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ーいざ、富山footbath(足湯)県へー⑪世界的建築家:安藤忠雄と隈研吾

2021-04-21 18:31:23 | 旅行

▽田舎町の「カメラ館」は、安藤忠雄設計

 富山県高岡市福岡町という人口1万2千人の小さな町に、「ミュゼふくおかカメラ館」という、古いカメラの展示施設があります。写真ギャラリーも併設しています。運営は高岡市の財団です。

 建物のデザインはなかなか垢抜けしています。下の写真がそれで、設計は安藤忠雄です。

           

      (2000年にオープンした安藤忠雄設計の「ミュゼふくおかカメラ館」)

 富山県で唯一の安藤忠雄建築です。

 そもそもこの建物は、市町村合併によって高岡市福岡町になる前の旧福岡町時代に、地元のカメラ収集家が保有していたカメラを一堂に集め、街おこしに役立てようとの趣旨で建てられたのですが、カメラを寄贈することになっていた人が、この建物を見て「気に入らねえ!」と言って寄贈を拒否したそうです。

 あてが外れた町としては、他のコレクターを探し出し、その人の協力でオープンにこぎ着けたという経緯があります。←以上、金山嘉宏館長の話です。

 

           

             (カメラの歴史が分かる展示コーナー)

 世界のアンタダ(安藤忠雄)の作品を拒否した理由は分かりませんが、うーむ、なかなかの人に思えました。

 安藤忠雄は東京大学特別栄誉教授でもあります。彼の建築事務所にも東大の学生が働いています。数年前、あるところでアンタダの講演を聴きました。東大生について触れ、「うちの事務所で採用した東大卒は感性が欠如している。ある雨の日のこと、じょうろを持って庭に出ようとするので、彼(彼女)に何するの?と聞いたら『毎日夕方、花に水をやることになっていますので…』と答えたとか。

 

            

    (写真展の様子。2021年4月は、写真家・星野佑佳の『絶景恋愛』展をやっています)

 同館が所有しているカメラの中で、筆者が最も注目したいのは世界的写真家・ユージン・スミスのサインが入ったオリンパスペンFTです。

             

         (底にユージン・スミスのサインがあるオリンパスペン)

 なぜ、そういう珍しいカメラを同館が所有しているかというと、1970年代に東京の写真家が、ある裁判(確か沖縄闘争関連)の費用を集めるため、当時知り合いだったユージン・スミスにカンパを依頼したら、彼はサブカメラとして持っていたオリンパスペンの底の部分に釘でサインし、「これを売ってくれ」と言ったとのこと。

 サインを入れたのは3台だったそうです。1台は巡り巡って「カメラ館」に来て、1台は東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)にありますが、もう1台も行方が分からないそうです。

                    ◆

 ユージン・スミスと聞いても、Who?という人が多くなっているかと思います。米国の報道写真家で、太平洋戦争中はサイパン、グアムなどに従軍しました。沖縄戦では顎や背中に砲弾の破片を受け、生涯その後遺症に苦しむことになります。

             

            (写真家のユージン・スミス。雑誌『潮』1971.12号から)

 戦後、日立製作所に招かれて同社のPR用写真を撮り、いったん米国に帰った後、熊本県の水俣病を取材するため再来日します。1971(昭和46)年のことです。約3年間にわたって水俣を撮り、1974(昭和49)年10月に熊本空港から東京経由で帰国したのを最後に、再び日本に戻ることはありませんでした。

 筆者は、水俣病患者の支援活動をしていた人から、帰国のため熊本空港に来たユージン・スミスと妻のアイリーンのツーショットのモノクロプリント写真をもらったのですが、一時的に行方不明になっています。自宅のどこかに間違いなくあるのですが、大切な写真なので、別ファイルに入れたため、逆に分からなくなってしまいました。よくあることです。

 ユージン・スミスが米国に帰国した理由ですが、1970年前後、水俣病患者や支援者たちがチッソの本社(東京駅・丸の内側。かつて同じビルに日本航空の本社があった)に押しかけて抗議活動をしていた時、チッソの従業員らにブロックされ、暴力的に排除されてしまいます。それに抗議するため千葉県にあるチッソ石油化学五井工場に押しかけたのですが、そこで従業員らに集団暴行を受け、ボコボコにされます。1972(昭和47)年1月7日のことです。

            

               (チッソ石油化学五井工場。2010年撮影)

 この時の抗議活動には支援者約15人の他に、取材のため全国紙の記者もいました。このため翌日の新聞に大きく報道されました。暴力団もビックリする異常な企業体質です。

 ユージンスミスはこの時受けた暴行で、戦時中に体内に入った砲弾片による後遺症がさらに悪化、治療のため米国に戻らなければならなくなったのです。結局回復せず、米国で1978年、59歳で亡くなります。

 

▽隈研吾の富山市の作品

 さて、次は安藤忠雄と並ぶ世界的建築家、隈研吾です。

富山市の中心部にある「TOYAMAキラリ」です。2015(平成27)年に竣工しました。

       

 (「TOYAMAキラリ」の外観。外壁はアルミパネルと御影石などで立山連峰をイメージ)

                

      (TOYAMAキラリの内部。エスカレーターが階によって少しずつずらしてある)

 10階建てのこのビルには、富山市ガラス美術館や、富山市立図書館が入っています。建物の中心に斜めの吹き抜けがあります。こういう建物の設計は、建築法規をクリアするのが難しいとのこと。

 隈研吾氏は、斜めにした理由について、ある本にこう書いています。

 「立山と富山湾は、水平でもなく、垂直でもなく、斜めにつながっているからである」「自然とは斜めの世界であり、富山はその斜めを体感できる場所である。これからの社会では、斜めが必要とされている。斜めの原理、斜めのダイナミズムが、必要とされてくる」(『富山の置き薬〈中〉』から)と。

                               ◆

 それはともかく、隈研吾は神奈川県の名門私立高校、栄光学園から東大工学部建築学科に進みました。筆者の知人に、栄光学園時代に隈研吾と同級生だった人がいます。その彼は、栄光学園時代の成績はトップクラスで、東大法学部に進学しました。なみに栄光学園は東大への現役合格率が日本で1、2位を競う進学校です。

 なのですが、筆者の知人は社会人になってからはさえない人生でした。親が心配するほどパッとしませんでした。筆者が仕事で知り合った某メガバンクの幹部もたまたま栄光学園卒で、筆者の知人をよく知っていました。「学校の試験結果はいつも廊下に張り出され、彼はいつも一桁だった」と、なぜか遠くを見つめる目で振り返っていました。もう20年以上前のことですが。

 東大卒と言っても、“東大までの人、東大からの人”と言う言葉があります。…余計なことでした。 

                                             (以上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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