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「空気と言葉」(2)

2010-06-14 | clipping
【第2回】面倒くさいから、空気を読んで済ませてしまう 2010年6月7日(月)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100528/214665/


鎌田 實(以下、鎌田) 僕は今回『空気は読まない』(集英社)という変なタイトルの本を出版しましたが、『空気の読み方教えます』というタイトルにすれば、もう10倍は売れたかもしれません(笑)。でもね、それじゃ僕の美学に反するわけ。

 10年前に『がんばらない』(集英社)という本を書いたんですが、『がんばれ』という本なら誰でも書けるだろう。そこをあえて“がんばらない”という視点でどこまで書けるのかと考えたわけです。

 『空気は読まない』はシリーズ化したいと考えているんですが、その前に出版したのが『いいかげんがいい』(集英社)。2008年にリーマンショックが起き、世界的に経済が後退した時期でした。この世界的な経済の混乱は、“加減”を失った結果でした。しかし日本では“いい加減”は否定的な言葉として捉えられているけど、僕は「いいじゃないか」と思ったんです。“加減”を超えることを日本は求めますが、きちんと“加減”を認めながら、生きていく方法があるんじゃないかと思ったんです。

 今この時点では、何が必要なのかと考え、『空気は読まない』をタイトルにしたんです。2008年リーマンショックの影響は、先進資本主義国の中で日本は比較的少なかったはずなのに、経済の回復が遅い。それは空気に負けてしまったからなんじゃないか。子どもたちが空気を読んでいたのが、大人にまで広がってしまった。景気の半分は実態経済だけれども、残りの半分はムードによって左右される。つまり、このムードに負けてしまっていると思うと、『空気は読まない』という逆のことをメッセージとして発したほうがいいんじゃなかと思ったんです。

山本 高史(以下、山本) プロとして言わせていただくと、そのタイトル、すごくお上手です(笑)。

鎌田 ハハハ・・・(大笑)。

■「『100年に1度の不況でいいじゃん』になっている」(山本)

山本 この不況は「100年に1度の不況」と言われますが、実は誰も検証していません。その最悪のキャッチフレーズに囚われて、立ち上がれなくなってしまった。それを何とか改善すべきなのに「100年に1度の大不況だから仕方がない」ということで済ませてしまっている。そういう悪い空気を作ってしまったんだと思いますね。先生のおっしゃったことに全く同感です。

鎌田 僕は毎朝4時半に起きているから、次々に本ができちゃうんですよ(笑)。先月はメッセージ集『よくばらない』(PHP研究所)を書きました。その中に「波」という詩を書きました。「100年に1度の不況」だから大変だと思うか、波だと思うかで全然気持ちが違う。下がった波は必ず上がるからです。「これは波だぞ、下がった株でも今買えば、上がった時には大儲けだぞ」と思えば空気もグッと変わるはずです。「100年に1度の不況」という言葉で、空気をより悪い方向へ向かわせているように思われてなりません。

山本 広告にしても「あなたの今は足りていない」という立場に立つものです。例えば、今使っている洗剤に満足されては、新しい洗剤は売れません。ですから、「あなたの今使っている洗剤にはこれが足りない。そんな洗剤に満足しているなんて、かわいそうな人だ」と。受け手の側に穴がなければ、伝える側の発信する言葉は入り込めない。

 つまり、「お腹がいっぱいの時にはどんな美味しい御馳走も欲しくはならない」ということが基本的なマスコミや広告のコミュニケーションの前提にあるわけです。ビジネス本で言うと「あなたの仕事のやり方には問題がある」「あなたにはここが足りない」ということによって、ビジネス書は次から次へと売れるわけです。1冊で問題が解決できれば、2冊目以降は必要ないはずですから、次から次へと問題を提示してくるわけです。

 「100年に1度の不況」とマスコミが喧伝するにしても、「あなたは困っているはずである」という前提があったほうが話は非常にスムーズになるわけです。そういう言葉を悪用するような乱暴な使い方が、横行しているというのが実感ですね。ひとつにはコミュニケーションが面倒くさいんです。「100年に1度の不況」と言ってしまえば、それで済んでしまいます。しかし、言葉を相手に理解してもらおうとすれば、先生が諏訪地域で医療指導をされた時にように、言葉が本当に伝わっているのか、理解されているのかを確認しなければなりません。受け手の側との距離を詰め、何度もやり取りをすることで、初めてコミュニケーションは正確になされるものだと思います。

 ところが、そういうコミュニケーションが面倒くさくて仕方がない。だから「100年に1度の不況でいいじゃん」「空気を読むでいいじゃん」ということになってしまっているんです。それが言葉が不足しているという現状だと思いますね。

鎌田 山本さんは小泉純一郎政権下の郵政選挙の広報・宣伝を担当されたとお聞きしました。

山本 今思い返すと、良かったのか悪かったのか考えてしまいますが、小泉さんほど言語明瞭な政治家は久しく登場していませんでしたから、新鮮だったかもしれませんね。

鎌田 あの時の言葉には、力が感じられましたね。

山本 それだけに有権者は、引っ張られたと思います。言葉に対する欺瞞であるかもしれませんが、政治というのは、あの程度の言葉の力で頂点まで上り詰められる世界なんだな、と今も痛感しています。

鎌田 政治の場で物語が語られないと、国民は5年後がどうなるのか見えてきませんね。経済をもう1回良くしていくためには、国民の心が暖かくなったり、熱くなったりする必要があって、それがリーダーの役割ですよね。

 「今は大変だけれど、5年後10年後はこういう社会にするから、ここ1~2年はこう協力してほしい、我慢してほしい」と語られれば、国民の側も協力し甲斐がありますよね。

■「ウエットな資本主義であるべきだ」(鎌田)

鎌田 小泉さんはグローバル化、規制緩和、競争原理といったいわばドライな資本主義を導入しましたね。僕はあの時、半分はドライで、半分は血の通った資本主義、僕の言葉で言えばウエットな資本主義にすべきだと言い続けました。あの時は、半分は認めることができても、半分は認められないという感じがしていました。しかし、小泉さんのような言葉の力で国民を引っ張る政治家が、今こそ必要なんじゃないかと思いますね。

山本 今のように余裕のない時期であれば、小泉さんの言葉も厳しく追及されたでしょう。小泉さんが首相だった頃は、まだ日本に余裕があった時期だと思います。だから、言語明瞭な政治家が出て来るのも面白いということだけで、国民は判断を停止させたのだと思いますね。ただ、ご本人は素敵な方でしたが。

 先生はウエットな資本主義とおっしゃいましたが、日本ではウエットと言うだけで否定的に捉えられがちです。しかし、人間はそもそもウエットなジメジメした存在で、ウエットであることを否定してシステムや組織や国家を成立させること自体に無理があります。

 先生がおっしゃっている「空気を読まない」も「ウエットな資本主義」も同じだと思いますが、自分を解放させることによって、生きることを楽しもうよとか、もっと強く生きようとか、議論を面倒くさがらず、話さなければならないことは話そうよとおっしゃっているように感じます。人間がウエットであることを前提としてコミュニケーションをしようということだと僕は理解しています。

 ところが、多くの人は、空気をかきまわすことが面倒くさくて仕方がない、自分の気配を消して閉じこもって生きていこうとする。言葉によるコミュニケーションのチャンスを自ら失ってしまっているように思われてなりません。

鎌田 5 月には『ウエットな資本主義』(日本経済新聞社)という本を出版する予定です。僕は政治的にはちょっと左寄りのポジションにいたつもりでしたから、「資本主義のことは誰か立派な人が考えてくれるからいいや」というちょっと屈折した感じでいました。僕自身が資本主義社会の中で、ものすごく恩恵を受けているのに、ちょっと斜めに構えて「誰かがやってくれるだろう」と思っていたんですね。

 ところが、どうも僕たちのリーダーである政治家は、資本主義社会にとって大事なことを考えてこなかったんじゃないかと思い始めました。

 僕の親父はタクシーの運転手でしたから、食べるのが大変なことはよく知っていました。経済の大きな波が下がってしまうと、庶民の生活は大変なんです。お金を持っている人たちは下がったのを利用して、また儲けることができますけれどね。

 僕は貧乏だったから、貧しい人たちの気持ちは分かるし、資本主義のことをもっと考えたほうがいいと思うようになりました。朝4時に起きてものすごくたくさんの経済学の文献を読みました。そこで、もう少しだけこの国のあり方を変える方法を僕なりに見つけたので、『ウエットな資本主義』を書いたんです。

 「暖かいことをして経済がうまくいけばそれに越したことはないけど、そうはうまくいかないに決まっている」と思っている経済の専門家は多いでしょう。しかし、実は暖かいことをして経済が成り立つ方法はあるんじゃないかと思うんですね。21世紀は暖かいことをしなければ経済は成り立っていかないなんじゃないかと思っているんです。

■「人間はだいたい同じ、ではない」(山本)

山本 人間は叩かれれば痛いし、切れば血も出る、腹が減ればひもじくなるということを前提としたシステムが、先生のおっしゃるウエットな資本主義だと思います。しかし、現状を見るにそういう人間のディティールをすべて無視されてしまっています。

 僕は、それは、世の中の人はすべてが「面倒くさい」と考えているからではないかと思う。円周率の3.14を3にしているようなもので、すごく乱暴に片づけています。「3.14じゃ面倒くさいから、3にしたほうが簡単でいいじゃん、その代わりに別のことに時間を使おうよ」というようにすり替えられてしまっています。

 人間は弱いものであるという前提がなくなり、「人間はだいたい同じようなものだと考えよう」ということになってしまっている。「人間はだいたい同じ」という前提で成り立っているシステムは、結局、手になじむものにはなりません。

 例えば、手で持つ道具を作る時、手の形を前提として作らなければ、どうやって持つか分からないような道具しか作れません。それと同じようなことが、日本社会で試されているような気がします。デザイン優先のハサミのように、「指を入れるところがないよ」みたいな(笑)。そういうものづくり、システムづくりから脱却しなくちゃいけないと思うのです。