アナザー・オルタ通信|CIAスポーツクラブ=読売巨人軍 2009年07月08日
http://anotheralt.seesaa.net/article/123042372.html
1920年、警視庁官房主事として、戦争に反対する労働組合等を弾圧した正力松太郎は、24年、読売新聞を買収。この新聞で、第二次世界大戦中、戦争を煽った事によって、読売新聞の事実上の創立者・正力松太郎は、45~48年まで戦争犯罪の容疑で巣鴨拘置所に拘置される。
51年、公職追放を解除された正力松太郎は、日本テレビを作ろうと資金集めにかかる。
当時、世界の支配者として姿を現しつつあった米国には、アメリカの政策が正しいと宣伝する目的で、米軍の別働部隊としてラジオ放送局VOAが創られていた。
VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の共和党右派・上院議員カール・ムントは、部下であるニューヨークの弁護士=議会対策の顧問弁護士であり軍人でもあったヘンリー・ホールスウセン少佐を、日本に派遣し、正力松太郎に、VOAのTV版創立を働きかける。
ヘンリー・ホールスウセンはユニテル社という極東全域を支配する、米軍用TV企業を経営していた。
正力松太郎は米国・国防総省と政界に強いコネを持つ、ワシントンのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所を通じ、アメリカ国防総省に、日本テレビを日本支配=米国の政策宣伝TVとして創立する趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請、承諾を得る。この「提携」の下、ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。
このペンタゴンによる、日本テレビ創立には、アメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベレット・ダークセン上院議員が、「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として、議会への説得工作を展開した。
===
オルタナティブ通信|CIA組織であるプロ野球 読売巨人軍 2007年07月08日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49623883.html
第2次世界大戦後、米国は世界各地で低強度戦争を展開する。「米国に対し反抗的な人間のスキャンダル等をマスコミに流し社会的に抹殺」し、またマスコミ操作により米国への批判意識を眠り込ませる「戦争」である(拙稿「国家破産への米軍戦略」参照)。
日本への原爆投下を事実上指揮した、米国大統領直属の「心理戦争局」の局長エイブリル・ハリマン=ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行社長(戦中は社長.戦後は会長)は、日本に対し、この低強度戦争として3S計画を実行する(拙稿「広島.長崎への原爆投下」参照)。
3Sはテレビ等を通じ、セックス情報、スポーツ、スクリーン=映画を絶え間なく流し重要な政治経済問題から「目を外らす」ように仕向け、「何も考えさせない」ようにすると言う愚民化計画である。
敗戦当時、日本にはテレビ局はNHKしか存在しなかった。米軍は3S作戦実行のため、戦前からのCIAスパイである読売新聞の創立者、正力松太郎とその部下渡辺恒雄(現在の読売新聞・経営者)に「命令」し、CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。
正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。
郵便局民営化に徹底的に反対した経済学者植草一秀等が、電車内でのチカン容疑等でマスコミに徹底的に叩かれる理由がこれで明確になる。日本のマスコミは「米国に対し反抗的な人間のスキャンダル等をマスコミに流し、社会的に抹殺する」心理戦争部門として作られた米軍施設である。
読売新聞、日本テレビ経営者渡辺恒雄は、CIA工作員として日本最大の新聞社、そしてCIAテレビ局=日本テレビを経営し、3S計画としてプロ野球・読売巨人軍を大々的に宣伝し、日本にプロ野球ブームを拡げて行く。日本の新聞社、テレビ局等のマスコミ、プロ野球等のプロスポーツが日本人に「貴重な政治経済問題を考えさせず、問題から目を外らす」ための米軍の「支配の道具」として作られて来た事実が浮かび上がって来る。
米軍が武器を持ち日本に駐留し、日本を支配下に置いているように、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍は、米軍の「兵器」として「作られた」。
なお、読売新聞、日本テレビの創立者正力松太郎のCIAスパイとしての暗号名はポダムpodam、CIA・米軍の日本支配組織としての読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍のスパイ組織暗号名はポハイクpohikeである。
※・・正確には中小零細新聞社であった倒産寸前の読売新聞社を正力松太郎がCIA資金で買取り、渡辺恒雄と共にCIA資金で日本最大の新聞社に成長させた事になる。
===
有馬哲夫|『日本テレビとCIA』を書きおえたあとわかった事実
正力の原子力導入推進キャンペーンとCIAの心理戦
2006年11月25日(於東京経済大学)
http://www.f.waseda.jp/tarima/pressrelease.htm
正力はCIAに操られていたか
CIA文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが、正力は柴田秀利が彼に送った報告書を通じて、CIAが一九五三年に柴田が一〇〇〇万ドル借款のために渡米した柴田に接触し、かつ自分のことをいろいろ聞いたことは知っていた。したがって、正力はCIAが自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていたことは承知していたといえる。・・・
・・・事実、正力は一九五四年以降の原子力発電導入のときは、操られるどころか、CIAと虚虚実実の駆け引きをしている。つまり、正力は原子力導入にCIAの支援を得ることで、五年以内の商業発電を目指し、この実績をもとに総理大臣の椅子を手に入れようとしていた。CIAは正力を利用して第五福竜丸事件で高まった日本の反原子力世論を讀賣新聞と日本テレビを動員させて沈静化し、これを果たしたのちに日本への核兵器の配備を政府首脳に呑ませようとしていた。
結局、CIAとUSIA(合衆国情報局)は讀賣グループの原子力平和利用キャンペーンには手は貸すものの、アメリカ政府は原子炉の日本への輸出は渋った。日本やドイツのような科学技術の水準が高く、かつ敵国だった国には原子力平和利用の支援をひかえるというのが方針だった。その一方でイランやパキスタンやインドなどは積極的に支援した。今日、これがアメリカの頭痛の種になっているのは皮肉だ。
アメリカの態度に業を煮やした正力は、讀賣新聞を使ってアメリカの外交を批判し、かつイギリスから原子炉を購入することを決めてCIAを激怒させた。(それでも実験炉はアメリカから購入して抜け目なくバランスをとっている)
このような事実に照らしてみると、正力はCIAに操られていたというより、少なくとも原子力導入の時期は、CIAと互角にわたりあっていたというほうが正しいといえる。正力とCIAの関係は、持ちつ持たれつの、不思議な共生関係であって、どちらかがどちらかを支配するという関係ではなかった。終戦直後、巣鴨プリズンに押し込められていた時期の正力とGHQ(とりわけGII)の関係とは明らかに異なっていた。
それにしてもCIAやUSIA関係者は、正力のたかり根性には往生していた。正力は上院外交委員会(およびその顧問のホール・シューセン)にはマイクロ波通信網を、CIAには原子力発電所とカラーテレビをただでくれとしつこくねだった。
結局、最後のものだけはCIAからもらえたが、他のものはだめだった。とはいえ、正力は原子力発電所をねだるときでさえ、マイクロ波通信網はもういらないとは決していわなかった。カラーテレビをねだるときでさえ、タイのテレビと放送網と提携するためにやはりマイクロ波通信網が必要だといっている。
また、何でも自分の手柄にしたがり、原子力平和利用博覧会の成功も自分のおかげだと大いばりして、費用と労力をほとんど負担したUSIAの関係者をうんざりさせた。にもかかわらず、どことなく憎めないやつだとUSIA、CIA関係者に思われていたふしがある。・・・
・・・しかし、CIAにとって正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない油断のならない人間だった。この意味で正力は吉田や鳩山や岸よりも手ごわかったといえる。正力の持つ讀賣新聞や日本テレビに対する影響力を利用するためにCIA関係者は正力が死ぬまでこの「タフ・ネゴシエイター」といろいろ取引しなければならなかった。
これまでゆがめられ、矮小化されてきた正力像、とくに柴田の私怨によって捏造された正力像は改められてしかるべきだろう。「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」がこれまで書かれてきたような卑小な人物であるはずがないではないか。これだけの多く偉業をなし得た人物は日本の現代史ではほかに見当たらない。
アメリカに利用されたというかも知れないが、占領期とそれに続く時代では、そうすることによってしか歴史に残るような大業はなしえなかった。吉田茂とて同じではなかったか。だが、吉田を評価するにせよ、批判するにせよ、彼が歴史的に大きな役割を果たしたということは否定しないだろう。正力の場合も同じだ。
===
編集長の辛口時評|CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事 2006.02.11
http://www.jca.apc.org/~altmedka/karakuti-0602.html
・・・ こうして正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。
CIAは正力に関する追跡調査を続け、ファイルは厚みを増していった。
その接着剤となったのが原子力発電である。
正力の衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。
日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。
一方の正力は、政界出馬に意欲を燃やし、アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、原発推進の立場を明らかにしていた。
おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。
この時、正力の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田だったが、彼が接触していた入物は、やはり CIAのある局員で、CIAファイルにはこの局員が書いた多数の報告書が残されている。CIAは、正力が政治家となる最終目標が総理の椅子だということも早くから見抜いていた。
1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。
CIA文書は、この時、鳩山首相が正力に防衛庁長官を打診した際、正力が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。
この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。
正力の目的は、原子炉をアメリカから購入することにあったが、最終的に、CIAはその件で正力に協力することはなかった。
日本が潜在的原爆保有国になることへの懸念が理由だが、それ以外にも、CIAが正力の政治的野望に利用されては困るという抑制も働いていた。
そして1956年以降、正力にはポダムに替わって「ポジャックポット」という新たな暗号名が与えられることになった。
暗号名の変更が総理の椅子を諦めたからなのかどうかは定かではない。(敬称略)
参考
7月27日付け本ブログ「オペレーション・ポカポン」
http://blog.goo.ne.jp/kohay/e/d94fdfa49dbb55ad4bcaf4a4e4fc622f
http://anotheralt.seesaa.net/article/123042372.html
1920年、警視庁官房主事として、戦争に反対する労働組合等を弾圧した正力松太郎は、24年、読売新聞を買収。この新聞で、第二次世界大戦中、戦争を煽った事によって、読売新聞の事実上の創立者・正力松太郎は、45~48年まで戦争犯罪の容疑で巣鴨拘置所に拘置される。
51年、公職追放を解除された正力松太郎は、日本テレビを作ろうと資金集めにかかる。
当時、世界の支配者として姿を現しつつあった米国には、アメリカの政策が正しいと宣伝する目的で、米軍の別働部隊としてラジオ放送局VOAが創られていた。
VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の共和党右派・上院議員カール・ムントは、部下であるニューヨークの弁護士=議会対策の顧問弁護士であり軍人でもあったヘンリー・ホールスウセン少佐を、日本に派遣し、正力松太郎に、VOAのTV版創立を働きかける。
ヘンリー・ホールスウセンはユニテル社という極東全域を支配する、米軍用TV企業を経営していた。
正力松太郎は米国・国防総省と政界に強いコネを持つ、ワシントンのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所を通じ、アメリカ国防総省に、日本テレビを日本支配=米国の政策宣伝TVとして創立する趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請、承諾を得る。この「提携」の下、ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。
このペンタゴンによる、日本テレビ創立には、アメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベレット・ダークセン上院議員が、「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として、議会への説得工作を展開した。
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オルタナティブ通信|CIA組織であるプロ野球 読売巨人軍 2007年07月08日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49623883.html
第2次世界大戦後、米国は世界各地で低強度戦争を展開する。「米国に対し反抗的な人間のスキャンダル等をマスコミに流し社会的に抹殺」し、またマスコミ操作により米国への批判意識を眠り込ませる「戦争」である(拙稿「国家破産への米軍戦略」参照)。
日本への原爆投下を事実上指揮した、米国大統領直属の「心理戦争局」の局長エイブリル・ハリマン=ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行社長(戦中は社長.戦後は会長)は、日本に対し、この低強度戦争として3S計画を実行する(拙稿「広島.長崎への原爆投下」参照)。
3Sはテレビ等を通じ、セックス情報、スポーツ、スクリーン=映画を絶え間なく流し重要な政治経済問題から「目を外らす」ように仕向け、「何も考えさせない」ようにすると言う愚民化計画である。
敗戦当時、日本にはテレビ局はNHKしか存在しなかった。米軍は3S作戦実行のため、戦前からのCIAスパイである読売新聞の創立者、正力松太郎とその部下渡辺恒雄(現在の読売新聞・経営者)に「命令」し、CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。
正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。
郵便局民営化に徹底的に反対した経済学者植草一秀等が、電車内でのチカン容疑等でマスコミに徹底的に叩かれる理由がこれで明確になる。日本のマスコミは「米国に対し反抗的な人間のスキャンダル等をマスコミに流し、社会的に抹殺する」心理戦争部門として作られた米軍施設である。
読売新聞、日本テレビ経営者渡辺恒雄は、CIA工作員として日本最大の新聞社、そしてCIAテレビ局=日本テレビを経営し、3S計画としてプロ野球・読売巨人軍を大々的に宣伝し、日本にプロ野球ブームを拡げて行く。日本の新聞社、テレビ局等のマスコミ、プロ野球等のプロスポーツが日本人に「貴重な政治経済問題を考えさせず、問題から目を外らす」ための米軍の「支配の道具」として作られて来た事実が浮かび上がって来る。
米軍が武器を持ち日本に駐留し、日本を支配下に置いているように、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍は、米軍の「兵器」として「作られた」。
なお、読売新聞、日本テレビの創立者正力松太郎のCIAスパイとしての暗号名はポダムpodam、CIA・米軍の日本支配組織としての読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍のスパイ組織暗号名はポハイクpohikeである。
※・・正確には中小零細新聞社であった倒産寸前の読売新聞社を正力松太郎がCIA資金で買取り、渡辺恒雄と共にCIA資金で日本最大の新聞社に成長させた事になる。
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有馬哲夫|『日本テレビとCIA』を書きおえたあとわかった事実
正力の原子力導入推進キャンペーンとCIAの心理戦
2006年11月25日(於東京経済大学)
http://www.f.waseda.jp/tarima/pressrelease.htm
正力はCIAに操られていたか
CIA文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが、正力は柴田秀利が彼に送った報告書を通じて、CIAが一九五三年に柴田が一〇〇〇万ドル借款のために渡米した柴田に接触し、かつ自分のことをいろいろ聞いたことは知っていた。したがって、正力はCIAが自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていたことは承知していたといえる。・・・
・・・事実、正力は一九五四年以降の原子力発電導入のときは、操られるどころか、CIAと虚虚実実の駆け引きをしている。つまり、正力は原子力導入にCIAの支援を得ることで、五年以内の商業発電を目指し、この実績をもとに総理大臣の椅子を手に入れようとしていた。CIAは正力を利用して第五福竜丸事件で高まった日本の反原子力世論を讀賣新聞と日本テレビを動員させて沈静化し、これを果たしたのちに日本への核兵器の配備を政府首脳に呑ませようとしていた。
結局、CIAとUSIA(合衆国情報局)は讀賣グループの原子力平和利用キャンペーンには手は貸すものの、アメリカ政府は原子炉の日本への輸出は渋った。日本やドイツのような科学技術の水準が高く、かつ敵国だった国には原子力平和利用の支援をひかえるというのが方針だった。その一方でイランやパキスタンやインドなどは積極的に支援した。今日、これがアメリカの頭痛の種になっているのは皮肉だ。
アメリカの態度に業を煮やした正力は、讀賣新聞を使ってアメリカの外交を批判し、かつイギリスから原子炉を購入することを決めてCIAを激怒させた。(それでも実験炉はアメリカから購入して抜け目なくバランスをとっている)
このような事実に照らしてみると、正力はCIAに操られていたというより、少なくとも原子力導入の時期は、CIAと互角にわたりあっていたというほうが正しいといえる。正力とCIAの関係は、持ちつ持たれつの、不思議な共生関係であって、どちらかがどちらかを支配するという関係ではなかった。終戦直後、巣鴨プリズンに押し込められていた時期の正力とGHQ(とりわけGII)の関係とは明らかに異なっていた。
それにしてもCIAやUSIA関係者は、正力のたかり根性には往生していた。正力は上院外交委員会(およびその顧問のホール・シューセン)にはマイクロ波通信網を、CIAには原子力発電所とカラーテレビをただでくれとしつこくねだった。
結局、最後のものだけはCIAからもらえたが、他のものはだめだった。とはいえ、正力は原子力発電所をねだるときでさえ、マイクロ波通信網はもういらないとは決していわなかった。カラーテレビをねだるときでさえ、タイのテレビと放送網と提携するためにやはりマイクロ波通信網が必要だといっている。
また、何でも自分の手柄にしたがり、原子力平和利用博覧会の成功も自分のおかげだと大いばりして、費用と労力をほとんど負担したUSIAの関係者をうんざりさせた。にもかかわらず、どことなく憎めないやつだとUSIA、CIA関係者に思われていたふしがある。・・・
・・・しかし、CIAにとって正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない油断のならない人間だった。この意味で正力は吉田や鳩山や岸よりも手ごわかったといえる。正力の持つ讀賣新聞や日本テレビに対する影響力を利用するためにCIA関係者は正力が死ぬまでこの「タフ・ネゴシエイター」といろいろ取引しなければならなかった。
これまでゆがめられ、矮小化されてきた正力像、とくに柴田の私怨によって捏造された正力像は改められてしかるべきだろう。「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」がこれまで書かれてきたような卑小な人物であるはずがないではないか。これだけの多く偉業をなし得た人物は日本の現代史ではほかに見当たらない。
アメリカに利用されたというかも知れないが、占領期とそれに続く時代では、そうすることによってしか歴史に残るような大業はなしえなかった。吉田茂とて同じではなかったか。だが、吉田を評価するにせよ、批判するにせよ、彼が歴史的に大きな役割を果たしたということは否定しないだろう。正力の場合も同じだ。
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編集長の辛口時評|CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事 2006.02.11
http://www.jca.apc.org/~altmedka/karakuti-0602.html
・・・ こうして正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。
CIAは正力に関する追跡調査を続け、ファイルは厚みを増していった。
その接着剤となったのが原子力発電である。
正力の衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。
日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。
一方の正力は、政界出馬に意欲を燃やし、アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、原発推進の立場を明らかにしていた。
おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。
この時、正力の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田だったが、彼が接触していた入物は、やはり CIAのある局員で、CIAファイルにはこの局員が書いた多数の報告書が残されている。CIAは、正力が政治家となる最終目標が総理の椅子だということも早くから見抜いていた。
1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。
CIA文書は、この時、鳩山首相が正力に防衛庁長官を打診した際、正力が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。
この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。
正力の目的は、原子炉をアメリカから購入することにあったが、最終的に、CIAはその件で正力に協力することはなかった。
日本が潜在的原爆保有国になることへの懸念が理由だが、それ以外にも、CIAが正力の政治的野望に利用されては困るという抑制も働いていた。
そして1956年以降、正力にはポダムに替わって「ポジャックポット」という新たな暗号名が与えられることになった。
暗号名の変更が総理の椅子を諦めたからなのかどうかは定かではない。(敬称略)
参考
7月27日付け本ブログ「オペレーション・ポカポン」
http://blog.goo.ne.jp/kohay/e/d94fdfa49dbb55ad4bcaf4a4e4fc622f