▽この人を見よ!=富山の“寄付王”、大谷米太郎&馬場はる
■大谷米太郎。
筆者は富山県人とは言え、幼い頃に富山を離れ、定年過ぎまで戻ることがなかっただけに、県人のことはあまり知りませんでした。近年、いろいろ見聞きし、調べて、再評価が必要なのが大谷米太郎と馬場はるではないかと思っています。彼、彼女は非俗物です。
こういう人が富山にいたんだ!という感覚でした。「この人を見よ!」です。金融緩和のジャブジャブ時代にあって、われわれ俗物たちは金儲けに必死ですが、この2人に感心するのは「カネの使い方」です。
新型コロナの変異ウイルスの蔓延が大きな問題になり出した今年(2021)年4月中旬、やむを得ない事情で北陸新幹線で富山から上京した際、上野駅で途中下車し、浅草に立ち寄りました。
東京の観光客の状況を見る“指標“になっているのが浅草寺の仲見世です。テレビでよく放映されていますね。雷門をくぐり約200㍍、お土産店が切れた所に朱塗りの宝蔵門があります。本堂の約50㍍手前です。
(浅草寺宝蔵門。右手にちょっと見えるのが本堂)
筆者は東京に住んでいた2年前まで、浅草寺には毎年3月に来ていました。浅草公会堂で3月10日前後に東京大空襲の資料展示・講演会が開催されていたからです。従って、宝蔵門は何度もくぐっていたのですが、全く知りませんでした、この門は富山県小矢部市出身で、ホテルニューオータニを建て、大谷重工業(当時)の社長を務めた大谷米太郎が寄進した(その金額は1億5千万円)ということを。
落成は、1964(昭和39)年4月。東京オリンピックが開かれた年です。同じ年の9月にホテルニューオータニが開業しています。東京オリンピックの開幕は10月です。
(仲見世を抜けて宝蔵門をくぐる際、左手に目をやるとレリーフがありました。大谷米太郎です)
上の写真のレリーフを撮影する筆者の背中側の壁面には、奉納に関する説明プレート(下の写真)がはめ込まれていました。昭和29年に書かれたようで、文字板がよく読めませんでした。大谷米太郎夫妻の名前もうっすらでした。この宝蔵門は建て替えられたのですが、先代の建物は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失したということが記されているようでした。
大谷米太郎は、出身地である小矢部市の支庁舎の建設費も寄付しました。その庁舎もまた1964(昭和39)年の8月に落成しました。
(小矢部市庁舎。正面入口の右手に大谷米太郎の銅像が建っている)
▼3年間だけひまを下さい。
大谷米太郎のスタートアップは、筆者にとってはちょっと信じがたいものです。多分、ほとんどの人にとってもそうではないでしょうか。
簡単に記すと次のような内容です。
米太郎は1881(明治14)年、現在の小矢部市の小作人の家に生まれました。家は貧しく、米太郎は、ここにずっといても展望は開けないとして、31歳の時に東京に出て稼ぐことを決意、母(当時、父は既に死去)に申し出ました。
米太郎「3年間だけヒマをください」。母「どこへいくのかい」「東京に行って金をもうけようと思っています」「東京に行くと言ったって、お前、なにか目当てはあるのかい」「別に当てはない」「金ないよ」「金はいらないから汽車賃だけでいい。それに3年間だけひまをくれれば、金を残して帰ってくるから」。
結局、母親の了解を取り付け、握り飯と上野までの切符を持って出発しました。手元の現金は20銭だけだったそうです。(←『私の履歴書 大谷米太郎』から(日本経済新聞。昭和39年3~4月)
このくだりには驚き、そしてシビレます。一個人が会社を立ち上げて成功、立志伝中の人として社史を編纂するまでになった場合、その社史で最も興味深いのは、その起業時点であることは、多くの社史研究家が指摘する通りです。
それにしても文字通り裸一貫で上京したわけで、乞食に転落するのが普通です。生活費を稼ぐため窃盗をしてもおかしくありません。よくもこれだけでの成功をおさめることができたものだと、…信じがたいです。
生まれ持った運命としか言いようがありません。
米太郎はマネー哲学を持っています。それについては改めて記したいと思っています。
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■馬場はる。
次に「寄付女王」の馬場はるについてです。
(馬場はるの胸像。馬場記念公園内)
富山駅から日本海に向かって北へ進むと、岩瀬という地区があります。北前船で栄えた所として知られています。馬場はるが嫁いだ先の馬場家は、この地の北前船5大船主の一つでした。
馬場はる(明治19~昭和46)ってWHO?と、富山県以外の人は思うでしょうね。当然です。同県出身の筆者も最近まで知りませんでした。
彼女は富山県泊(新潟県近く)の素封家・小沢家に生まれ、14歳で馬場家の長男・大次郎(道久)に嫁ぎました。当時、小沢家と馬場家は所得番付で競い合う名門でした。結婚は個人より家の結び付きでしたので、家の「格」は極めて重要でした。
馬場はるは、富山県の教育事業に多額の寄付を行いました。夫が39歳で病没後、七年制の高校(中高一貫。当時、七年制の高校は全国に3校のみ)の設立のため多額の寄付をしました。同校はその後、富山大学となります。
さらにその後、作家のラフカディオ・ハーン(日本に帰化後「小泉八雲」)の手書き原稿や旧蔵書などを、買い取りを打診してきた先から購入、それらは現在、富山大学に「へルン文庫」として保存され、研究者などが利用できるようになっています。
ハーンは生前、富山県に来たことはありませんでしたが、1923(大正12)年の関東大震災時、東京の遺族が、保存していたハーンの資料が一部焼失したことなどから、保管先として安全な場所を探していたところ、旧制富山高校の関係者と合意、購入資金を馬場はるが出したというわけです。
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こうした寄付で思い出すのが、元日産自動車のカルロス・ゴーンです。彼の退任前の年収は20億円程度だったようですが、これだけの収入があっても、強欲という生まれ付きの遺伝子は「もっと金を!」だったのです。
彼がもし給与の一部、例えば毎年1~2億円でも寄付、教育基金を設けて苦学生を支援し続けたならば、ゴーンおよび日産の社会的評価は間違いなく上がっていたはずです。日産車の評価だってトヨタに迫りますよ。
そんなことは誰だって分かるのに、全く逆だったわけですね。これも運命でしか説明できません。 (以上)