末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

他者の記憶と場所

2014-09-17 10:25:12 | 日々の想い
 若い夫婦が子供と接しているのを見て、ついイライラしてこうした方が良いんじゃない。と、云ってしまう。私達が若い頃には、やはり、自分たちの両親もそのような感情を抱いていたのか?そう云えば、子育てのプロセスで子供の年に応じて、この頃自分はこうだったああだった、と思い出したものだ。これまた、親父おふくろも同じだったのか?むろん、時代も違うし、社会状況も違うのだが家族、子供に対する想いは共通するのか、例えば孫はかわいいとか・・・・・?
 他者が記憶として身体に刻まれるというようなこともあるのか?人間が生まれ養育し、養育されるプロセスで身体的に刻まれる記憶、それは認識する、ハウツーものとかレシピものとは多少違う、その場の空気とか匂いとか、それぞれの体調の違いとかによっれても違うのかもしれない。が、いずれ他者と場を共有しているということで、その場を共有した他者それぞれが、それぞれに身体的痕跡として刻まれ、記憶の奥底で深い眠りについている。そのような記憶のようなものを、目覚めさせるのが妥当かどうか分からないが、そのようなものは、どこか懐かしそうな、何かを教えてくれそうな他者でもあるような気もする。そのように、生者の記憶の奥底に刻まれた他者の身体的痕跡は、死者なのかもしれない。私の死後はあなたに託すしかない。それはお互い様である。今後ともよろしく!とはよく云ったものである。

無限洞 経読み隊

2014-09-16 11:26:56 | 日々の出来事
「帰宅困難地域」と称されている場でお経を読みたい!そこで無限洞の仲間と出かけた。
経を読みに・・・・・!
その時の映像である。



             表白擬き

 今、この除かれた場、真宗大谷派西願寺に於いて法要を勤修するにあたり、一言申す。
 この除かれた場は、昔から色々な交流があった。例えば、死者と生者の交流、生者と自然の交流等々である。が、しかしこの場は、あまりにも生命力のない無機質な場になってしまった。
 元々この様な無機質で空白な場は無かったのであろうか?
 否である。卑近な例で云えば、戦後社会の出発点となった場である。東京の焼け跡、そして特筆すべきは広島・長崎という場である。東京の焼け跡、広島・長崎という場の空白は埋まったのであろうか?人間的な努力によって埋まったようには想われている。もし仮に埋められていたとすれば、今このような除かれた場が生み出されていたのだろうか?
 確かに人間は戦後社会に限らずそのよう場の空白を、人間的な努力によって埋めてきたのかもしれない。が、しかしそのような人間的努力には裏がある様な気がしてならない。決して人間的な努力は無駄であり、よろしくない、と云っているのではないのだが?人間的努力は常に前向きであり、未来志向でもある。そしてそれは常に結果を要求される。当然それは過去を振り返らない。振り返ったとしてもそれは記念日的要素が強くなり、本当に振り返ったことにはならない。
 では、過去を振り返り、場の空白を埋める人間的努力の基(因)は何処にあるのか?文字通りこの場が基(立脚地)になる。東京の焼け跡・広島・長崎の場、そして今のこの場である。
 なぜこの様な死に絶えた除かれた場が生み出されたのか?それを観察するに、それの原因は元々社会にある。元々、人間的努力によって作られてきたこの戦後社会である。あまりにも生命力のない無機質な近・現代社会がである。そのような社会は人間的努力の及ばない場は、色々な理由をつけ切って捨てるしかない。それが人間的努力の社会的限界でもある。そのような社会・場で観察し人間的努力をする。
 
 今回の原発事故は起るべくして起った。それはハッキリと懺悔しなければならない。それは、正法を誹謗する者としての懺悔でもある。その自覚、懺悔を基に人間的努力をすべきであるし、改めて「共に浄土に往生を願う」である。むろん、それには除染が必要であるし、場の観察も必要である。それが人間的努力の必要最小限でもある。