末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

東日本大震災から5年が過ぎた……!

2016-03-18 15:17:40 | 日々の出来事

 2011・3・11に起った東日本大震災から、5年が過ぎた。と、メディアが大騒ぎであった。それに付け恥ずかしながら、自分も気持ち的には落ち着きがなかった。それは自分の本音が何処にあるのか妙な気分でもある。その気分とは、地震・津波・原発事故を、一連の出来事として関連ずけることが出来ないのである。原発事故の当初、その事故は人災か自然災害かと云う議論があったが、5年を過ぎた今その様な議論は復興事業の裏に引っ込んでしまった。確かに、復興事業も必要だとも想う。

  自然VS社会。自然とは、どのような状況であれ受け入れざるを得ない。過酷な状況であれ、そうでない状況であれ受け入れざるを得ないのが自然環境である。そしてそれは耐えなければならないことでもある。娑婆とは、サンスクリット語ではサーシャである。で、その意味は堪忍土である。つまり、娑婆=堪忍土である。ただそれは,自然環境的様相においてである。ある意味それは何時何処で何が起るか解らない。と、いうことでもある。
社会の中での生活は、色々な事柄は分析やその解釈によって想像はつくと想われている。文字通りの想定である。今回の大震災は、すべてが想定外でもあった。元々、安全神話等ないのである。この事故の当初の東電のいい訳は、想定外の地震・津波であったから…事故になった、であった。自然環境的様相からは安全はないに等しい、なぜならそれは社会的想定は不可能であるからである。もし仮にそれを願うとしたら無事を願うしかない。

 確かに、単に無事を願っていればよい、というわけではない。

 社会的枠組とは、ある意味多くの人の想定でもあり、思い込みでもある。それが、形になり組織にもなる。無事で安全な社会を願うのであれば、その無事で安全であることへのリスクが巨大である原発や戦争に関する物事は、社会的枠組みには無い方が良いに決まっている。

 ただ、人間の社会的環境と自然環境的様相とは、一体でもある。それは、人間社会にとって、ある意味矛盾を含んでいる。それこそ震災後、復興と云う言葉が飛び交っている。インフラ整備のための嵩上げ工事、巨大津波を防ぐための高さウン重メートルという防潮堤、それで本当に巨大地震・津波を防ぐことが出来るのか?いささか疑問でもあるのだが……。いち早く高台に逃げれば良いとも思うのだが。その様な復興はあまりにも自然をなめ過ぎてはいないか、少なくとも昔は,天罰が下ると畏敬の念で見られていた自然環境的様相であるのに………。

 ご無事で……使わなくなったな!

 

 


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