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維新の立役者たちの正体

2010-09-21 | clipping
ゴルゴ14|維新の立役者たちの正体(上) 『日本神學』VOL.57NO.2 -平成17年2月- 日本神学連盟 -米英に操られた幕末の日本- 小酒部 宏
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(一)司馬史観の正体

 平成十六年のNHKの大河ドラマは「新撰組!」だったが、視聴率は低かった。この傾向は今に始まったことではなく、その原因は色々と考えられるが、史実と掛け離れた設定に大きな問題があるのではないか。
 例へばドラマでは、新撰組が結成される以前から近藤勇と坂本龍馬が知り合ひだったことになつてゐる。だが実際には、そのやうな事実はない。
 勿論、大河ドラマはドキュメンタリーではなく、あくまでドラマに過ぎない。だが多くの視聴者は、歴史の真実が含まれてゐることを期待して番組を見ており、制作者側はこの点を誤認してゐるようだ。
 特に幕末維新期は今から百五十年程前の出来事で資料も多く、その歴史は現代社会に直結している。
 その分、視聴者の目はシビアであり、史実に充分配慮した番組作りが必要である。NHKは受信料を徴収してゐるのだから、視聴者を馬鹿にしたようなものを作るべきではない。
 思わずNHK批判になってしまったが、批判されるべきは歴史書も同様である。明治維新はいはゆる「勤皇の獅子たち」の活躍により成し遂げられたというのが、一般的な解釈である。作家の司馬遼太郎は、こうした史観を定着させるのに大きな役割を果たした。
 だが、司馬遼太郎は日露戦争までの歴史については好意的に描いてゐるが、この後大東亜戦争敗戦に至るまでの時代については、本来我が国の姿が見失はれた異常な時期であったとして、切つて捨てゝゐる。しかしこの見方は、東京裁判に於て連合国側が採った立場と同じである。
 つまり司馬史観の正体は、東京裁判そのものなのである。司馬遼太郎は、『坂の上の雲』といふ作品で日清・日露戦争を肯定的に描いたので、民族派の人々の中にはやたらと持ち上げる人もゐるが、それでは見識を疑はれよう。
 司馬は乃木大将の殉死を誹(そし)つたが、これは日本的な心情とは余りに掛け離れた言葉である。恐らく日本人の魂の持ち主ではあるまい。
 このやうな人物が描いた幕末維新期の物語など、到底信用することは出来ない。「勤皇の志士たち」の個人的能カや魅力によつて明治維新が成し遂げられたといふのは、作り話に過ぎないのである。
 では実際のところはどうだったのか。これを解明した書物は皆無に等しいが、最近になって常葉学園大学教授の副島隆彦氏が思想劇画といふ形で真相を暴露したので、この本を叩き台として本質に迫って行くことにしたい。(注1)

(二)生麦事件はイギリスの謀略

副島氏の本は劇画なので、舌足らずの所や勇み足の部分がある。それらの箇所補足や批判は後回しにして、まづは重要部分を紹介することにしたい。
副島氏は、文久二年(一八六二)に幕末維新史の最大の秘密があるとして、この年を重視してゐる。
 一、文久二年十二月十二日、品川御殿山に建造中であつたイギリス公使館を、長州藩の尊王攘夷の過激派武士七人が爆裂弾で襲撃してこれを燃やした。
 しかし、公使館には見張り番がゐただけだった。
 この襲撃に加つてゐたのが、後に維新の元勲と呼ばれる伊藤博文(俊輔)や井上馨(聞太)、それに高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、品川弥二郎らである。
 ところが、この襲撃から僅か五カ月後の文久三年五月に、伊藤博文と井上馨はイギリスに密航してゐる。こんな馬鹿なことがあらうか。
 この時密航したのは五人で、旅費は一万両掛ってゐる。現在の金額に直せば約十億円である。
 この金を立て替へたのが、長崎の武器商人であるトーマス・ブレーク・グラバー(一八三八~一九一一)である。
グラバー商会は、上海のジャーディン=マセソン商会の日本の窓口であり、ジャーディンとマセソンの二人は、アヘン戦争(一八四〇-四二)でボロ儲けした当時最大のアヘン商人だった。
 伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館を襲撃した前後の時期に急激な思想転向をしたらしい。つまり彼らはイギリスの手先になつたのである。
 二、グラバーは長崎の外国商会の中で最大の武器商人であり、薩長のみならず幕府側にも武器を売つてゐた。正(まさ)しく「死の商人」である。
 戊辰戦争の帰趨(きすう)を決めたのは結局のところ武器の優劣の差だが、薩長側は当時世界最新鋭の野戦大砲であるアームストロング砲を使つて勝利を収めた。
 ところがこの大砲は、元々幕府がグラバーに注文してゐたものだつたのである。
 幕府が注文したアームストロング砲の内、二十一門と付属品は既に鳥羽伏見の戦ひの前年の一月から八月にかけて長崎に船荷が到着してゐた。
 しかしグラバーは、代金の未納を口実にして幕府に大砲を渡さず、これらを長州藩に横流ししてしまつたのである。これは、イギリス政府の意向に従つた措置と思はれる。
 グラバー商会は、明治維新政府誕生と同時に僅か十万ドルの負債を理由に倒産してゐる。この不自然な倒産劇は、イギリスの日本管理支配戦略を覚(さと)られないやうにするための揉み消し工作と見られる。
 その後、蒸気船のための石炭を産出してゐた高島炭鉱を始め、グラバー商会の資産と経営は、最終的に岩崎弥太郎の三菱財閥に引き継がれてゐる。
 三、文久二年八月一日には、生麦事件が発生した。これは薩摩の島津久光の一行が京へ戻る際、横浜の外れにあつた生麦村で不良イギリス人四人と行き合ひ、その内の一人を斬り捨てたといふものである。
 当時は、大名行列を乱す者は斬り捨てるといふ決まりがあつた上に、薩摩の藩論は尊王攘夷、つまり外国人を見たら即座に殺すといふことで統一されてゐたので、当然のやうに斬り殺されたのである。他の三人のイギリス人は馬で逃亡した。
彼らを「不良イギリス人」としたのは、イギリスの外交官だつたアーネスト・サトウが著した『外交官の見た明治維新』といふ本の中にさう記されてゐるからで、日本側の偏見ではない。
 この事件に怒つたイギリス政府は、幕府に対して巨額の賠償金を請求した。前年に起きた東禅寺事件(水戸藩浪士が品川でイギリス人公使を襲撃した)と合せて、十一万ポンドも要求して来たのである。
 これは現在の価値に直すと、一千億円位になる。
 幕府はそれを支払つたが、この事件はイギリスが仕組んだ陰謀だつた。イギリスは、幕府を外交交渉への場に引き摺り込んで揺さ振る口裏を作るために、この事件を誘発させたのである。
工作したのはイギリス全権公使のオールコックであり、彼は同じイギリスの不良商人たちを捨て駒として利用したのである。
 イギリスは薩摩藩にも賠償を要求したが、これは拒否された。そこで翌文久三年(一八六三一)七月、イギリスは薩英戦争を仕掛けた。
鹿児島の町は焼け野原となつたが、戦争の最中に不思議な光景が見られた。五代友厚と松木弘安が藩船三隻と共に自ら進んでイギリスの捕虜となつたのである。
 五代友厚は、薩摩藩に武器を供給した政商で、後にロスチャイルド家の日本代理人の一人となつた。
 松木弘安は、後の外務大臣・寺島宗則(むねのり)である。
 彼らは、既にこの時点でイギリス側に取り込まれてゐたらしい。

(三〉ジョン万次郎は米国の工作員

 引き続き、副島氏の著作から内容を紹介しよう。
 四、嘉永六年(一八五三)六月に浦賀へ来航したペリーの航海日誌の中に、次のやうな記述がある。
 「日本国内の法律や規則について、信頼できる充分な資料を集めるには長い時がかかる。領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならない。それなりの成果をあげるには、諜報員にまず日本語を学ばせなければならない」(『ペリー提督日本遠征日記』小学館)
 現代でもさうだが、幕末にやつて来た外国人は、皆情報収集を目的としてゐたのであり、親善の目的で来たのではない。江戸時代後期に来日した博物学者のシーボルトもその一人である。
 博物学とは、医学・鉱物学・動植物学・地理学など全てを統括した学問で、ヨーロッパが世界の辺境地域を探険し尽し、研究し尽すための学問である。
 博物学者は、ただ単に未開部族の生態研究をするだけでなく、その未開の国を植民地にしてしまふための戦略論の実践者でもあつた。
 つまり博物学者は、ヨーロッパ諸国の斥侯を務めてゐた訳で、単なる研究者ではないのである。
 勿論、シーボルトも例外ではない。彼は医学を教へるのと引き換へに、長崎に集まつて来た日本人の弟子たちから様々な情報を入手してゐた。
 シーボルトは一八二八年八月に帰国する際、当時最高の国家機密であつた伊能忠敬の日本地図を持ち出さうとして発覚し、国外追放処分になつてゐる。
 シーボルトはオランダ人ではなく、本当はドイツ人であり、ドイツ海軍の大佐であつた。だから彼の目的が軍事情報の収集にあつたことは疑ひ得ない。
 シーボルトのやうな博物学者たちは帰国後、密かに持ち帰つた辺境国の貴重な情報をヨーロッパ中の政府や財閥に売ることで生計を立てゝゐた。
 シーボルトもこれをやつてゐたらしく、何と我国に来航したペリーは、伊能忠敬の作成した日本地図の写しを持つてゐたのである。
 シーボルトは強制捜査が行はれる前日に、長崎の出島で日本地図の全図を写し取つたらしい。
 全く油断も隙もない連中なのである。
 五、ジョン万次郎は、一八四一年一月に漂流漁民となつてゐたところをアメリカの捕鯨船に助け出され、アメリカ東部のニューヘイブンで英語の教育を施された後、十年後の一八五一年に送り還された。
 万次郎は薩摩藩で取り調べ(島津斉彬(なりあきら)に謁見)を受けたが、長崎奉行にも取り調べられ、翌嘉永五年(一八五二)十一月に高知の城下に移された。
 この頃、坂本龍馬と後藤象二郎、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は、万次郎に教えを請ふてゐる。
 ジョン万次郎が送り還されたのは、ペリーが来航する二年前のことであり、アメリカが計画的に事を運んだらしい。つまり万次郎は、アメリカの工作員(エージェント)だつたのである。
 万次郎は土佐藩に出仕した後、幕府に翻訳方として召し出され、ペリーの後のハリス公使と交渉する際の通訳として働いた。彼はハリスに、幕府の老中たちの密談の内容を知らせてゐたやうだ。
 真正の尊王攘夷派であつた水戸の烈公(徳川斉昭)は、「中万(中浜万次郎、ジョン万次郎のこと)に気をつけろ」といふ手紙を書き残してゐる。
 万延元年(一八六〇)に幕府がアメリカに使節を送つた際、万次郎は幕府海軍操練所教授として一行に加へられ、咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉と同船してゐる。こゝで策士の勝海舟と昵懇の間柄となつた。
 その後、慶応元年(一八六五)二月には、万次郎は長崎で薩摩・長州・土佐藩のために軍艦購入の仲介をしてゐる。仲介先は勿論、グラバーであらう。
 かうしてジョン万次郎を中心に「インナー・サークル」が形成され、幕府から明治を貫く秘密を知る人々がこゝに参集することになつたのである。

(四)坂本龍馬と勝海舟の正体

 副島氏は続いて坂本龍馬と勝海舟に言及しているが、両者に対する評価は手厳しいものがある。
 六、坂本龍馬は文久二年(一八六二)に江戸に出府した後、赤坂氷川にあつた勝海舟邸を千葉重太郎と共に訪ねてゐる。この時の出会ひの場面は有名で勝海舟の大物振りが強調されて描かれることが多いが、これは作り話である。
 龍馬は勝の懐の深さに感じ入つたといふ話になつてゐるが、これは後年、ホラ吹き男爵となつた勝海舟が尾鰭(ひれ)をつけて『氷川清談』で語った嘘である。
 当時の勝日記の中には、その日龍馬に会つたといふ記述すらない。龍馬は恐らく、ジョン万次郎から紹介状を貰つて勝に会ひに行つたのであらう。
 龍馬は、万次郎が築いた「開国派のインナー・サークル」の一員であると勝に信じさせることが出来たので、勝海舟に弟子入りを認められたのである。
 さうでなければこの時既に幕府高官になつてゐた勝海舟が、坂本龍馬などといふ脱藩浪人の危険人物に気楽に会ふ筈がない。
 両者が出会つた翌々年の元治元年(一八六四)五月、神戸に幕府海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり、人材を育成することになつた。
 ところがこの海軍操練所は、一年も経たない翌年三月に閉鎖となった。勝の心底が幕府側に見破られたためである。勝と行動を共にしてゐた龍馬はこの後長崎に向ひ、海運会社・亀山社中を設立した。
 龍馬の動きをバックアップしてゐたのは、ジョン万次郎とグラバーである。
 慶応二年(一八六六)一月に薩長同盟=薩長密約が結ばれた際、龍馬がこれを仲介したことは有名だが、実際には京都薩摩藩邸で行はれた協議に出席してゐなかつたことが最近明らかとなつた。
 しかし、合意文書には龍馬も暑名してをり、薩長同盟締結にどの程度か関はつてゐたことは確かである。だが、一介の脱藩浪人が何の後ろ盾もなしにこのやうな政治力は発揮出来ない。龍馬の背後には、グラバー商会、ジャーディン=マセソン商会、そしてイギリス政府が控へてゐたと見るべきであらう。
 イギリスと薩長の間には早くから提携関係が生じてをり、文久三年(一八六三)に起きた薩英戦争での奇怪な動きは、既に記した通りである。

 この年、長州藩も下関で外国船を砲撃し、翌年八月に英米仏蘭の四国連合艦隊による報復砲撃を受けた。こゝで注意すべきは、主力のイギリス軍と長州が交戦してゐないといふ事実である。
 戦闘は、米仏蘭と長州藩内の本物の攘夷派の間で行はれ、藩内の親イギリス派は事前に連絡を受けて戦闘に加はらないやうにしてゐたのである。
 かうして勢カを温存した親イギリス派は主導権を握り、倒幕へと邁進して行つたのである。
七、坂本龍馬は慶応三年(一八六七)十一月十五目、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺された。
 刺客は見廻組といふのが通説だが、本当は伊藤博文・井上馨が犯人であるという。
 この話は、伊藤博文らとロンドンに密航した山尾庸三が後年告白し、後に宮内大臣にまでなつた土佐勤皇党の田中光顕(みつあき)も、これを白状してゐるといふ。
 龍馬の師だつた勝海舟については前に記したが、彼は性格も思想も非常に問題のある人物だ。
 万延元年、勝海舟は咸臨丸の艦長としてアメリカヘ渡つたが、船内での勝は周囲が抑へられない程の傍若無人振りであつたといふ。この時同船してゐた福沢諭吉は勝を軽蔑してをり、終生に亘つてこれが尊敬に変ることはなかつた。
 又、勝は幕臣でありながら裏でイギリス公使オールコックと繋り、薩長の倒幕派(偽の尊王攘夷派)と連携して動いてゐる。勝のこの裏切りは、後年に報はれることになる。
 明治新政府は明治十七年(一八八四)、華族令を制定した。薩摩・長州・土佐などの出身者が華族となつたが、旧幕臣からは勝だけが伯爵に選ばれた。
 周囲には妬む者も多かつたが、勝は当り前だと言はんばかりに平気な顔をしてゐたといふ。
 晩年の勝は赤坂の氷川の屋敷に籠もり、来客にいゝ加減なホラ話をしたり、次々と女中に手をつけたりして勝手気まゝな老後を過ごした。
 勝海舟は明治三十二年(一八九九)一月に脳溢血で倒れ、「これでおしまい」と言って息絶えた。
 長年連れ添つた妻の民子はその六年後に死亡したが、彼女の遺言は、「私が死んでもあの人(勝)の墓には入れないで下さい」というものだった。
勝海舟の実像は、一般に流布されてゐるものとは、かなり懸隔があるようだ。

(五)明治憲法制定に関与したロスチャイルド

 副島氏の本にはこの外にも盛り沢山の話題が収録されてゐるが、最後に気になる件りを三つ配して置かう。まづ最初は、次のやうなものである。
 「最近、北アイルランドのベルファストの近くのハーランド・アンド・ウルフ(Harland and Wolff)造船所に幕末期の目本関係の秘密資料が山ほどあることが判明した。日本の幕末の各藩の船の多くは、ここで造られた。ところが、それらの秘密資料は今、日本国内にこつそり持ち込まれて隠されている」
一体誰がどこに隠したのだらう。これらの秘密資料には驚くべき事実が記されてゐるに違ひない。
 幕末に来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記も、その交友関係の詳細部分は殆ど削除され、公開されてゐない。これに加へ、重大な秘密交渉の部分も大量に削られてゐる。
 サトウは幕末の日本で暗躍したが、日系人ではなくウェールズ出身のイギリス人である。
 百年以上も前の文書が未だに公開出来ないといふのだから、幕末の闇は相当に深いものがある。

 次に問題としたいのは、以下の記述である。

 「江戸総攻撃の予定日だつた(慶応四年)三月十五日の前日、十四日に五箇条の御誓文が京都で十七歳の明治天皇によつて発布された。この天皇は、すでにすりかえられたとする説が強い」
「明治天皇摩(す)り替え説」は、故・鹿島(のぼる)氏らが唱へたもので、副島氏の記述もこれを踏まへたものであらう。慶応二年(一八六六)の後半に将軍家茂と孝明天皇が立て続けに亡くなつてゐるが、両者の死は明らかに暗殺(毒殺)である。
 孝明天皇については、伊藤博文らによる刺殺説も唱へられてゐるが、その根拠の一つは朝鮮人安重根が著した『伊藤博文の罪悪』の中の記述にある。
明治四十二年(一九〇九)十月二十六日、満州のハルビン駅で伊藤博文は狙撃されて死亡した。
 犯人は安重根とされ、彼は伊藤博文の罪を十五条挙げて殺害の理由とした。その第一条は次の通り。
 第一、一八六七(ママ)年、大日本明治天皇陛下父親太皇帝陛下賦殺(しいさつ)の大逆不道の事。
 安重根は、伊藤博文が孝明天皇を暗殺したといふのだが、実は安重根は狙撃犯ではない。安重根が撃つたとすると、伊藤の体を貫いた弾道と角度が合はないのである。狙撃犯は他にゐたらしい。(注2)
 安重根が犯人でないなら、彼が並べ立てた罪状も信用が置けなくなる。策一、朝鮮人である安が、そのやうな秘密を知つてゐること自体可笑しいではないか。誰かが孝明天皇暗殺の罪を伊藤博文に擦(なす)り付けようとしたのであらう。
 孝明天皇が暗殺されたことは、アーネスト・サトウも記してゐるので間違ない。次いでに若年の明治天皇も、といふことも考へられないことではない。
 孝明天皇暗殺が事実とすると、宮中ではいづれその噂は明治天皇の耳にも入る。さういふ事態を一味が放置したとは考へ難いが、これ以上の詮索は控へよう。
 ただ、明治天皇が南朝を正統としたのは、どうしても解せない。皇統白体を否定することになるからだ。この辺の謎が様々な臆測を生むのであらう。
 もう一つの気になる件りは、次の箇所である。
 「伊藤博文らは、十九年後の一八八二年に明治憲法を作るために再びイギリスに渡り、ロスチャイルド家の世話になつてゐる。
 ロスチャイルド家が、当時の世界中を管理していた。そこが世界の最高指令部(ヘッド・クォーター)だつたのである。
 ロスチャイルド金融財閥にしてみれば、極東の新興国である日本の場合は、どの者たちを抑えておけば上手に管理できるか、"上からの目"ですべて見透かしていたのである。
 ロスチャイルドは、『日本のような後進国にはイギリスの最先進国の政治体制(コンスティチューション)は似合わない』として、ブロイセン(プロシア)ぐらいが丁度良いだろうと判断して、プロイセンから来ていた憲法学者のグナイストやシュタインを紹介した。
 このグナイストに家庭教師をしてもらつて作つたのが明治憲法である」
 グナイストやシュタインはユダヤ系であり、同じ系統のロスチャイルド家が彼らを紹介したといふのは有り得る話である。
 伊藤博文らが一八八二年に渡欧した際、ロスチャイルド家の世話になったといふ記録は残されてゐないが、文久三年(一八六三)にイギリスに密航した時既にロスチャイルドのコントロール下にあつたと思はれ、一八八二年の時点では未だグラバーも健在だつたから、予(あらかじ)め話はつけてあったのだろう。
 副島氏の視点は従来見られなかつたもので、本質に肉迫してゐるが、未だ半分しか真実が語られてゐない。フリーメーソンが暗躍したといふ事実が抜け落ちてをり、次稿でこの問題を論じることにする。

(注1)『属国日本史幕末編』(副島隆彦、早月堂書房)
(注2)『伊藤博文暗殺事件』(大野芳、新潮社)