末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

正義のミカタ…………!   正義なきを正義としんちすべし。

2017-03-27 13:45:03 | 日々の出来事

                              

           正義のミカタ?もっと適当で!いい加減で!

人って、ある意味想い込みを、生きているのかもしれない。
自分の思い込みは正しい。それが正義であると……
自分の信じている道を邁進しなさい。と、よく云われる。それは正義の道を歩みなさい、と、云うことでもあるのか……? 私も若い頃は、自分の思い込みを信じて、その道に邁進していた。それが正義である。と、想い込んでいる時期もあった。
 
 ところが、人は決して一人では生きていない。それは自分の正義だけでは生きて行けない。と、云うことでもある。そこで、多数決になる。つまり、その正義の共通理解の数の多い方が社会正義としてまかり通ることになる。そして、少数者の正義は反正義として相対化され少数意見か、もしくは悪義として処理される。最悪、少数者の正義は多数派の正義によって追放される。もし仮にそれが個人対個人の正義の問題となれば、暴力沙汰にもなる。誰も自分は正義の味方であると想っているし、其れこそ、自分の思い込みは正しいと想っている。

 中々自分の思い込みを破ることが出来ない、それが人間の傾向なのか。

 親鸞の「末燈抄」自然法爾(じねんほうに)の語りに「・・・他力には義なきを義とすとしるべしとなり。・・・」とある。これは、他力とは思議することは不可である、と云う意味でもあるのだが・・・・・。少なくともあまり自分の義(思い込み、正義)に固執するな、と云うことでもあるのか?

 義なきを義とすとは?自然(じねん) ーおのずからしからしむーとは ?

 ある意味、義とは人間存在とイコールなのかもしれない。つまり義が在ってこそ人間でもある。認知症の人は自然(じねん)なのかもしれない?
 とわいえ、義なきを義とす、自然法爾(じねんほうに)とは、人間存在もしくは人間以前なのかもしれない。人間が義を所有すると同時に自然(じねん)は、対象化され自然(しぜん)になり ーみずからしからしむー になる。
 
 自然法爾(じねんほうに)とは、与える力与える働きでもある。人間以前的ー存在ーそのものでもある。が、人間からは非対象でもあり、不在的現前でもある。

 いきているとは「生きてー居る」であり「生きてー在る」と云うことでもある。人間が生きて存在し続けるとは、自然法爾の与える働きを被ってー居るーもしくはー在るーと、感受することでもあるのか。我の「生きてーあるーこと」とは、その与える働きを被って在ることでもある。むろん我は、その与える働きを自覚的に生きているわけではないが、しかし必ず身体的にその原事実を感受しているし、身体に宿しているのでは・・・・・・。

 我が生きてあることは、存在がー与えられてーある、ことである。我は与えられてあると感受しつつーある。我が、現世の中に投げ出されたように存在するか、もしくは阿闍世のように産み落とされることは、様々で色々な物事の中に投げ出されることでもある。
それは良きにつけ悪しきにつけ、他人や物事を情感的に感じるのみではなく、それらと我を含めて全て与える働きであると密かに(無意識のままに)我は感受している。
 ただ問題もある。そのような自然法爾=与える働きは、人間的認識論では論証が不可能でもある。
 その与える働きは、眼に見えず、言葉を持って対象的に言い表すこともできない。
が、にもかかわらず我はその働きを投げ出された存在の中で、またそれを通して感受している。(阿闍世の月愛三昧はこれに近いのでは・・・・・・・)
 存在感情は、存在するものを通して(それに媒介されて)所与存在としての我を感ずるのであるから、与える働きを直接無媒介に感ずるのではない。しかし、存在感情は媒介を受けながらも対象化行為にならず、与える働きを対象化を経ないで感ずることができる。それを、あえて言えば「清浄な感受」である。

 無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然(じねん)とはもうすなり。

 自然とは、義も無く、形も無い。これでは取っ掛かる余地が全くない……のか?自然の与える働きは、義も無く形も無いと同義であるとすれば、これまた取っ掛かる余地がない。与える働きは、言表できないもの、語りえないものであるとすれば、さてどうする。

 ところで、人は常に出会っている。他人や物事、それらを含む環境世界とである。
そのような出会いの中で、人はこの世界を与える働き、あるいは世界の与えられてあることに出会っている。そしてその与える働きの感受が出会いの場でもある。
 与える働きは、言語によって対象化的に表現できないにもかかわらず、やはり出会われている。言い表すことができない何ものかと情感的に出会い、この何ものかを感じることは、人間が現世内に暮らす時の根源的なあり方なのかもしれない。その全体を「清浄な感受」とも言う。

 ところで、存在感情とは気分的意味ではない。つまり、情感、情緒と気分は微妙に違うのでは………。感覚的で微妙な細い話ではあるのだが………。
 確かに、気分もまた情緒ではある。このような情緒=気分は、他人を含め我を取り囲む物事と関わるときの変動である。落ち込む、舞い上がる、退屈する、等々の情緒のあり方は、どちらかと云えば気分の変動である。無論そこに義(思い込み)も絡んでくるので余計厄介なことにもなる。それが、我の周囲世界で出会う人や物事との関わりについての義(思い込み)のあり方でもある。

 ところが存在感情は、気分のような世界との関わりにおける情感ではなく、世界の存在を与える働きの感情である。気分はたとえ漠然としたものであれ、対象的な仕方で事物世界に関係するのに対して、存在感情は対象的な関わりとは別個のレベルの関わり方である。よく人は関わりの存在である、と云われる。であるならば、対象化できる関わりのみならず、非対象的な関わりがあっても不思議ではない。

 自然法爾とは、非対象的であり語り得ないことでもある。が、他力とは義なきを義とすとしるべきなり。と語り得ないことを語っている。それは「不可称、不可説、不可思議」としか語ることができない非対象的な関係もあり得ることなのか、そしてそれは親鸞の存在感情でもあり、世界の与える働きの感受でもあり、出会いの場の本質でもあるのか。

 だから、自然法爾とは、義=思い込み(邪見でもなく、自大でもなく、邪定でもなく、不定でもなく)ではなく、適当でいい加減な感受=存在感情なのかもしれない。



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