庭木師は見た!~ガーディナー&フォトグラファー~

庭木師が剪定中に見たあれこれ。

ーいざ、富山footbath(足湯)県へー⑭北前船で栄えた岩瀬の塀

2021-05-17 20:23:11 | 旅行

▽北前船回船問屋エリアの塀

 

 JR富山駅から北(日本海側)へ6㌔余り行った所に東岩瀬という地区があります。富山駅でライトレール(路面電車)に乗り、東岩瀬駅で降ります。

 東岩瀬地区は、幕末から明治時代にかけて日本海沿岸を往来して物資を運んだ北前船で栄えました。かつて裏日本と言われ、立山連峰で太平洋側と区切られていた富山県にとって、北前船は外に開かれた経済、文化の「窓」だったのです。

 北前船が扱った代表的商品が昆布でした。北海道で採れた昆布は、北前船で京都や大阪に運ばれ、富山の岩瀬はその寄港地でした。昆布ロードと言われ、薩摩藩にまで昆布はもたらされ、琉球経由で清(中国)に売られていました。富山は薬産業、中でも売薬が有名ですが、それにも北前船が深く関わっています。

 

    

                  (東岩瀬の廻船問屋の塀)

 東岩瀬地区にはかつて、北前船の廻船問屋が20軒ほど集まっていました。現在も当時の名残を残す町並みがあちこちに残っていて、船板を再利用した塀が目を引きます。上の写真がそれで、立派なお屋敷のため、高級な新しい木材を使うこともできたはずですが、こうして船の廃材を使うところに、家業に対する家の主人の思い、愛着を感じさせられます。

    

                 (塀に近づいてみました)

 塀に近づいて撮りました。中央がくびれた長さ15㎝程度、幅3㎝程度のくさび形の木があちこちにはめ込まれていました。

 さらに接近して見てみたら、下のようになっていました。

 これは、板同士をつなぐ「ちきり」というものだそうです。漢和辞典で調べれば、「ちきり」という漢字一文字が出ますが、私のパソコンに入っている漢字ソフトにその文字はありませんでした。部首は月偏です。手元の新潮日本語辞典漢字辞典によると「ちきり締」の説明に、「木または石をつなぐ時、会わせ目にはめる両端が広く中央がくびれた鎹(かすがい)」とありました。

    

                <「ちきり」という鎹(かすがい)>

 富山県氷見市に氷見市立博物館があります。そこには和船の造り方の説明が展示されています。

「ちきり」の見本もありましたので写真を撮り、添付しました。

             

            (氷見市立博物館。「ちきり」についての詳しい説明)

 氷見は、ブリなどの魚が水揚げされることで東京などでも知られています。半農半漁も町で、和船づくりも盛んでした。                                  (以上)


ーいざ、富山footbath(足湯)県へー⑬この人を見よ:大谷米太郎と馬場はる(二)

2021-05-05 10:32:27 | 旅行

▼マネーの共通点!

 富山県の素封家・馬場はるが、ラフカディオ・ハーンの直筆原稿や蔵書などを富山大学が一括購入するための資金をポンと出し、「へルン文庫」を作ったことは前回お話ししましたが、富山市の文学館高志の国文学館で昨年(2020)年春、ラフカディオ・ハーンに関する企画展「ラフカディオ・ハーンの共感力-発見・探求、そして発信へ」が開催されました。

 そのタイトルは、ややキャッチーとは言いがたい、考えすぎ、要素を盛り込み過ぎに思えないこともありませんが、まあ、それはご愛敬で、いいとして…(笑)。

             

                     (馬場はる)

 筆者はたまたま、この企画展の初日に行った(行った日がたまたま初日だった)のですが、会場には、同展の主催・共催者関係者らしい数人の男性が、どこかのお偉いさん風の男を案内しながら会場を巡っていました。英語の録音が流れるコーナーで案内者が、「この声は、ラフカディオ・ハーンです。彼が東大で学生に講演したその最後のところです」と説明していました。

 ハーンの声はこうあった。「忙しくても毎日10~15分勉強すべし。毎日5行ずつ書くべし。それが1年経てばまとまったボリュームになる。こつこつ継続することが大事だ」との趣旨。

 確かにそうですね、継続は力です。ブログも同じです。

 ハーンの言葉を聞きながら大谷米太郎の人生哲学、「金は力である」を思い出していました。少しずつ蓄えをしなさいということです。ある程度のお金がないと何もできない。それも自分で稼ぐべし、と。彼の造語で言えば「タネ銭」です。大谷米太郎自らが実践した裏付けがある金銭哲学です。日本経済新聞の連載記事『私の履歴書 大谷米太郎』(昭和39年)の1回目からこのことに触れています。

「若い読者諸君に言っておきたいことがある。それはたった今から、収入の1割を貯金したまえ、ということだ」「百万円の金ができれば百万円の知恵がわいてくる。千万円の金ができれば千万円の知恵が出てくるのだ」

 富山県の水吞み百姓の家に生まれ、一代で巨額の資産を築いただけに、傾聴に値します。タネ銭づくりは確かに大事だと思います。しかし、金を少しずつ貯めたから、なにか事業に成功するというわけでは必ずしもなく、実業家・大谷米太郎の成功はどうしてなのか、筆者にはピントくるところがないといいますか、よくわかりません。

 それほど不思議な人です、この人物は。

    

 (大谷米太郎の生家。現在は小矢部市が所有・管理する『大谷博物館』になっており、彼が昭和10年に建て替えた。隣りの家も買い取り、敷地は約1千坪)

    

          (大谷家の内部。富山県ではこうした間取りが一般的)

          

(米太郎や弟の竹次郎などだけが使うことができた浴室。他の家族は外に設けられた風呂小屋を

使った。右手の蛇口はシャワー)

 なお、筆者の母方の実家は、大谷博物館から歩いて約15分の所にあります。代々、医者でしたので

もしかしたら祖父(故人)は、大谷家の方を診察したことがあるかもしれません。(以上)