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メディアが報じない裁判員裁判

2009-08-08 | clipping
江川紹子ジャーナル|裁判員裁判を傍聴する① 2009年08月04日
http://www.egawashoko.com/c006/000301.html


 裁判員による初めての裁判を傍聴すべく、東京地裁へ。
 地裁前にはテレビカメラが並び、腕章をした記者達が行ったり来たり。傍聴券を求める長蛇の列ができていて、すぐには裁判所の敷地にも入れない。ただ、この人びとの多くはメディア関係の”動員”と思われる。ただ、オウム裁判の頃と違うのは、アルバイトで集めた学生と思われる人の姿がほとんど見られなかったこと。どこのメディアも広告収入が激減し、経費削減の嵐が吹き荒れている中、社員や番組スタッフをかき集めて並ばせているようだった。
 整理券を受け取って、待機場所へ。柵で囲われた所に多数が追い込まれていく様は、ほとんど羊になった気分だ。締め切りになると、パソコンによる抽選が行われ、当選番号が張り出される。囲いが開けられ、羊…ではなく傍聴希望者たちは、少しずつ外に出され、当選番号が張り出されたボードの前を通って、外に流れ出ていくことになる。囲いは2カ所に設けられたのだから、当選番号を掲示するボードも2カ所に置けばいいものを、1カ所が空になるまで、第2の囲いは閉じられたまま。なので、すべての羊……ではなく傍聴希望者がボードを通過して解放されるまでに、なんと30分以上もかかった。
 
 初めての裁判員裁判とあって、メディアが傍聴記の執筆やコメントを依頼した人たちで、傍聴席には作家の夏樹静子さん、佐木隆三さん、元検察官の堀田力さんといった著名人の姿も。
 今回使われるのは、オウム裁判の時には頻繁に通った東京地裁104号法廷だ。以前はPタイル貼りで椅子の下などほこりだらけで汚かった床は、明るいグレーのカーペット敷きとなり、傍聴席の椅子は紅色系の布張りに。お掃除も行き届いているようだし、明るくてとてもきれいになっていた。
 両側の壁には大型モニター(パナソニック製)が掲げられていた。裁判官・裁判員には二人に一台、検察官と弁護人にも一台ずつ合計10台の小型モニターが席に置かれ、証人席にはタッチパネルが設置されていた。法廷のハイテク化が目に付く。
 まず最初にマスコミ用の写真撮影。ただし、裁判官・裁判員席にいるのは3人の職業裁判官のみ。それが終わると、モニターにスイッチが入る。裁判官席が以前より少し低くなっているように見えるのだが、気のせいだろうか。
 被告人が入廷。白の半袖シャツに黒ズボン。足下は一見革靴っぽく見えるが実はサンダル。この”なんちゃって革靴”は、被告人がいかにも普通の市民とは違う悪いヤツに見えないために、見た目にも気を配ることにした結果。かつては”便所サンダル”が当たり前だったが、こういう細かいところにも気を配ることになった。本当のところ、「細かいところにまで」気を配るようになったのか、「細かいところだけ」気を配っているのかは、今の時点ではよく分からない。本物の革靴にしないのは、逃走防止のため。

 続いて裁判員入廷。6人のうち、5人が女性だ。というか、傍聴席からは女性に見える人たち、と言うのが正確。というのは、裁判員の氏名だけでなく、性別や年齢も明かされないので、本当のところは分からないから。年齢は30代から40代にかけて、という感じだが、一人は20代かもしれない。男性は40代後半という風に見える。違っていたらごめんなさい。
 年齢にしても性別にしても、かなり偏りがあるように見える。これは、裁判員を選ぶ最後の課程で抽選を行うために、たまたまそうなったのか、それとも裁判員候補として裁判所にやってきた人たちに偏りがあるのか、それは分からない。候補の性別や年齢層も公表されていないからだ。
 始まったばかりの裁判員制度。スタートから完璧な制度というのはありえないのだから、問題があればできるだけ早く修正して、よりよい制度にしていかなければならない。そのためには、できるだけ情報は明らかにして、議論の材料を増やした方がいい。裁判員の個人名を明らかにしないのは分かるとしても、性別や年齢層まで秘密にするというのはおかしい。
 それだけではない。裁判員に罰則までつけて守秘義務を課しているというのも変だ。評議についての感想はよいと言うが、「裁判官が強引で、私は自分の意見がちゃんと言えなかった」とか「裁判官が意見を言ったら、裁判員はみんな意見を変えてそれに合わせてしまった」とか「裁判員の中に声の大きい人がいて、彼に威圧されて、黙ってしまった」とか、そういうことは一切言えないのだ。こういう事柄が明らかにされなければ、評議で問題があっても、永遠に改善されない。
 新しい制度をよりよくし、国民の理解を得たいのであれば、こういう秘密主義はやめてもらいたい。罰則を科すなら、裁判員の名前を暴露するとか、そういう個人を特定する情報に限るべきだ。
  
 開廷し、被告人が本人であることを確かめる人定質問、検察官による起訴状朗読、被告人と弁護人による罪状認否と続く。
 事件は、近隣トラブルの延長による殺人事件。日頃から関係のよくなかった被告人(71歳の男)と被害者(66歳の女)が路上で口論となり、被告人がカッとして家にあったサバイバルナイフを持って来て脅し、最後には刺して殺してしまった、というもの。
 被告人も弁護人も起訴事実は認めており、争点はわずかで、登場人物も少ない。裁判員裁判第一号ということで、こういう構造のシンプルな事件が選ばれたのだろう。
 続いて冒頭陳述、そして証拠の説明へと手続きは進む。
 検察官も弁護人もハイテク機能を生かし、冒頭陳述や証拠の説明は、さながらプレゼンテーション合戦だ。
 特に検察側は、プレゼン用ソフトを駆使して、図面の強調したい所を丸で囲ったり、色をつけたりと、様々な工夫をして”見せて”くれる。弁護側もモニターを使って説明したが、文字が多いうえに、ソフトの機能を使いこなすとまではいかない様子で、やはりいささか見劣りがする。
 そのうえ、検察側は冒裁判員に向き合う形で冒頭陳述を読み上げようと、書見台まで用意する周到さ。しかも、読み上げはゆっくりと行い、専門用語は「肺動脈」や「出血性ショック」といった言葉に至るまでやさしく言い換える。最初と最後に一礼したり、丁寧な言葉遣いで好感度アップも意識するなど、裁判員対策のために、相当に準備と訓練を重ねてきたことがうかがえる。

 こういうプレゼン合戦になれば、組織を上げて対策をとっている検察側が圧倒的に有利だろう。今回の弁護人は健闘していたと思うが、ハイテクに慣れない人や、こういう素人向けに分かりやいプレゼンをするのは得意でない人が弁護人に就いた場合はどうなるのだろうと、いささか心配になる。
 それにしても、検察官の変わりようには驚きだ。以前の裁判では、どうせ裁判官と弁護人には書面を配っているのだからと、えらい早口で読み飛ばす検察官が少なくなく、傍聴していてもメモが取れないことがしばしば。検察官にとって、傍聴人はまったく眼中になく、必要でもないというのがあからさまだったが、なにしろ裁判員にはちゃんと理解をしてもらって、検察側の主張を認めた判決を出してもらわなければならない。私たち傍聴人は、そのおこぼれに預かっているのかもしれないが、いずれ裁判員になるかもしれないということで、前より大事にされている感じはする。

 それを感じるのが、2カ所に設置された大型モニター。傍聴人も、ほとんどの証拠を大型モニターで見ることができる。かつての裁判では、証人や被告人に図面を示しても、証言台に書面を広げるだけなので、傍聴席からは何をやっているのかさっぱり分からなかった。それを考えると、これは大きな進歩だ。昔は傍聴席で一般傍聴人がメモを取ることも禁じられていたのが、ローレンス・レペタ氏が起こした裁判の最高裁判決を契機に解禁となった時以来の、大きな変化と言えるのではないか(今は法廷でメモを取れるのが当たり前になっているが、かつては記者クラブ以外は全面禁止だった。国民が自由なメモの権利を勝ち取るまでには、先人の苦労があったことを忘れてはならない)。今回の裁判で、傍聴に見せてもらえないのは、被害者の遺体の写真だけだった。被害者の尊厳や遺族感情を思えば、この配慮は当然だろう。
 遺体の写真は、裁判員など関係者席の小型モニターだけに映し出される。ただ、一部の裁判員はこの間、ほとんどモニターからは目をそらしていて、写真をほとんど見ていない様子だった。
 今回の事件は、死因などに争いはなく、遺体の状況が詳細に分からなくても、あまり影響はない。傷口の様子などは、詳しいイラストが示されるので分かるだろう(このイラストは傍聴人にも公開された)。しかし、事件によっては、他殺か病死かなど死因に争いがある場合があり、その死体も腐乱するなど相当むごたらしい状態になっていることもある。外の傷だけでなく、解剖した内臓や、強姦殺人などの場合は性器の状況を写した写真もありうる。被害者が幼女だったりすれば、その様子はますます悲惨だ。そういう事件の時には、どうするのだろうか。
 そういうことを考えるにつけ、殺人のように残虐で非日常的な事件を、一般市民である裁判員に担当させることは、やはり疑問が残る。

 裁判の進め方も、大いに変わった。かつては、検察側が冒頭陳述を行った後、続けて検察側の証拠説明と証拠取り調べを行い、検察側証人の申請がなされ、採用された証人尋問へと続いた。しかし今回は、冒頭陳述も証拠の説明も、検察側の直後に、弁護側が続いて行った。そうすることで、検察側の描いたストーリーだけが初めに一方的に流されて、その印象が裁判員の脳にすり込まれるのを避けようということなのだろう。
 たとえば、被害者の人物像について。検察側は夫を早く亡くした後に女手1つで2人の子どもを育てあげ、近所に住む母の面倒も見る健気な女性像を強調した。一方の被告人に関しては、競馬に通い、大酒をくらい、二日酔いの朝には迎え酒をするなど、ネガティブな印象づけを行う情報が盛り込まれた。
 被害者への同情が芽生えてきたところに、今度は弁護側冒陳が行われる。そこでは、気が強て言葉があらく、常に一言多くてケンカの絶えない人間像が描かれる。聞いているうちに、つい「『どっちもどっち』かもしれない」と思いそうになる。
 ところが、続く検察官による証拠説明で、被害者の体に残った傷の多さや深さを――イラストとはいえ――視覚的に見せられると、「どんな事情があれ、こんな酷いことをした被告人はやっぱりひどい」という気持ちになる。こういう気持ちの揺れは、検察側立証が先に延々と続いたかつての裁判では、なかったことだ。
 裁判員も、右に左に気持ちが揺れているだろう。一方的に決めつけるのではなく、こういう気持ちの揺れこそが、大切なのだと思う。結論を急がず、悩みに悩んでから判断して欲しい。

 続いて、一人目の証人尋問。近所に住む若い女性だ。被告人が「ぶっ殺してやる」と叫んだのを聞いた、と証言した。
 被告・弁護側はこの言葉は否定し、「殺してやろう」という積極的な殺意があったことは否認している。ナイフで刺したのは事実なので、そういうことをすれば人が死んでしまうことがあるかもしれないという程度の、消極的な気持ちだったと主張している。しかし、証人の女性は、「ぶっ殺してやる」を2回聞いたと繰り返し証言した。
 ただ、この女性は自宅に弟と二人でいて、弟は窓から外を見て男(たぶん被告人)が走っていくのを見た、とも言っているらしい。情報量としては、この女性より弟の方がたくさんあるはずなのに、なぜ検察官は弟ではなく、女性の方を証人にしたのだろうか。「弟が…と言っていた」という伝聞情報が頻繁に出ているのがなんだかもどかしく、だったら弟を証人すればよかったのに、と思った。
 弁護人もこの点は全然問題にしていないので、おそらく裁判の前に行われた、公判前整理手続きで裁判官、検察官、弁護人が合意済みなのだろう。けれど、この公判前整理手続きは非公開だし、公判廷でも詳細は説明されないので、どうしてより目撃をしている弟ではなく女性の方が証人に立ったのかは、明らかにされない。
 今回は、大きな争いはないし、弁護人もきちんと準備を重ねている裁判なので特に問題にはならないだろうが、たとえば足利事件のようにいい加減な弁護人がついた時に、公判前整理手続きに問題があっても、誰も検証できない、ということになりかねない、という気がする。
 
 それにしても、裁判員裁判というのは休憩が多く、しかも長い。開廷から50分ほど、冒頭陳述と証拠申請が終わって35分の休憩。30分と少しかけて証拠の説明をして、また35分の休憩をとった。なんだか休んでばっかりという印象だ。
 明日も午前中の1時間50分の間に、やはり30分くらいの休みがあり、昼休みをはさんで午後の審理も2回の休憩が予定されている。
 こんなに休まなければ、4日間ではなく、3日で済むのではないか、と思う。ただ、模擬裁判を傍聴していた人の話によると、局面が変わるたびに休憩をして、裁判員が頭の中を整理する必要もある、とのこと。仕事を休まなければならない期間をなるべく短くしたいところだし、かといって裁判を理解しないまま進められても困るし、この辺は兼ね合いが難しいところだ。 
 
 閉廷し、裁判員が間際、傍聴席の後ろに座っていた女の人が、「裁判員制度反対」を叫び始めた。「労働者、人民を分断する裁判員制度反対」とか「労働者、人民を裁く側に動員するな」とか叫び続けている。一瞬固まる裁判員たち。裁判長は急いで退廷を促し、この不規則発言の主にも退廷を命じた。
 その女の人は最後まで叫び続けていたが、その用語の選択や態度は、なんだか非常に偏りのある過激な政治的集団を思い起こさせ、じっくり話を聞いてみたいという気持ちにはならない。
 私も現行の裁判員制度には必ずしも賛成ではなく、とりわけ量刑判断までさせる点は、絶対に変えてもらいたいと考えているし、他にもいくつもの問題を感じている。ただ、国民が司法に参加するという点は悪いとは思わない。問題点は問題点として是正を求めつつ、国民が健全な形で司法参加することを期待して、今後も様々な発言をしていきたい。その時には、独断に陥らず、なるべく多くの人たちに耳を傾けてもらえるように努めようと、改めて肝に銘じた。

 法廷での様子を見るだけだが、裁判員に対して、裁判所はとても気を遣っている様子がうかがえた。休憩明けで法廷に入ってくるのは、裁判長が先頭。そして、陪席裁判官が開いたドアを支えて、裁判員たちを「どうぞ」というように通していた。
 メディアに注目され、絶対に失敗してはならない第一号だからなおのこと、裁判員たちは”大事なお客さま”なのだろう。だが、いつまでも”お客さま”では、本当に裁判員制度が根付き、その良さが生かされることにはならない。
 各地方裁判所での「第一号事件」が終わり、おそらく再びメディアが注目する「死刑判決第一号」が出て、裁判員裁判だからといってあまりマスコミの注目を集めず、裁判所もことさらに丁重な対応をしなくなった頃に、どうなっているのか。その時からが、本当の意味での裁判員裁判の始まりではないか、という気がしている。
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09/08/06 【社会のこといろいろ】裁判員裁判を傍聴する③
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