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末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

人間と元人間の対話。「風流怪談ー露と答えて〜鬼の業平仏の双六〜」

2016-07-20 15:15:19 | 日々の出来事

                  
昨年10月16〜18日に我が寺の本堂で上演された「風流怪談………」が盛岡市民演劇賞の大賞を受賞したみたいである。「架空の劇団」の代表で演出もし脚本も書く、くらもちひろゆきとは「寺の焦燥」の初演以来の付き合いでもある。二十年弱か?
この「風流怪談………」の脚本を書いた高橋拓とは、「架空の劇団」の本堂での初上演以来の付き合いである。
今回の芝居「風流怪談ー露と答えて〜鬼の業平仏の双六〜」は単なる業平にまつわる、歴史上の人物だけの物語だけではなく、そこに現代の若者の死者に対する想いを絡ませて物語が進んで行く。それに、仏、地蔵、鬼、双六ゲームが絡み、物語の幅が増してくる。色々な登場人物が出てきてややっこしそうであるが、基本は単純で死者(=元人間)と生者(=人間)の対話である。仏、鬼、地蔵も人間臭い(いい意味で…)?つまり人間の痕跡が残されている。この辺は,演出と脚本の上手さなのか?それと本堂を劇的空間としたことが功を奏しているのでは?手前味噌ながらそう思う。
もともと仏、地蔵、鬼は元人間でもある。



また、今年の10月にはお寺三部作が上演予定であるみたい。その一部の「寺のショウソウ」の坊さん役で拓さんが出演するみたいで、そちらも楽しみでもある。
はてさて,いかなる坊さんになるのあ?
             


大菩薩マーケット

2016-06-21 14:12:26 | 日々の出来事

    

今月初めの土日4〜5日に二回目の「大菩薩マーケット」が開催された。今回は地方紙にも掲載され多くの人が訪れてくれた。
お寺の本堂での企画に相応しいかどうかは………色々ご意見もあろうが?
いずれ、超ミニな市場的雰囲気(チョピリ猥雑で、多少な混雑)で、適当でいい加減な我が寺のご本尊も微笑されていた………?
            

以下マーケット模様のスライドショウです。

 


「世自在」・適当で,いい加減

2016-04-04 14:57:44 | 日々の出来事

          

寺の寺報の名前が畏れながら「世自在」である。寺報と云っても、寺の行事のお知らせ程度のものである。

世自在とは、経典(無量寿経)に登場する仏で世自在王仏=世饒王仏から、とったもので中々気に入っている言葉でもある。
ちなみに、世自在(セジザイ)「ヨニオノズカラアル」である。勝手な解釈では、世に自由自在に在る仏とでも云うのか、それが世自在王仏でもある。経典では、その世自在王仏に法蔵比丘が出逢い、仏に成りたいと願いを起こし、長い間修行をし仏になり、その願いも成就した、という筋立ての物語である。

世に自由自在に在る仏とは、どの様な仏か? わかったようでわからん話でもある。それは,お前の解釈が悪いとなる。確かに! ただその様な仏が世に存在するとすれば素敵な話でもある。

勝手な解釈をもう少し続ける。
世に自由自在に在る仏とは、適当でいい加減な仏でもある。その様な仏は、ある意味信仰の対象にはならない、なりにくい。困ったことに。意識の先にある仏でもあり、言外の仏でもある。それを世界論では、あの世とこの世との違いか。無意識とは、何も無いということではなく、意識に上ってこない世界も在る、と云うことでもあるのか。
ヒョットしてその無意識の世界は、適当でいい加減な世界なのかもしれない。 


東日本大震災から5年が過ぎた……!

2016-03-18 15:17:40 | 日々の出来事

 2011・3・11に起った東日本大震災から、5年が過ぎた。と、メディアが大騒ぎであった。それに付け恥ずかしながら、自分も気持ち的には落ち着きがなかった。それは自分の本音が何処にあるのか妙な気分でもある。その気分とは、地震・津波・原発事故を、一連の出来事として関連ずけることが出来ないのである。原発事故の当初、その事故は人災か自然災害かと云う議論があったが、5年を過ぎた今その様な議論は復興事業の裏に引っ込んでしまった。確かに、復興事業も必要だとも想う。

  自然VS社会。自然とは、どのような状況であれ受け入れざるを得ない。過酷な状況であれ、そうでない状況であれ受け入れざるを得ないのが自然環境である。そしてそれは耐えなければならないことでもある。娑婆とは、サンスクリット語ではサーシャである。で、その意味は堪忍土である。つまり、娑婆=堪忍土である。ただそれは,自然環境的様相においてである。ある意味それは何時何処で何が起るか解らない。と、いうことでもある。
社会の中での生活は、色々な事柄は分析やその解釈によって想像はつくと想われている。文字通りの想定である。今回の大震災は、すべてが想定外でもあった。元々、安全神話等ないのである。この事故の当初の東電のいい訳は、想定外の地震・津波であったから…事故になった、であった。自然環境的様相からは安全はないに等しい、なぜならそれは社会的想定は不可能であるからである。もし仮にそれを願うとしたら無事を願うしかない。

 確かに、単に無事を願っていればよい、というわけではない。

 社会的枠組とは、ある意味多くの人の想定でもあり、思い込みでもある。それが、形になり組織にもなる。無事で安全な社会を願うのであれば、その無事で安全であることへのリスクが巨大である原発や戦争に関する物事は、社会的枠組みには無い方が良いに決まっている。

 ただ、人間の社会的環境と自然環境的様相とは、一体でもある。それは、人間社会にとって、ある意味矛盾を含んでいる。それこそ震災後、復興と云う言葉が飛び交っている。インフラ整備のための嵩上げ工事、巨大津波を防ぐための高さウン重メートルという防潮堤、それで本当に巨大地震・津波を防ぐことが出来るのか?いささか疑問でもあるのだが……。いち早く高台に逃げれば良いとも思うのだが。その様な復興はあまりにも自然をなめ過ぎてはいないか、少なくとも昔は,天罰が下ると畏敬の念で見られていた自然環境的様相であるのに………。

 ご無事で……使わなくなったな!

 

 


2015・12・23「本堂のメリークリスマス」

2016-03-06 17:29:17 | 日々の出来事

昨年の暮れ例によって本堂でクリスマスコンサートが行われた。今回は関口直仁(テノール)のソロコンサートであった。
いつもと違うところは、本堂にピアノが入ったことである。
 
 そのピアノ「お寺さんでよくコンサートしてるみたいだから……」と檀家さんより寄付して頂いたものである。ちょっと小振りではあるが立派なグランドピアノである。
 感謝!感謝!

 ピアノの効果か?関口直仁、今回はちょっぴりうまく聞こえた。否、ピアノだけの問題ではなく、この男確実に上手くなっている。と、聞こえた。ひいき目か?

 

 

 

コンサート終了後、寺の近所のホームの、おばあちゃんおじちゃんとの記念撮影!
      

 

また、例によって牧師と小坊主のトークショウ! 宗教と平和を熱く語りあった。

    トークショウを含むコンサートの映像はもう少し後で……!