日本史の授業などで「歎異抄(たんにしょう)」という言葉を聞いたという人も多いであろう。
この本は、親鸞(しんらん)の弟子である唯円が書いた師の語録である。
親鸞は阿弥陀仏の他力本願による往生成仏を説いていた。
これが浄土真宗(一向宗)の嚆矢(こうし)となる。
開祖である親鸞の教えによれば、阿弥陀仏を信じていなくても、
どんな極悪人であっても、阿弥陀仏が等しく極楽浄土へと導いてくれるとされていた。
しかし、室町時代後期、蓮如が親鸞の教えを忠実の伝える「歎異抄」を禁書とし、
極楽浄土へ行けるか、どうかは現世での行いによって決まるとした。
つまり、浄土真宗の教えに従わないものは地獄に落ちるということにして、
信者に一揆への参加を強制したのである。
これが織田信長との石山合戦の時まで頻発し、
時には大名さえも攻め滅ぼすことになる一向一揆の始まりである。
就職研修屋の主張も一向一揆の理論と同じである。
根拠として掲げている「メラビアンの法則」の論文からは到底導き出せない結論を
科学的にも立証されていると言い張っているのである。
(このブログを見るのが初めてという人は最終段落の「補足」を読んで欲しい。)
さらには、「コミュニケーション能力」などという造語までつくって、
それが内定獲得に不可欠だという荒唐無稽な主張を展開し、
商売を続けているのである。
彼らは、内定を獲得するためには我々(就職研修屋)の指導を受ける他ない。
就職研修屋の指導を受けない者は就職の面接試験に落ち続けると主張している。
戦国時代、織田信長と戦うため、
「極楽へ行くためには一向宗(浄土真宗)の教えに従う他ない。
一向宗に従わず、一揆に参加しない者は地獄に落ちる」と主張していた一向宗の
石山本願寺の主張と、まさに同じ論理である。
ところで、なぜ、就職研修屋は「コミュニケーション能力」などという造語を使うのであろうか。
もしも、コミュニケーション能力を職場の人とうまくやっていく能力と定義するならば、
それは「人当たりの良さ」とほとんど同じ意味である。
それにも関わらず、就職研修屋がコミュニケーション能力という表現にこだわるのは、
顧客の就職活動がうまくいかなかった場合、「コミュニケーション能力の養成が
不十分だったから」と言い、責任を顧客に転嫁できるからである。
もしも、「人当たりの良さ」という表現を使ってしまうと、
抽象的ながら、古くから存在する日本語であるため、
広いながらもある程度、範囲が限られてしまう。
そこで、コミュニケーション能力という日本語とカタカナ英語を併用した造語を使うことによって
より概念を抽象的にして、就職研修屋の責任を無に等しくしているのである。
(補足:就職研修屋の虚実)
(1)「なぜ働くか」という問いは、「ひょうたんでどじょうを捕まえる方法を答えよ」という問いとイコールである。にもかかわらず、第一印象を良くして生活費のためだと答えたり、家族の笑顔のためだと答えたりする者が後を絶たない。就職の面接本を読んでいる時間を臨済宗の入門書の読解に充てるべきである。
上記の見解に対して、メラビアンの法則によれば、見掛け(外見)の情報のみで全印象の93パーセントが形成されるという反論があるかも知れない。
しかし、メラビアン博士(この人は就職業界では有名人だというのに、心理学界ではあまり有名ではない)の行った実験は「Maybe(たぶん)」という英単語1つだけを様々な表情・しぐさ(写真のみ)・声質(録音した音声のみ)で相手に伝えた時の相手に与えた印象の結果などについて調べただけにすぎない。
しかも、心理学について書かれた分厚い辞典を調べてもメラビアンの法則という項目は存在しない。心理学の世界ではその程度の扱いの法則が就職業界を牛耳っているのである。
(2)経営コンサルタント・就職研修屋に仕事を頼む前に読んでおくべき書籍。
『非言語コミュニケーション』(聖文社、A・マレービアン、西田司他訳)を読んでもらいたい。
この本は絶版になっているので、図書館などで読んで欲しい。
また、上の和訳の本が入手できない場合、
『反社会学講座』(筑摩書房、パオロ・マッツァリーノ、2007年)の
139ページ以降を読んでもらいたい。
この本は、稲葉振一郎明治学院大学教授が『社会学入門』(日本放送出版協会、2009年)の
巻末付録の読書案内でも紹介している。
この本は、親鸞(しんらん)の弟子である唯円が書いた師の語録である。
親鸞は阿弥陀仏の他力本願による往生成仏を説いていた。
これが浄土真宗(一向宗)の嚆矢(こうし)となる。
開祖である親鸞の教えによれば、阿弥陀仏を信じていなくても、
どんな極悪人であっても、阿弥陀仏が等しく極楽浄土へと導いてくれるとされていた。
しかし、室町時代後期、蓮如が親鸞の教えを忠実の伝える「歎異抄」を禁書とし、
極楽浄土へ行けるか、どうかは現世での行いによって決まるとした。
つまり、浄土真宗の教えに従わないものは地獄に落ちるということにして、
信者に一揆への参加を強制したのである。
これが織田信長との石山合戦の時まで頻発し、
時には大名さえも攻め滅ぼすことになる一向一揆の始まりである。
就職研修屋の主張も一向一揆の理論と同じである。
根拠として掲げている「メラビアンの法則」の論文からは到底導き出せない結論を
科学的にも立証されていると言い張っているのである。
(このブログを見るのが初めてという人は最終段落の「補足」を読んで欲しい。)
さらには、「コミュニケーション能力」などという造語までつくって、
それが内定獲得に不可欠だという荒唐無稽な主張を展開し、
商売を続けているのである。
彼らは、内定を獲得するためには我々(就職研修屋)の指導を受ける他ない。
就職研修屋の指導を受けない者は就職の面接試験に落ち続けると主張している。
戦国時代、織田信長と戦うため、
「極楽へ行くためには一向宗(浄土真宗)の教えに従う他ない。
一向宗に従わず、一揆に参加しない者は地獄に落ちる」と主張していた一向宗の
石山本願寺の主張と、まさに同じ論理である。
ところで、なぜ、就職研修屋は「コミュニケーション能力」などという造語を使うのであろうか。
もしも、コミュニケーション能力を職場の人とうまくやっていく能力と定義するならば、
それは「人当たりの良さ」とほとんど同じ意味である。
それにも関わらず、就職研修屋がコミュニケーション能力という表現にこだわるのは、
顧客の就職活動がうまくいかなかった場合、「コミュニケーション能力の養成が
不十分だったから」と言い、責任を顧客に転嫁できるからである。
もしも、「人当たりの良さ」という表現を使ってしまうと、
抽象的ながら、古くから存在する日本語であるため、
広いながらもある程度、範囲が限られてしまう。
そこで、コミュニケーション能力という日本語とカタカナ英語を併用した造語を使うことによって
より概念を抽象的にして、就職研修屋の責任を無に等しくしているのである。
(補足:就職研修屋の虚実)
(1)「なぜ働くか」という問いは、「ひょうたんでどじょうを捕まえる方法を答えよ」という問いとイコールである。にもかかわらず、第一印象を良くして生活費のためだと答えたり、家族の笑顔のためだと答えたりする者が後を絶たない。就職の面接本を読んでいる時間を臨済宗の入門書の読解に充てるべきである。
上記の見解に対して、メラビアンの法則によれば、見掛け(外見)の情報のみで全印象の93パーセントが形成されるという反論があるかも知れない。
しかし、メラビアン博士(この人は就職業界では有名人だというのに、心理学界ではあまり有名ではない)の行った実験は「Maybe(たぶん)」という英単語1つだけを様々な表情・しぐさ(写真のみ)・声質(録音した音声のみ)で相手に伝えた時の相手に与えた印象の結果などについて調べただけにすぎない。
しかも、心理学について書かれた分厚い辞典を調べてもメラビアンの法則という項目は存在しない。心理学の世界ではその程度の扱いの法則が就職業界を牛耳っているのである。
(2)経営コンサルタント・就職研修屋に仕事を頼む前に読んでおくべき書籍。
『非言語コミュニケーション』(聖文社、A・マレービアン、西田司他訳)を読んでもらいたい。
この本は絶版になっているので、図書館などで読んで欲しい。
また、上の和訳の本が入手できない場合、
『反社会学講座』(筑摩書房、パオロ・マッツァリーノ、2007年)の
139ページ以降を読んでもらいたい。
この本は、稲葉振一郎明治学院大学教授が『社会学入門』(日本放送出版協会、2009年)の
巻末付録の読書案内でも紹介している。