この(第1回)座談会を行ったのは1986年11月23日ですが、《中略》当時は、山口篤さん(現・幸福の科学事務局総務部部長代理)ともう1人、月5万円のアルバイトを2人置いていただけでした。山口さんには、こちらの勤めのあとに、焼き鳥屋でアルバイトをしてもらっていたぐらいですが、要するに、10万円しか経費がかかっていないわけです。ほかには、私自身にも給料は払っていない状態で、家賃もタダでした。給料としては2人のアルバイト料の10万円で、あとは事務費だけだったのです。 それを考えると、絶対に〝潰れない〟体制で始めたことは事実でしょう。《中略》
私は、月10万円しかかからないレベルから始めました。そして、一年後に気がついてみれば、幸福の科学には、5、6千万円の貯金が貯まっていたのです。 また、ちょうどそのころに、当会は事務局長を入れました。実は、その人が初めて〝蓋を開け〟て、「貯金だけが貯まっていますが、これは総裁(当時は主宰)にも〝給料〟を払ったほうがいいのではないですか」と言ったわけです。そこで、私は、「ああ、そうかなあ。では、少しは払ったほうがいいかな」と答えました。事務局長は、自分が月に20万円ぐらいもらうつもりで来ていたところ、35万円ももらったので、「事務局長が35万円ももらっているのに、総裁には1円も給料が払えていない。これは、おかしいのではないですか」というように言ったのです。それで、私も、やっと給料を頂けることになりました。 このように、事業が潰れないために、ものすごく慎重にやったことがあります。
1991年の経営危機で体験した「事業の怖さ」
私が〝緩め〟て、大企業から来た人たちにいろいろなところを任せると、経費の使い方が普通ではありませんでした。実際、1991年には、夏ごろに一度、経営危機が来ていますが、銀行から来た人に、「先生、このままで行けば、毎月20億円のショート(不足)が出ますよ」と言われて、「えっ!? いつの間に、そんなことになったんだ」という感じだったのです。 要するに、新しい事務所を契約して借りたり、人を雇ったりと自由にやられていたので、いつの間にか、そのようになってしまっていたのでしょう。
実は、私が目を離したのは、1991年の4月、5月、6月の3カ月ぐらいでした。というのも、7月に開催予定の東京ドームでの初の大講演会を前に、とても緊張していたこともあり、その3カ月間は、それ以外に考えられなかったのです。それで、体を鍛えたり、勉強をしたり、いろいろとやっていたため、経営のほうを見れませんでした。
その結果、3カ月の間に、たくさんの職員を採用され、事務所を契約されて、あっという間に250もの支部を開かれてしまったのです。さらには、地方本部も開かれており、月に150万円もするような事務所をたくさん借りられたために、ものすごい経費になっていました。 結局、「これは、もう8月でショートします」と言われる事態になり、慌てて会員から借入金を入れて、何とか乗り切ったのです。
その後、1年と少しかかったものの、黒字経営に転換していったのですが、そうした〝恐怖体験〟が最初にあるので、「やはり、事業というのは怖いものだな」とは思います。
ともかく、事業経営となると、「慎重さ」や「緻密さ」、「バランス感覚」が非常に大事になってきます。そして、このへんが欠けると、その欠けている部分で〝穴〟が開いたところを悪魔に攻められることがあるのです。
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