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筒井康隆・新著『老人の美学』妻の愛し方

2019-12-30 11:17:54 | 講演・説法・質疑応答・発表会・言論大会


「美しい老後は伴侶との融和にあり」筒井康隆・新著『老人の美学』

一般人にはまねできない? 作家・筒井康隆の「妻の愛し方」
デイリー新潮編集部  2019年11月23日 掲載

《前略》
「美しい老後は伴侶との融和にあり」 
 作家の筒井康隆さんもまた、結婚生活の重要性を説く一人だ。新著『老人の美学』の中で筒井さんは、老人は孤独に耐えねばならない、と戒めている。むやみに昔の職場を訪ねたり、知人に会いに行ったりせず、一人でできることを見つけないといけない、と。これは85歳となった筒井さんの体験と実感からの結論である。

 一方でそうした孤独に耐えるにあたっては伴侶の存在が大きいと筒井さんは綴っている(以下、引用はすべて『老人の美学』より)

 仕事の関係で神戸と東京を往復する生活を送っている筒井さんには、常に奥様が同行しているという。一人で移動することはなく、常に一緒。
 ある時、よく立ち寄る日本料理店のチーフ・ウエイターが不思議そうな顔で、筒井夫妻に訊ねた。
「筒井さんご夫婦は、どうしてそんなに仲がいいんですか。わたしども夫婦は顔をあわせれば口喧嘩だし、まして一緒に外出したことなんか、一度もありません」
 この人の知る限り、こんなにいつも一緒という夫婦は見たことがないので、仲良くする秘訣を教えてくれ、と言ってきた。
 しかし筒井さんは、そんなことを特に考えたこともないので、困った挙句、愛妻家として有名なリチャード・ギアの言葉を紹介したという。
「妻の愚痴につきあいなさい。とことん聞いてやりなさい。その時に、こうしたらいいとか、自分ならどうするとかいった、自分の意見は絶対に言わないように。妻はそんなものを求めているのではなく、聞き手を求めているのだ。黙って、我慢して、最後まで聞くことだ」

 筒井さんは、夫婦関係の大切さをこう語る。
「夫婦関係がうまくいっていないと、歳をとってからがたいへんだ。昔、人前も構わず一緒に歩いているご亭主をのべつ怒鳴り飛ばしたり、厭味を言ったり、がみがみと小言ばかり言い続けている老女を何度か、何人か見かけたから、昔はああいう婆さんが多かったのだろう。今でも家庭内でああいう振る舞いをしている人はいるのだろうか。昔のことだからよくわからないのだが、あれはいったい何だったのか。
 われわれ夫婦だって、たまには口喧嘩をするが、心の底が信頼で結ばれているから、本気で腹を立てることはない。チーフ・ウエイター氏には言わなかったが、本当は愛しあっていればすべて巧(うま)くいくのである。老後になって夫婦関係が無惨な状態になる多くは、どちらかの裏切りであったろうと思う。これだけは夫婦共に、許しがたいものがあって、死ぬまで絶対に、忘れるということがない。小生が見た昔の老夫婦の仲の悪さはきっと、若い時や羽振りがよかった時の夫の浮気など当たり前で、妾宅を持つ人が多かった時代だったからではないか」
 こうした考えをもとに、知人の令嬢の結婚式ではこんなスピーチをしたこともあるという。
「夫婦はまず、添い遂げるということが大事です。死ぬまで一緒、ということです。そのためには相手を愛さなければなりません。徹底的に愛するということです。例えば、いつもすぐ横で寝ていながらも、すぐ横にいるその人の夢を毎晩見る、というようでなければならない」

 このスピーチには会場全体から「ええー」「おおー」といった声があがったが、筒井さんは本気でそう思っているそうだ。
 それはよほど相性がいいのだろう、そんな相手とはめったに出会えないよー…そんな声も聞こえてきそうだが、筒井さんは奥様と「性格も、生理も、知識も、何もかも」正反対で、だからこそうまくいいっているのだろう、という。
「異星人と結婚したようなもので、退屈しないし、何を言われても露骨には聞こえないため、相手がどう思っているかがわかって腹を立てる、といった、よくある夫婦間の諍いの原因にもならない。今でこそお互いの言葉をよく理解できるようになったが、最初のうちは何だかよくわからなかった。不思議なことに、だからこそ可愛くてしかたなかったものである。(略)
 性格正反対の事例としては、高価な食器を落として壊した時、小生なら自分の頬を張り飛ばして『いい歳をして何だ。莫迦(ばか)』と言ったりするのだが、妻は決して自分の非を認めない。必ず『こんなこと初めて』と言う。前にもやっただろうなどと言うと大変なことになるので言わないが。
 こうして夫婦は歳をとっていき、互いのことがよくわかってくるにつれ、互いの違いもよくわかってくる。つまり、理解しあうということがどれほど大切かということがつくづくよくわかってくるのである。ここまでくれば大丈夫。たまに大喧嘩をしたってどうということはなく、また仲良くしていられる。これこそが謂(い)わば老夫婦の美学、というものであろう」
 リクツはわかるけど、目の前の相手を見るとなかなか難しいなあ、という向きは、筒井さんがこの章につけたタイトルを格言として肝に銘じておくといいかもしれない。
「美しい老後は伴侶との融和にあり」
~~~~~~~~~~~~~~~~
筒井康隆氏「若くもないのに若さを誇示してもはじまらない」
老人の美学を説く筒井康隆氏(共同通信社)2019.01.05 SAPIO

 勘違いしてはいけない。薄汚い老人になるのがいやなら若作りしろなどと言っているのではない。老人になるということは若さによる美しさから遠ざかることなので、それぞれが老人独特の美しさを見出さなければならないと言っているのである。
 どうせわしは老いぼれだ、薄汚いがゆえに人から嫌われても構わないのだと思っているのならそれでもよかろう。しかし人からは嫌われるより好かれた方がいいのである。老醜をさらけ出して平気という開き直りは損でしかない。
 ちょい悪老人というのは案外好かれるし特に若作りしなくてもわりあいいい男が多いので、この辺を志向するならさほど無理しないですむからお薦めだろう。おれの場合は演技の勉強をしてきたので、いろんなタイプの老け方を心得ているからずいぶん得をしている。
 老醜は何よりも精神から発する。ずいぶん以前のことだが、二枚目意識と道徳について考察したことがある。自らを二枚目に擬していればあまり変なことはできない。逮捕された二枚目の不恰好さを想像するがよろしい。同じことが老人にも言える。自分のことを恰好のいい二枚目老人だと思っていれば、たとえ見かけはどうであろうと美しい若者と同等の美しい老人でいられるのである。
 何よりも背筋が伸びているのがよろしい。とぼとぼ歩きもしなくなるしできなくなる。これは若わかしさの誇示ではない。若くもないのに若さを誇示したってはじまらない。老人の美しさというのは老年に対処する精神に由来する美しさだ。
 それでも人生百年時代。無理矢理百歳まで生かされてしまっては、もはや僅かな美さえ保つことは難しいではないかと言う人もいよう。なるほど確かにそうである。骨が弱り筋肉が落ち、からだが自由に動かなくなり骸骨のような顔貌になっては美もへったくれもないとお思いになるかもしれない。
欲望が失われてしまっていたら悪事を企む気も失せてしまうから、ちょい悪老人を志すのは無理だろう。だからと言って品行方正な老人になっては、実はちょい悪老人以上に煙たがられる可能性がある。
 実はここからが老人の美学が発揮されるべきなのだ。以前にも書いたが老人の美学とは実は孤独に耐えることなのである。若い連中に張りあおうとすればどうしても他者の中へ行かねばならない。
 出て行くと余計なことを言いたくなる。誰かの言うことすることについていやそれは違うと自分の意見を主張したくなる。ここから老害というものが始まるのである。しゃしゃり出たくなる欲望を抑え、用もないのにうろちょろせず、じっと我慢して孤独に耐えるのが老人の美学なのだ。
 老人同士の集まりというものがある。しかしあれに加わるのも考えものだ。自我の強い老人が必ずいて、ひどい目に遭う。女性同士は仲良くやっているように見えるが、あれはあれで何やかやと陰湿な反目があるのではないか。やはり単独で孤高の道を選び、と言ってもそんな生き方を威張るのではなく、なんとなく存在しているのが一番だと思う。
 そこから先のことになると、自分が体験していない世界に入っていくことになり、ここで論じることはできない。
認知症になってしまえば老人の美学を維持するのは難しいだろう。しかし脳の衰えを自覚してないうちから二枚目老人としての肉体的訓練を重ねていれば、いざ認知症になったとしても身体や精神の一部がそれを記憶していて以前の言動を維持し、老醜を避けてくれるであろうと思うのだ。少なくとも演技者としての小生には、それは可能であるという気がする。
 とか何とか言って、いざ百歳を超え、いよいよ惚けはじめた暁には、これ以上ない老醜をさらして世の笑い者になるかもしれないのだが、勿論こちらには何もわからないのだから、その時は知ったことではない。
●文/筒井康隆(作家)

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