

 「はたして〈池田ミッション〉は吉田の〈ワンマン外交〉の所産であったのか、吉田は真にみずからの意思と判断に基づいて池田を派遣したのか、という根本的な疑問が生じてこざるをえないのである。」P.141

 推測するに、池田は天皇の側近を通して、天皇からワシントン訪問を命じられたのでしょう。だから、吉田首相に、首相の真意を確かめに来た、と。

 ここは戦後の「国体」が形作られていく、生成途中の最も重要なポイントです。

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Amazon.co.jp:カスタマーレビュー
昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫)
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5つ星のうち 5.0 憲法逸脱天皇、正体見たり。, 2010/1/11
By よこちね
昭和天皇が、戦後「象徴」となってからも、色々と政治的な行為に手を染めていたことは、例えばハーバート=ビックス『昭和天皇』でも記述されていますが、彼がマッカーサーとの関係の中で「国体護持」のために蠢動していたことが、これだけ明確になったのは、大変意義あることだと思います。
故・大江志乃夫先生が「創業者型の天皇は別として、昭和天皇の政治的手腕に匹敵するのは後白河上皇あるのみ」と喝破していますが、本書を読んでその感を深めています。
戦後の発言(「独白録」を含めて)では、立憲君主を自認していますが、現行憲法の下ですらそうでなかったことに更なる証拠が出ました。日本近現代史に関心のある方は必読。


5つ星のうち 5.0 昭和天皇の御意, 2009/9/17
By 沈思黙考 (冥王星)
> 昭和天皇が新憲法によって「象徴天皇」になって以降も、
> 安全保障問題といった「高度に政治的な問題」にかかわっていった背景を明らかにした
> 本書は、実質的には20年近くにわたって取り組んできた昭和天皇研究の、筆者なりの "総決算" である

> 軽武装・経済重視という「吉田ドクトリン」を生み出す画期をなし、
>「吉田外交路線の正しさを証明」(永井陽之助)した記念碑的な論文と位置づけられた
> 高坂正堯の論文「宰相吉田茂」(『中央公論』1964年2月号)・・・
> 厳密に検証していくと、この論文には史実に関し少なからぬ重大な誤りが見られる

『週刊金曜日』No.749 2009・5・1、5・8合併号より
「私は・・・膨大な資料を読みましたが、一番衝撃を受けたのは、吉田が首席全権を頑として固辞したという点でした。
・・・結局、ワンマンの吉田を唯一押さえ付けることができた天皇に言われた形で出席するのですが、
当時、米国とフィリピン間で結ばれていた条約よりもひどく、日本を植民地扱いする内容でしたから。
その最も具体的な例が、「極東条項」です。
米軍は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与」するというまったく曖昧な目的を口実に、日本の基地を利用できる。
しかも、日本はその全土を米軍に基地提供する義務があるのに、米軍にとって日本の駐留は権利であり、日本の防衛義務もないというのですから。
本来、国連憲章からいえば、武力行使が可能となる条件は相手国からの武力攻撃がある場合です。
ところが「極東条項」によると、「極東の平和と安全」などというどうにでもとれる名目で米軍は動ける。
つまり安保条約とは、核心部分で国連憲章を踏み外しているのです。
だからこそ、吉田が固辞した最大の要素は、全土基地化や基地の自由使用権の問題とともに「極東条項」だったと考えられます」
「『宰相吉田茂』では、吉田がダレスと交渉した際の最大のポイントが再軍備をめぐる問題であったかのように描いていますが、事実は違う。
ダレスが求めたのは米国が占領期と同じように「望むだけの軍隊を望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」であり、
吉田はこれに最初は抵抗した。国会でも本心はどうあれ、「私は軍事基地は貸したくないと考えております」とまで答弁しています(50年7月29日)。
問題は、天皇がダレスの望む米軍無条件駐留を実現するため、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーや吉田をバイパスしてまで動いた事実なのです。
しかも47年5月の現行憲法施行後、天皇はそれまでの元首から「象徴」となり、政治的行為が禁じられたはずなのに」
「天皇の意思は、「日本が基地を無条件に提供しますから米軍はいてください」という線で安保条約をまとめる ― というものでした。
そして「条件闘争」で対米交渉に臨もうとした吉田も折れ、この線に従わざるを得なくなったとみています」