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日本人はどこから来たのかというウソ

2009-08-22 | clipping
2001うそ発見の億のウソ道|日本人はどこから来たのかというウソ
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0111.htm


■捏造考古学と歪曲史書でいくら隠そうとしても…
日本人はどこから来たのか
という古代ロマンのウソ

ちなみに、同じ質問をアメリカ人や
1200年前の関東人にしてみたら?
アメリカ人に「アメリカ人はどこから来たか」と問えばおそらくこう答えるだろう。
「なに寝ぼけてんだい? 世界中からに決まってるさ」
では、東京人に聞けばどうか。「アッタリ前じゃん。全国からさ」
では1200年前の関東地方の人々に聞けばどうだろう。
「朝鮮半島と中国大陸からで~す」となる (^^)
ただし、ほとんど「加耶と百済からで~す」と答えるはずだ (^^)

■その関東・武蔵についてこんな研究がある

「世田谷区の地名(監修;信州大学教授 森安彦・編者;世田谷区立郷土資料館・郷土資料編集委員三田義春)」という1984年に世田谷教育委員会が発行した本がある。
世田谷区民のために、区のアイデンティティーを探求したマジメな本だがその中で「武蔵」とは、という箇所でこう言っている。
●武蔵・相模の地は、高麗・高句麗・百済・新羅など朝鮮半鳥系の帰化人によって開拓され、武蔵の区域は二分裂し、互に本系を表示する「宗国」「主国」の意を古朝鮮語の訓で称え「ムネサシ」と云い、一は「胸刺」の字をあて、一は「ネ」が略された「牟邪志」の字をあてて表わしたもので、これに対して相模の地域の方は、本系を表わすのに「真」を用いて「真城(マネサシ)」(真倉)といい、これが後に相模の枕言葉になったものである。
世田谷区でさえ、こう言っているのに国や歴史学会は相変わらず、モラトリアムから抜け出せない。

さて百済を中心に大和統一国家の様相が出来上がってくると、倭王権が「日本」という国号を内外に示すようになる。これは一体どういうことなのか? あたかも舞台が暗転するかのように「倭」から「日本」に衣替えする、その謎の裏には前回触れた「アテルイ」(写真下)が登場するのだ。

写真は鹿島神宮(右上はアテルイ首像)。
祭神の武甕槌命、経津主命の二神は「天孫降臨」に先立って
天照大神の命により出雲の大国主命を訪ね、「国譲り」を諭し実現させた神として
登場する。その「国譲り」がここでは「倭から日本」への隠喩として興味をひく。隠れた史実が?…

歴史書に出てくる「アテルイ」の人物像は様々だが、共通しているのは「蝦夷最期のドン(首領)」だということだ。
ウソ発は「蝦夷(weadzo)」もまた倭奴(weadoo・イド)の変化した呼称と見ているし、これは(左図参照)疑う余地はない。つまりアテルイはこれも前回説明した「アルタイ」の地域名を持ち込んだwealoo(イル)族最後の王、ということだ。読みが逆さまだ、という指摘もあるがこれは下段にあるように日本語によくある例だ。
最後の最後まで桓武天皇の忠臣・坂上田村麻呂の率いる百済軍に抵抗した「アテルイ」は別名・悪路王とも書かれているが、これは悪(アク)路(ロ)ではなく、ワルロ(wealloo)と読むべきで、尾張が(wealee)からきたように、これもまた倭奴(weadoo weanoo wealoo)の変化形だ。
そのアテルイは、戦いで残り少なくなった倭奴一族の生命を保証するという約束とひきかえに遂に桓武・田村麻呂軍に降伏する。だが延暦21年(802)、都に囚われたアテルイは結局、公卿たちの謀略でこの約束は反故になり、河内の植山で斬首されるのだ。

アテルイ  アルタイ 逆さ語例
(新)あたらしい (新)あらたに
さがみ(相模) さむか(寒川)
まうい(^^)  うまい

←アテルイ最期の地となった河内国植山は特定できないが、いずれにしても河内は畿内百済王氏の拠点であった。ちなみにこの「河内」という地名もウソ発的には「(狗)ク+アルチ」であって、もともとは「アルティ(倭奴)」の地であったものだ。
想像たくましくすれば、アテルイはこの地で死ぬことを自ら望んだのではないか、ということだ。もちろんこの地が「(狗)ク+アルチ」であったことを夫余族の分派として建国した百済の王氏族は、とうの昔から知っていたはずだ。だからこそ「倭はもとはイル(日)の国」だから、「日本」という漢字を当てて、古い時代から「wealoo(イル)ボン」と呼んでいたのだろう。と確信していたが実は違っていたことに気付くことになる。その真実は後に出てくるページで知ることに成るm(__)m

ちなみに日本に帰化した朝鮮・韓国人が元の名を日本に馴染むようにと姓に「本」を付けるのは同じ理由からだ。河本、金本、張本、森本などもそうだろう。

→「悪路王伝説」という書(日本エディタースクール出版部・著者・定村忠士)によると宮沢賢治の詩「原体剣舞連」がアテルイと関係があるという。詩は妖しげな剣の舞を詠んだものだが、その剣舞が岩手県江刺郡田原村原体にいまも保存されているというのだ。が字名の「原体」は、地図上(田原)にはない。「原体」、「ハラタイ」→「アルタイ」。著者の定村氏はそこまでは関連付けてはいないが、ウソ発はこの説、かなり史実性は高いと見ている(^^)。最近の考古学メルマガでこんな情報が入った。
羽黒山「アテルイ」の本陣跡?(9月25日)-岩手県- 
水沢市にある羽黒山(同市羽田町)で市民参加の発掘調査を実施している「アテルイを顕彰する会」は、平安時代に作られた可能性の高い柱穴10数ヶ所と、奈良時代の土師器片1点が発見されたことを明らかにした。同山は蝦夷軍と朝廷軍が戦った「巣伏の戦い」で、蝦夷の領袖アテルイが本陣を設置した場所とされている。

■話を関東に戻そう

前記したように古代武蔵国はヤマト以前、すでに「ムサシ(武蔵)・ムネサシ(胸刺)」などと呼ばれていた。その語源研究の一端は別記のとおりだ。ここではウソ発独自の見解を示したい。
左の本はかねてからウソ発同様に「日本は百済だ」と説いてきた石渡氏の近著だが、惜しむらくは偽書(記紀)に翻弄されて精力を費やしすぎる。というのは、倭奴説を見落としておられる(^^)。もしウソ発の新説を下地にすればより強力な説得力を持つに違いない、と残念だネ。

〇前期は加耶系、後期は百済系
氏は著書の中でこう言っている(以後抜粋・引用)。『わたしは、考古地磁気学・花粉分析学・気象学などの資料を使用して、六世紀中ごろ以前の古墳の実年代を推定することにした。そして、古墳時代の実年代や南朝鮮人の大量渡来の時期について』の結論として、『日本の古代国家を建設したのは古墳時代に渡来した南朝鮮人である。前期古墳文化をもたらしたのが加羅系集団であり、五世紀末以降の古墳文化をもたらしたのが百済渡来集団である。誉田山古墳〔応神陵〕の被葬者は百済系渡来人であり、天皇家の始祖である』というのだ。

〇考古学者たちの「大和中心史観」
さらに最近の考古学の捏造についても触れ、『最近、旧石器捏造事件が発覚し、高校の日本史教料書まで書き替えられることになった。わたしは、このような事件を生み出したものの一つは、考古学者たちの「大和中心史観」だと考えている。考古学者の多くは、まだ日本人単一民族論から抜け出せず、旧石器時代人や新石器時代人(縄文人)を現代日本人の直系の祖先と考え、日本列島に古くから現代日本人の祖先が住んでいたと主張したがっているのである』と嘆いているのは同感だ。

〇倭国王家と百済王家は親戚関係 後で詳しくでるよ
百済系渡来人で「天皇家の始祖」の前方後円墳・誉田山古墳(応神陵)の年代は五〇〇年前後、大山古墳(「伝仁徳陵」)の年代は五一○年代前後と推定される。応神は百済系渡来王で、加羅系の崇神王朝の入り婿となったとみている。「雄略紀」五年(四六一)七月条に、百済の蓋鹵王の弟、昆支が倭国の都に入ったとあるが、『日本書紀』には昆支が帰国したという記事がない。そして、ホムタという応神の名前は、昆支のコムキに由来するとみられる。古代では、カ行の子音がハ行の子音と交替したので、コ=ホであった。ホムタ(誉田)が現在のようにコンダと読まれるようになったのもそのためである。また、サシ(城)がサキともいわれたように、キ=チであった。そこで、コムキ=ホムチであったから、昆支はホムチと呼ばれていたとみていい。四七八年に倭国王となった昆支(倭王武・応神)が百済王家出身であったから、武の時代以降、倭国王家と百済王家は親戚関係にあった。その証として三七二年に、百済から倭王旨(崇神)に「七枝刀」(七支刀)か贈られている。

〇昆支(武/応神)の子が二人も百済王
「雄略紀」二三年(四七九)四月条には、昆支の子の東城王が倭国から百済に帰って即位。東城王の後には、五〇一年に弟の武寧王が即位したと記されている。昆支(武・応神)の子が二人も百済王となっており、昆支の弟継体は武寧王の叔父であったわけである。五〇三年(葵未年)に武寧王(斯麻王)が継体(男弟王)に隅田八幡鏡を贈って、継体の長寿を願ったのも、両者がこのような血縁関係にあったからである。

〇日本語と高句麗語は一致している?
  ウソ発をオープニングページから見てきた人ならお分かりだろうが、かくも百済の影が深いにもかかわらず日本のジャーナリズムや文教省、マスコミは相変わらず「日本人はどこから来たのか」とやっきになっている。がこの答えは簡単だ。石渡氏の著書の中でも言っているが「天皇家と支配階級」の出自を隠してきたからだ。もはや1200年も過ぎた歴史事件をひたすら隠してきた背景はなにか? 最初のウソが次々ウソをつかせるのは誰でも理解できる。が、この呆れ返るモラトリアムは世界の知性を手こずらせてきたのだ。
言葉に関しても「日本語はアルタイ・ツングース語族の一分派」であることは世界言語学の常識であるにもかかわらず、日本語研究者や知識人は「朝鮮半島の言語と対応しない」として軽視してきた。現代哲学の主流である構造主義の見地から「日本語は人類語の1つ」として世界中の言語学者によって発表された「日本語研究論文」は、日本国内よりはるかに多い、ということでもわかる。

上垣外憲一(国際日本文化研究センター助教授)氏は、『古代日本と渤海』(上田正昭・角川書店)のなかで『数詞については一、二、三は漢語ですから、それに中国から来た「イル」「イ」「サム」という漢語(と日本語)のいい方は一致します。しかし、固有語、つまり日本語の大和言葉では、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつですね。これが韓国語では「ハナ」「トゥル」「セッ」「ネッ」「タソ」「ヨソ」と数えます。全部違うのです。一つも一致しないのです。(ところが)韓国語と日本語の数詞は一致しませんが、高句麗語の三は「ミル」、「みっつ」と「ミル」、それから、「いつつ」は「イッ」といいます。「ななっ」は、韓国語式の漢字の発音を当てているので多少違っていると思った方がいいのですが、「ナヌン」といいます。「とう」は「トク」といいます。三と五と七と十が日本語と高句麗語は一致しているのです。こんなに日本語と数詞が一致する言葉はないのです。日本に近い百済や新羅の言葉よりも、もしかしたら高句麗の方が近いのではないかということを考えさせるわけです』

■国を奪われた百済王氏族の恨みは
 日本支配層の建国思想となった

ところが、なぜ日本の支配層や国民の中に反高句麗、反中国色が強いのか? もちろん現代の政治状況や嫌悪感を煽るマスコミの影響もあるだろうが、もっと底流に「高句麗=北朝鮮」という認識が古代から延々培われてきたからである。がこのことが逆に日本の真の姿が「百済」である証になっている。
というのは、夫余族の本流を巡って争ってきた高句麗と骨肉相争う関係になって小競り合いを重ねてきた百済が、とうとう西暦660年、倭すなわちヤマト軍の派兵もむなしく、唐・新羅連合軍に敗れた史実と無縁ではないのだ。元は遼東半島一帯までも領有していた百済の勢いが、覇権を巡る長年の戦いでじりじり衰退し、ついに数え切れない数の王氏族が朝鮮半島から追い落とされるように、すでに拠点を持っていた倭国に逃げ渡ってきたからである。
クニを奪われた怨念は1400年たったいまなお、日本の王氏族の中に血脈となって流れ、それが中国、韓国への頑なな反中国、嫌韓国の排他主義を育てるようになったのである。
左上の写真は11月、立川の高島屋で開かれた「平山郁夫展」のポスターだが、氏は長年「高句麗こそ日本文化の原点」という観点で、夫余族の兄弟国・高句麗遺跡を訪れている。

■真人(マト)たちの総称を『ヤ・マト』と呼んだ

その「ヤマト」が東国の「WEALOO=倭奴=イル国」、日本に成りすまし、国号にしたのだ

湘南一の古い古墳があった史書の中で重要な役割を負って登場する人物はたいていが「百済王氏」である。彼らは長い百済史の中で「産めよ増やせよ」で登場する王族の落胤たちである。陽の目を見ない悲運な運命をたどる者もあったがおしなべて、王の下に結束して先進的な仏教、職能掌握力や武力、財力を使って倭国を百済氏族のものにする工作を進めていったのだ。
その主力が「真人」と称した百済王氏だ。「真人」とは、もともとは天武天皇の和風の諡が「天渟中原瀛真人天皇」というように、道教では老荘哲学で道(どう)の根源的真理の体得者とされている(岩波仏教辞典)。が後世は、皇子で臣籍に下がった言わば、王家の外戚のことである。その中に多治比真人や粟田真人の名が記紀にも出てくるがほかに当麻真人、三国真人など13氏を数える。つまり天皇家を取り巻く外戚の結集でヤマトの東征が行われたのだ。ヤマトタケルノミコトというのが個人名ではなく集団結社の名前といわれる所以がここにある。謀略と残虐のかぎりを尽くした蝦夷征伐の記録はあまり知られていない。その「真人」は「日の人」と書いて「ヒト」、「一人」を「カズト」「秀人」を「ひでと」と読むように「マト」と言った。そして彼ら真人(マト)たちの総称として、多勢という意味の「八(ヤ)」を冠して『ヤマト』と呼んだのだ。その関東の拠点が左図の地域だ。彼らの狙いは倭奴(weadoo・蝦夷)を征し、失った百済を建設することであった。802年、坂上田村麻呂のアテルイ征伐でその第一歩が始まったのだ。その果てに「もとイル(日本)」の倭奴文化を乗っ取り、アテルイの死を待って百済王権は国号を『日本』と唱えるのである。下に付記したがアテルイ(蝦夷)から日本という名前を「これ幸い」とばかりにのっ取り「其ノ號ヲ冒」したということだ。日本が成りすまし国家というゆえんだ。

倭から日本国号に変わったわけを『新唐書』にみると、こうある。

夏(か)音ヲ習イ、倭ノ名ヲ悪(にく)ミ、日本ト更(あらた)メ號ス。日本ノ使者、自ラ言ウ、国、日ノ出ヅル所ニ近シ、以(も)ッテ名トナスト。或イハ云ウ、日本ハ乃(すなわ)チ小国、倭ノ并(あわ)ス所トナル。故ニ其ノ號ヲ冒セリ、ト。

上写真右下の○中を見てほしい。前鳥神社とある。地元では「サキドリ神社」と呼ばれているがこれこそ、東国征伐の百済の拠点だったのだ。どうしてか? それは名前の頭についている「サ」が物語っている。このシリーズに付き合ってきた人ならお分かりだろう。「サキドリ」という名前を「さ」と「きだら」に分けるとはっきりする。そうだ。この地こそ最初に足跡を記した「百済」の前線基地=「サ・くだら(前鳥)」だったのだ。左の写真は神社境内の信仰者へのおしらせ広告だが、地元の人々が百済といかに縁の深い歴史を刻んできたかがよくわかる。
「平塚最古の神社であること。祭神が百済渡来の応神天皇の真人、つまり王氏であること。その王子・阿直岐が師と仰がれたこと」と書かれていることから見て、この推論はほぼ間違いない。真土、八的の北方数キロ先に「神奈川県大和市」がある。

構造改革が叫ばれてどれほどたったのか。だがNHKが「聖徳太子」「日本人はどこからきたのか」というように、日本はいまだに1000年も前のパラダイムから抜けきれていない。グローバル化は世界共生へのパスポートである。日本方式の経済モデルが破綻し、考えることより自分を押し込めて黙って従うことを「いい子」と教えてきた教育と制度は、1200年もかけて築いてきたヤマトの「原理主義」ともいえるものだ。いったいこの体の髄にまでしみこんだヤマト主義を脱ぎ捨てて日本は立ち直れるのだろうか。経済危機は目の前まで迫っている。微力ながらこのサイトが頭の「構造改革」に役立つことを願ってやまない。