きさらさら日記

日々のいろいろ雑記帳 by:kisarasara

生のあらはれ

2010年10月12日 11時59分44秒 | 徒然
週末真鶴に行った。
すっきり晴れ渡った海と、うっそうとした豊かな森。
ふたつのギャップがどきっとする好きな場所だ。

初めて行ったのは記憶もおぼろげな5歳のころ。
そのあと5年ほど前に再訪したときは
子どもの頃の記憶の断片があちこちで出て来て不思議だった。

真鶴には画家の中川一政さんの美術館がある。
5歳の時も、5年前も、今回も、そこに行った。

中川一政さんの画は、
花であっても、風景であっても、
「美しいもの」を「美しく写し描く」のではなく
「生のあるもの」の「息づかいを描く」という感じがする。
マットや額にも模様を自分で描いちゃったりする、
かしこまっていない楽しさも好きだ。

今回は花の画の展示が多かったけれど
咲ききってだらしなくなっているチューリップの画にどきっとした。
咲ききったチューリップを見るたび、
美しくすましていた花の変わりようが
生々しくてぎょっとする。
あの生々しさは何だろう、と思ったことがあった。
そういえば真鶴の森も、独特の生々しさが漂っている感じがする。
それに惹かれてここに住んだのかもしれないな、と思った。

中川さんの画は年を重ねるにつれ、どんどん自由になってゆく。
90代の画などは見ていてうきうきしてくる。
こんなにも自由になれるなんて、すごい。
身体は動かなくなってゆくけれど、
心はどんどん解放されてゆくのかもしれない。
そんな境地にはとても届かないけれど。

美術館の渡り廊下に、写真とともに彼の言葉があった。
やられてしまったので書き記しておく。

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私は戸外へ出て立って仕事をする。
腰かけていては部分は分かるが大局がわからない。
画架へ近づいたり遠ざかったりして描く。
或る日、私はこういうことに気づいた。
私だって身体の調子のわるい時がある。調子のよい時がある。
調子のよい時の私は丹田に力が入ってきている。
そこで私は考えた。
昔の人は臍下丹田と云った。
調子のわるい時は丹田に力がないのだ。
画を描いていて疲れるだろうと云うが、調子のよい時には疲れない。調子のわるい時が疲れるのだ。
私は意識的に丹田を考えたことはない。意識しないのに丹田が出てきた。
そして考えるに、丹田に力が入っている時が私の全力の出る時だ。
画というものは手で描くものではない。頭で描くものではない。
人間全体で描くものである。

全心全身で画を描くのである。
山を描く。山は描け描けと云う。
思慮分別はない。その命令を実行する。
自分は山と一体である。
一つ一つのタッチに心臓の鼓動があるのだ。

私は考える。人間が一番人間たる時は臍下丹田が整っている時である。
一番活気な時である。
寝ている時の考えは無駄である。
起きている時の考えでければならぬ。
そこには丹田がないから空転するのである。


「写生道 二」(随筆八十八/中川一政著)より抜粋

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同じ文章の中で引用されていた歌人斎藤茂吉さんの文も。

「予が短歌を作るのは、作りたくなるから作るのである。
 何かを吐出したいという変な心になるからである。この内部急迫から予の歌が出る」

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表現の真髄、ここにあり。
凡人は丹田を意識して暮らしてみようかと思う。


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