12時半、やっと吉田コースの天辺に着いた。当然最高峰の3776mを目指すけれど、右回りにするか左回りにするか。人の流れに追従して左方向に進むと、山口屋という山小屋が2軒あり、その先に須走下山口があった。そこを右に進むと広い場所があった。そこが広場なのか道なのか、ガスで周囲が全く見えずにわからなかった。
どちらに進もうかと佇んでいると、白い靄の向こうから突然人が現れたりする。どちらに向かっても火口を一周できるはずである。お遍路さん同様に時計回りに歩くことにした。お鉢周りを始めてまもなく、追い越しかけた二人組が石鎚の話をしているのが聞こえてきた。松山から来た人たちだった。彼らと一緒に15分ほど歩くと富士宮コースの天辺に着いた。そこには神社と郵便局があった。
さらに20分ほど歩くと測候所の建物が見えてきた。80年前に新田次郎が勤務し、加藤文太郎が極寒の時期に訪れた場所である。階段を上ると「日本最高峰富士山剣ヶ峰三七七六米」の石標が立っていた。松山の人たちと証拠写真を撮りあった。しかしながら、横に建つ測候所を見て、日本最高所は石標のある場所ではなく、測候所の屋根の上だと思った。
さらに時計方向に回った。3/4周ほどすると、雲は少しずつ消え始めグロテスクな火口の中が見えた。そして富士山が活火山であったこと、江戸時代に大噴火したことを思い起こさせてくれた。南アルプスや昨日の朝までいた北アルプスは残念ながら見えなかった。
吉田口山頂に戻った。神社に入るとお守りを売っていた。来週火曜日に試験のある息子に電話した。「富士山山頂のお守りいるか?」と聞くと、要ると言う。合格点を取れそうになく、お守りにすがりたいというふうな口ぶりだった。ついでに娘のも買った。そうすると女房のを買わないわけにもいかない。さらに長女には「幸福御守り」を買い、ばあさまには「長寿御守り」を買った。お土産を買い揃えると、使命を果たし終えたときのような安堵した気分になれた。
須走口から下り始めてまもなく、甥たちの分を買っていないことに気がついた。また神社に戻り学業成就のお守りを3つ買い足した。14時半、再び須走口から下り出した。砂礫の滑りやすい道だった。幾重にもジグザグに下った。地上は相変わらず見えなかったが、雲の隙間から、延々と下界へ続くジグザグ道と、遙か下方を歩く人々の姿が米粒のように見えて、おおきな溜息が出た。
下るにつれて、足を引きづっている人を多く見かけるようになる。動こうとしない子どもの横に為す術なく立ちつくす親。足を引きずる肥満タイプの外人さんたち。大丈夫ですか、と声をかけることは出来ても、なんら助けられないのである。六合目から下では、明朝の日の出を拝もうとする幾つもの団体さんとすれ違った。その姿は、宗教の聖地を目指す巡礼者の御一行様のように映った。
17時半、ちょうど3時間かかって登山口のターミナルに帰り着いた。そこは観光客が溢れかえっていた。スバルラインを車で下り始めると、登り側は渋滞になっていて、500m先の駐車場まで満杯だった。今日は金曜日のはずである。山頂でガスに包まれている間に土曜日にタイムスリップしてしまったわけではない。標高だけでなく、集客力においても富士山は日本一の山だった。しかし、富士山は遠くから眺める山なのだと思う。もう、登ることはあるまい。
帰り着いて
自分用に買った土産の「箱入り娘」が好評である。わからんわ、と言いながら女房が2時間ほど格闘している。肩を凝らして寝込まなければいいのだが。
幼稚園児からおじいちゃんまで頑張って登ってますよね。
普段は登山しなくて、初登山が富士山なんて人もいますよね。
天気の良い日は自宅から富士山が見えますので、沢山の人が登ってるんだろうなぁ~、と、思いながら眺めています。
アコモさんは積雪時に富士山の急斜面を上り下りするのですね。
12本爪のアイゼンだけでは不十分だと思いました。
両手にも熊手のようなアイゼンを装着しなければ無理です!