あらゆるベクトルが自宅警備へと向かっている中、右翼思想が盛んになるのも道理である。なぜ社会党(現:社民党)や共産党が第一党になれないかと言えば、労働者を守ることを第一目標にしてしまい、一番大切な自宅警備員の保護政策をおろそかにしているからである。新自由主義が崩壊した現代社会に必要なのはたしかな野党ではなく、たしかな自宅警備員なのである。
それでは、たしかな自宅警備員とは何か。室町時代、守護大名には京に常駐する義務があった。一方、戦国大名には京に在中する義務などないし、一部の戦国大名を除いて京に常駐すること自体、不可能であろう。また、上洛する最中にある様々な勢力との抗争もさることながら、国許を留守にすることは大問題である。戦国大名にとっては自宅の警備こそが最重要課題であり、京に上って室町幕府に奉公するなどどうでもいいことだったのである。むしろ、彼ら(戦国大名)は室町幕府からすれば、守護職でもないのに現地を無断で支配している不法占有者である。
まだ室町幕府が機能していた頃の話だが、応仁の乱で足利義政が殺されずに済んだのはどちらの味方もせずに自宅の警備に専念していたためである。自宅警備より大切な物などこの世にはないということを悟っていた足利義政は室町幕府随一の名将軍としてたたえられるべきであろう。
(補足)
応仁の乱勃発と共に室町幕府が統治機構としての機能を完全に失ったと思っている人が多いが、応仁の乱が終わってからも少なくとも十数年は室町幕府はほぼ正常に機能していた。室町幕府が統治機構としての機能を失い始めるのは明応の政変以降の話である。なお、明応の政変とは1493年、室町幕府第10代将軍足利義材が河内国を不法に支配していた畠山基家(応仁の乱勃発の直接の原因をつくった畠山義就の後継者)征伐に出掛けている最中に、京で留守を預かっていた管領細川政元が謀反を起こし、足利義材の退位をさせて、足利義澄を室町幕府第11代将軍とした事件である。
ちなみに、この後、足利義材は1度幽閉されたが、脱出に成功し、北陸方面の守護大名の力を借りて幾度も合戦を起こし、1508年、将軍職に返り咲いている。
それでは、たしかな自宅警備員とは何か。室町時代、守護大名には京に常駐する義務があった。一方、戦国大名には京に在中する義務などないし、一部の戦国大名を除いて京に常駐すること自体、不可能であろう。また、上洛する最中にある様々な勢力との抗争もさることながら、国許を留守にすることは大問題である。戦国大名にとっては自宅の警備こそが最重要課題であり、京に上って室町幕府に奉公するなどどうでもいいことだったのである。むしろ、彼ら(戦国大名)は室町幕府からすれば、守護職でもないのに現地を無断で支配している不法占有者である。
まだ室町幕府が機能していた頃の話だが、応仁の乱で足利義政が殺されずに済んだのはどちらの味方もせずに自宅の警備に専念していたためである。自宅警備より大切な物などこの世にはないということを悟っていた足利義政は室町幕府随一の名将軍としてたたえられるべきであろう。
(補足)
応仁の乱勃発と共に室町幕府が統治機構としての機能を完全に失ったと思っている人が多いが、応仁の乱が終わってからも少なくとも十数年は室町幕府はほぼ正常に機能していた。室町幕府が統治機構としての機能を失い始めるのは明応の政変以降の話である。なお、明応の政変とは1493年、室町幕府第10代将軍足利義材が河内国を不法に支配していた畠山基家(応仁の乱勃発の直接の原因をつくった畠山義就の後継者)征伐に出掛けている最中に、京で留守を預かっていた管領細川政元が謀反を起こし、足利義材の退位をさせて、足利義澄を室町幕府第11代将軍とした事件である。
ちなみに、この後、足利義材は1度幽閉されたが、脱出に成功し、北陸方面の守護大名の力を借りて幾度も合戦を起こし、1508年、将軍職に返り咲いている。