庭木師は見た!~ガーディナー&フォトグラファー~

庭木師が剪定中に見たあれこれ。

ーいざ、富山footbath(足湯)県へー⑫この人を見よ!:大谷米太郎&馬場はる。その㈠

2021-04-26 20:38:37 | 旅行

▽この人を見よ!=富山の“寄付王”、大谷米太郎&馬場はる

 ■大谷米太郎。

 筆者は富山県人とは言え、幼い頃に富山を離れ、定年過ぎまで戻ることがなかっただけに、県人のことはあまり知りませんでした。近年、いろいろ見聞きし、調べて、再評価が必要なのが大谷米太郎と馬場はるではないかと思っています。彼、彼女は非俗物です。

 こういう人が富山にいたんだ!という感覚でした。「この人を見よ!」です。金融緩和のジャブジャブ時代にあって、われわれ俗物たちは金儲けに必死ですが、この2人に感心するのは「カネの使い方」です。

 新型コロナの変異ウイルスの蔓延が大きな問題になり出した今年(2021)年4月中旬、やむを得ない事情で北陸新幹線で富山から上京した際、上野駅で途中下車し、浅草に立ち寄りました。

 東京の観光客の状況を見る“指標“になっているのが浅草寺の仲見世です。テレビでよく放映されていますね。雷門をくぐり約200㍍、お土産店が切れた所に朱塗りの宝蔵門があります。本堂の約50㍍手前です。

           

              (浅草寺宝蔵門。右手にちょっと見えるのが本堂)

 筆者は東京に住んでいた2年前まで、浅草寺には毎年3月に来ていました。浅草公会堂で3月10日前後に東京大空襲の資料展示・講演会が開催されていたからです。従って、宝蔵門は何度もくぐっていたのですが、全く知りませんでした、この門は富山県小矢部市出身で、ホテルニューオータニを建て、大谷重工業(当時)の社長を務めた大谷米太郎が寄進した(その金額は1億5千万円)ということを。

 落成は、1964(昭和39)年4月。東京オリンピックが開かれた年です。同じ年の9月にホテルニューオータニが開業しています。東京オリンピックの開幕は10月です。

 

           

  (仲見世を抜けて宝蔵門をくぐる際、左手に目をやるとレリーフがありました。大谷米太郎です)

 上の写真のレリーフを撮影する筆者の背中側の壁面には、奉納に関する説明プレート(下の写真)がはめ込まれていました。昭和29年に書かれたようで、文字板がよく読めませんでした。大谷米太郎夫妻の名前もうっすらでした。この宝蔵門は建て替えられたのですが、先代の建物は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失したということが記されているようでした。

            

 大谷米太郎は、出身地である小矢部市の支庁舎の建設費も寄付しました。その庁舎もまた1964(昭和39)年の8月に落成しました。

         

       (小矢部市庁舎。正面入口の右手に大谷米太郎の銅像が建っている)

▼3年間だけひまを下さい。

 大谷米太郎のスタートアップは、筆者にとってはちょっと信じがたいものです。多分、ほとんどの人にとってもそうではないでしょうか。

 簡単に記すと次のような内容です。

 米太郎は1881(明治14)年、現在の小矢部市の小作人の家に生まれました。家は貧しく、米太郎は、ここにずっといても展望は開けないとして、31歳の時に東京に出て稼ぐことを決意、母(当時、父は既に死去)に申し出ました。

 米太郎「3年間だけヒマをください」。母「どこへいくのかい」「東京に行って金をもうけようと思っています」「東京に行くと言ったって、お前、なにか目当てはあるのかい」「別に当てはない」「金ないよ」「金はいらないから汽車賃だけでいい。それに3年間だけひまをくれれば、金を残して帰ってくるから」。

 結局、母親の了解を取り付け、握り飯と上野までの切符を持って出発しました。手元の現金は20銭だけだったそうです。(←『私の履歴書 大谷米太郎』から(日本経済新聞。昭和39年3~4月)

 このくだりには驚き、そしてシビレます。一個人が会社を立ち上げて成功、立志伝中の人として社史を編纂するまでになった場合、その社史で最も興味深いのは、その起業時点であることは、多くの社史研究家が指摘する通りです。

 それにしても文字通り裸一貫で上京したわけで、乞食に転落するのが普通です。生活費を稼ぐため窃盗をしてもおかしくありません。よくもこれだけでの成功をおさめることができたものだと、…信じがたいです。

 生まれ持った運命としか言いようがありません。

 米太郎はマネー哲学を持っています。それについては改めて記したいと思っています。

                       ◆

■馬場はる。

 次に「寄付女王」の馬場はるについてです。 

         

               (馬場はるの胸像。馬場記念公園内)

 富山駅から日本海に向かって北へ進むと、岩瀬という地区があります。北前船で栄えた所として知られています。馬場はるが嫁いだ先の馬場家は、この地の北前船5大船主の一つでした。

 馬場はる(明治19~昭和46)ってWHO?と、富山県以外の人は思うでしょうね。当然です。同県出身の筆者も最近まで知りませんでした。

 彼女は富山県泊(新潟県近く)の素封家・小沢家に生まれ、14歳で馬場家の長男・大次郎(道久)に嫁ぎました。当時、小沢家と馬場家は所得番付で競い合う名門でした。結婚は個人より家の結び付きでしたので、家の「格」は極めて重要でした。

 馬場はるは、富山県の教育事業に多額の寄付を行いました。夫が39歳で病没後、七年制の高校(中高一貫。当時、七年制の高校は全国に3校のみ)の設立のため多額の寄付をしました。同校はその後、富山大学となります。

 さらにその後、作家のラフカディオ・ハーン(日本に帰化後「小泉八雲」)の手書き原稿や旧蔵書などを、買い取りを打診してきた先から購入、それらは現在、富山大学に「へルン文庫」として保存され、研究者などが利用できるようになっています。

 ハーンは生前、富山県に来たことはありませんでしたが、1923(大正12)年の関東大震災時、東京の遺族が、保存していたハーンの資料が一部焼失したことなどから、保管先として安全な場所を探していたところ、旧制富山高校の関係者と合意、購入資金を馬場はるが出したというわけです。

                      ◆

 こうした寄付で思い出すのが、元日産自動車のカルロス・ゴーンです。彼の退任前の年収は20億円程度だったようですが、これだけの収入があっても、強欲という生まれ付きの遺伝子は「もっと金を!」だったのです。

 彼がもし給与の一部、例えば毎年1~2億円でも寄付、教育基金を設けて苦学生を支援し続けたならば、ゴーンおよび日産の社会的評価は間違いなく上がっていたはずです。日産車の評価だってトヨタに迫りますよ。

 そんなことは誰だって分かるのに、全く逆だったわけですね。これも運命でしか説明できません。    (以上)

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ーいざ、富山footbath(足湯)県へー⑪世界的建築家:安藤忠雄と隈研吾

2021-04-21 18:31:23 | 旅行

▽田舎町の「カメラ館」は、安藤忠雄設計

 富山県高岡市福岡町という人口1万2千人の小さな町に、「ミュゼふくおかカメラ館」という、古いカメラの展示施設があります。写真ギャラリーも併設しています。運営は高岡市の財団です。

 建物のデザインはなかなか垢抜けしています。下の写真がそれで、設計は安藤忠雄です。

           

      (2000年にオープンした安藤忠雄設計の「ミュゼふくおかカメラ館」)

 富山県で唯一の安藤忠雄建築です。

 そもそもこの建物は、市町村合併によって高岡市福岡町になる前の旧福岡町時代に、地元のカメラ収集家が保有していたカメラを一堂に集め、街おこしに役立てようとの趣旨で建てられたのですが、カメラを寄贈することになっていた人が、この建物を見て「気に入らねえ!」と言って寄贈を拒否したそうです。

 あてが外れた町としては、他のコレクターを探し出し、その人の協力でオープンにこぎ着けたという経緯があります。←以上、金山嘉宏館長の話です。

 

           

             (カメラの歴史が分かる展示コーナー)

 世界のアンタダ(安藤忠雄)の作品を拒否した理由は分かりませんが、うーむ、なかなかの人に思えました。

 安藤忠雄は東京大学特別栄誉教授でもあります。彼の建築事務所にも東大の学生が働いています。数年前、あるところでアンタダの講演を聴きました。東大生について触れ、「うちの事務所で採用した東大卒は感性が欠如している。ある雨の日のこと、じょうろを持って庭に出ようとするので、彼(彼女)に何するの?と聞いたら『毎日夕方、花に水をやることになっていますので…』と答えたとか。

 

            

    (写真展の様子。2021年4月は、写真家・星野佑佳の『絶景恋愛』展をやっています)

 同館が所有しているカメラの中で、筆者が最も注目したいのは世界的写真家・ユージン・スミスのサインが入ったオリンパスペンFTです。

             

         (底にユージン・スミスのサインがあるオリンパスペン)

 なぜ、そういう珍しいカメラを同館が所有しているかというと、1970年代に東京の写真家が、ある裁判(確か沖縄闘争関連)の費用を集めるため、当時知り合いだったユージン・スミスにカンパを依頼したら、彼はサブカメラとして持っていたオリンパスペンの底の部分に釘でサインし、「これを売ってくれ」と言ったとのこと。

 サインを入れたのは3台だったそうです。1台は巡り巡って「カメラ館」に来て、1台は東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)にありますが、もう1台も行方が分からないそうです。

                    ◆

 ユージン・スミスと聞いても、Who?という人が多くなっているかと思います。米国の報道写真家で、太平洋戦争中はサイパン、グアムなどに従軍しました。沖縄戦では顎や背中に砲弾の破片を受け、生涯その後遺症に苦しむことになります。

             

            (写真家のユージン・スミス。雑誌『潮』1971.12号から)

 戦後、日立製作所に招かれて同社のPR用写真を撮り、いったん米国に帰った後、熊本県の水俣病を取材するため再来日します。1971(昭和46)年のことです。約3年間にわたって水俣を撮り、1974(昭和49)年10月に熊本空港から東京経由で帰国したのを最後に、再び日本に戻ることはありませんでした。

 筆者は、水俣病患者の支援活動をしていた人から、帰国のため熊本空港に来たユージン・スミスと妻のアイリーンのツーショットのモノクロプリント写真をもらったのですが、一時的に行方不明になっています。自宅のどこかに間違いなくあるのですが、大切な写真なので、別ファイルに入れたため、逆に分からなくなってしまいました。よくあることです。

 ユージン・スミスが米国に帰国した理由ですが、1970年前後、水俣病患者や支援者たちがチッソの本社(東京駅・丸の内側。かつて同じビルに日本航空の本社があった)に押しかけて抗議活動をしていた時、チッソの従業員らにブロックされ、暴力的に排除されてしまいます。それに抗議するため千葉県にあるチッソ石油化学五井工場に押しかけたのですが、そこで従業員らに集団暴行を受け、ボコボコにされます。1972(昭和47)年1月7日のことです。

            

               (チッソ石油化学五井工場。2010年撮影)

 この時の抗議活動には支援者約15人の他に、取材のため全国紙の記者もいました。このため翌日の新聞に大きく報道されました。暴力団もビックリする異常な企業体質です。

 ユージンスミスはこの時受けた暴行で、戦時中に体内に入った砲弾片による後遺症がさらに悪化、治療のため米国に戻らなければならなくなったのです。結局回復せず、米国で1978年、59歳で亡くなります。

 

▽隈研吾の富山市の作品

 さて、次は安藤忠雄と並ぶ世界的建築家、隈研吾です。

富山市の中心部にある「TOYAMAキラリ」です。2015(平成27)年に竣工しました。

       

 (「TOYAMAキラリ」の外観。外壁はアルミパネルと御影石などで立山連峰をイメージ)

                

      (TOYAMAキラリの内部。エスカレーターが階によって少しずつずらしてある)

 10階建てのこのビルには、富山市ガラス美術館や、富山市立図書館が入っています。建物の中心に斜めの吹き抜けがあります。こういう建物の設計は、建築法規をクリアするのが難しいとのこと。

 隈研吾氏は、斜めにした理由について、ある本にこう書いています。

 「立山と富山湾は、水平でもなく、垂直でもなく、斜めにつながっているからである」「自然とは斜めの世界であり、富山はその斜めを体感できる場所である。これからの社会では、斜めが必要とされている。斜めの原理、斜めのダイナミズムが、必要とされてくる」(『富山の置き薬〈中〉』から)と。

                               ◆

 それはともかく、隈研吾は神奈川県の名門私立高校、栄光学園から東大工学部建築学科に進みました。筆者の知人に、栄光学園時代に隈研吾と同級生だった人がいます。その彼は、栄光学園時代の成績はトップクラスで、東大法学部に進学しました。なみに栄光学園は東大への現役合格率が日本で1、2位を競う進学校です。

 なのですが、筆者の知人は社会人になってからはさえない人生でした。親が心配するほどパッとしませんでした。筆者が仕事で知り合った某メガバンクの幹部もたまたま栄光学園卒で、筆者の知人をよく知っていました。「学校の試験結果はいつも廊下に張り出され、彼はいつも一桁だった」と、なぜか遠くを見つめる目で振り返っていました。もう20年以上前のことですが。

 東大卒と言っても、“東大までの人、東大からの人”と言う言葉があります。…余計なことでした。 

                                             (以上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ーいざ、富山footbath(足湯)県へー銀行建築⑩<富山銀行と富山第一銀行>

2021-04-08 18:16:42 | 旅行

 さて、次は富山県の銀行建築についてです。

 富山県には3つの地方銀行があります。規模が大きい順に「北陸銀行(本店富山市)」、「富山銀行(本店高岡市)」、「富山第一銀行(本店富山市)」です。

 人口や経済規模からみて富山県に3行は多すぎで、再編の必要性がかねてより指摘されています。

■本店建物は歴史とアート

 それはそれとして、各銀行の本店建物は観光の視点から興味深いものがあります。

 まず第二地銀の富山第一銀行ですが、かつての相互銀行で、1989(平成元)年に普通銀行に転換しました。愛称は「富山ファーストバンク」。

 同行の本社は、富山市の中心部に、2015(平成27)年に完成した再開発ビル「TOYAMAキラリ」の中にあります。この建物は、日本を代表する建築家・隈研吾が設計しました。

          

    (モダンなビル「TOYAMAキラリ」。写真下、茶色の服を着た女性の真正面が

     富山第一銀行本店の正面入り口。このビルの一部を同行が使っている)

 金沢市に2004(平成16)年に完成した「金沢21世紀美術館」(著名な建築家である妹島和代とそのパートナーの西沢立衛が設計)は、金沢への観光客の多くが同美術館を目指すほど注目されていることもあり、アートコンプレックスが強い富山としては、当県にも世界的な建築家の手によるお洒落な建物を目指す考えから、「TOYAMAキラリ」は生まれたのです。

 筆者は何度も行っていますが、流石に富山市の目玉建築だけに、力の入った、味わい深い設計であることを感じさせられます。

 そのビルには、富山第一銀行の本店のほかに、現代ガラス作品を展示する「富山市ガラス美術館」と、「富山市立図書館」が入っています。

 富山第一銀行が、本店をこのビルに設けるとは、なかなかの経営センスだと感じました。富山市以外の顧客から「お宅の本店はどこにあるの?」と聞かれてすぐ分かるからです。富山市内で誰もが知っている建築物は、県庁や市役所を別にすれば、富山城、次は歴史ある百貨店「大和」、その次が恐らくキラリではないでしょうか。

 移転前の富山第一銀行本店ビルもなかなか目を引きました。市の中心部、総曲輪2丁目に現存しています。昭和26年に竣工したこの旧本社ビルの外観は、かつて東京・丸の内にあった旧第一銀行の本店建物をコピーしたものです。円柱の柱が並ぶ白亜の石造り建築。キラリ内にある新本社は、正面玄関を入ってすぐのファサードなどに旧本店ビルのイメージを引き継ぎました。

            

               (富山市内に残る富山第一銀行の旧本店ビル)

 

           

     (富山キラリ内の富山第一銀行本店の通路。旧本店建物のイメージを引き継いだ)

                    ◇

 次は富山銀行についてです。

 同行の本店は富山市ではなく、富山県第二の都市、高岡市にあります。

2019年に完成した現在の本店ビルは、あいの風とまや鉄道・JR西日本の高岡駅コンコース古城公園口に建っています。

          

          (富山銀行本店のクリスマスイルミネーション。2020年12月25日撮影。

         建物壁面にクルスマスツリーや雪模様が浮かび上がった)

 英語表記の「Bank of Toyama」は2013年に、「The Bank of Toyama」から改称しました。グローバル化の時代にあって、ボーダーレスに活動することと、富山の銀行であることを強調するのが狙いだといいます。

 新しいこのビル自体は目立った特徴があるわけではありません。すっきりした現代風のオフィスビルという感じです。

  新しい本社ビルを建てると、その会社について「今が、経営面のピーク」とささやかれることが多いようです。過去、そういう事例が少なくなかったからのようです。

  富山銀行がそうだというわけではありません。ただ、同行の経営に問題がないかといえば必ずしもそうではなく、財務内容や収益性から見て必ずしも誇れるものではないようです。

  地銀再編はこの先避けられないとみて、いくつかの経済雑誌は、全国の地銀の“善し悪しランキング”を載せ始めました。どの財務指標に重きを置くかで、その順位は変わりますが、富山銀行の場合、残念ながら複数の経済誌で「危険度」の順位が上位にありました。調査した全国の地銀103行中、不名誉にも1位だった雑誌もありました。ちなみに地銀の預金残高は最小クラス。

  それはさておき、同行の旧本店は注目に値します。(下の写真)

 高岡駅から歩いて12分のところにあります。

 

              

       (土蔵造りの家が建ち並ぶ高岡市・山町筋に建つ赤レンガづくりの富山銀行旧本店。

               大正3年竣工)

 清水組(現・清水建設)の田辺淳吉が設計しました。東京駅などを設計した辰野金吾の弟子です。(辰野がこの銀行も監修したとの説がありますが、実際はタッチしていなかったとのこと)

 県内唯一の本格的西洋建築です。外装に赤レンガと白御影石を使い、屋根は三角破風。各部屋の天井には、漆喰の鏝絵(こてえ)装飾があります。2階役員応接室にはステンドグラスがはめ込まれています。

 この建物は高岡共立銀行時代の1914(大正3)年に建てられました。同行はその後、合併を経て高岡銀行に、その後も合併を繰り返して現在の北陸銀行になりました。

 富山県には明治時代、60行近くの銀行があったそうです。太平洋戦争中には「北陸3県1行案」も浮上していたと、北陸銀行の社史にありました。                         (以上)