一切神社
京都市内の南北の大通りである堀川通りが、南の方へ延長され、高架の阪神高速京都線が建設された。その側道が堀川通であるが、こちらでは油小路通と呼ばれ、下鳥羽地域のその幹線道路沿いに一切神社はある。
何十回どころか100回も200回もこの場を通っているのに、今まで全く気が付かなかった。よく見れば樹木が塀のように張り付いており、その間に細めの鳥居が立っている。ちょうど信号もあるので、本来なら信号待ちの間に周りを見回すと気がつきそうなものだが、なぜか全く気がつかなかったのだ。視線の延長線上には写真にもある通り、14階建ての高いマンションが見えている。嫌でも目立つマンションなので、ちょうどその視線の方向にこの神社が目に入るはずだ。今回は地図で確認できたので改めて行ってみた。まさかここの幹線道路には駐車できないので、少し奥まったところにコインパークがありそこに入れる。
神社は至って簡素な状況であり、これといった由緒書きその他何もないので、結論から言うと名前以外何もわからない。鳥居をくぐるとほぼ正方形の敷地に、以前はちょっとした大木があったようだが、2mほど残して上部は切りとられている。おそらく 一昨年の台風19号の影響だろうと思われる。道路沿いの並べられた樹木以外にはこれといった緑もなく、石灯籠と本殿を覆う覆い屋がポツンと建っているだけ。覆い屋の板塀に隙間がほとんどないので本殿そのものを見ることができない。
したがって撮影は数枚撮って終わりとなってしまう。ネットで様々調べてみるとごくわずかな情報があった。
祭神は大国主命。創建年代は不明。今では上三栖地域の産土神として崇敬されている。「一切」との表記から「人斬り」との意味にも扱われ、この神社の前を通ると襲われるとの話もあったようだ。ただ名前の由来はこれも一切分からない。
祭神の大国主命というのは、記紀に登場する神のことで、国津神の代表的な神とされている。元々は高天原にいる神々の総称、あるいは天孫降臨の神々の総称として記紀に記るされていた神だ。
豊田神社
『豊田神社
古くは、一二〇〇年〜一三〇〇年前 、山城地方に神々しさを秘めた大きな森が八つあり (山城八森)、富ノ森を含め、 それぞれに神社が祀られた。
富ノ森神社の祭神は、宇賀ノ御魂大神、別雷神の二柱を祀る。 上賀茂社司富野氏、森氏の祖神で、昔は、毎月の神事に社司両家が修禊したという。
この辺りは、古くは巨椋池に臨む河原で、 一口に渡る賃船発着場であったため「古渡」ともいわれた。
豊臣秀吉が伏見城築城に際し淀堤改修を行い、それに伴い富ノ森神社を現在地 (北ノ 口) に移築し、豊田神社と改名された。
幕末には、富ノ森は会津領(役料)となる。 鳥羽伏見の戦いでは、賊軍となった旧幕府側は多くの戦死者を出した。その亡骸は近くの千両松の墓地に四一名、愛宕茶屋の墓地に三八名が今も静かに眠っている。
京都市』 (駒札より)
豊田神社は京都競馬場の北側にある。
京都競馬場は全国の競馬ファンにとってみればあまりにも有名な競馬場であり、開催日には周囲に広がる広大な駐車場が満杯になり、京阪電車の淀駅は競馬ファンでごった返す。大きなレースになると10万人近くが来場すると言うから、日本を代表する競馬場の一つといえる。詳しく言うと競馬場の北側に横大路総合運動公園というのがあり、さらにその横に豊田神社がある。周囲は広大な駐車場の他に田畑が広がっている。というのもこのあたりはスポーツ総合運動公園としての再開発の計画が何度も持ち上がっており、一時は京都にあるサッカークラブの本拠地グラウンドを整備する話が出たこともあった。(サッカー場は結局亀岡市に建設された。)
競馬場から少し離れたところに下鳥羽地域を斜めに横切る幹線道路があるが、神社そのものが横大路総合運動公園の横の森に隠れるような形になっているので、ここに神社があるということを知っている人は地元以外ではほとんどいないだろうと思われる。実際幹線道路を走っていても全く見えない。しかしこの豊田神社はそこそこの由緒を持つ歴史ある神社ということのようだ。
京都市による駒札が立てられていた。内容については上記に掲載しておく。創建時期については詳しいことは分かっていないが、駒札によれば1200~1300年前と言うから、平安時代の辺りということになるんだろう。元々はこの場所から少し北側にある富ノ森地域に建てられており、名称も富ノ森神社であったようだ。
この地は旧巨椋池の近くでもあり、三川合流の地域として淀の港があった所でもある。そういった意味ではかつては船による物資輸送が中心であったので、いわば物資輸送・交流交通の要衝であった地域だ。それだけに時の権力者たちにとっても、極めて重要な地域となる。朝廷もそうであったし政権を奪った武士にとっても同様だ。いわば直轄地としてこの地を支配し大きな利益を上げていたということになる。
室町から戦国時代にかけての頃は各地で新興の武士たちが名乗りを上げ、各地で争いが盛んになる。そんな中この地方にも小さな城が各地に建設された。今現在の淀城趾もそうだし、ここ富ノ森神社のあった所にも富ノ森城があったと言う。今現在では堀らしきものが少し残るだけで、その名残をほとんど感じられない。むしろ豊田神社の本殿を支える石垣の方がお城の石垣のように思える。
平和な日々が続いた江戸時代末期、倒幕運動の動きが現れ様々な不穏な事件が立て続けに起こる。そんな中、徳川慶喜に依る大政奉還の儀が発せられ、今度は後に王政復古の大号令が発せられる。薩摩や長州、安芸など各藩の倒幕運動はさらに高まり、その中で各地で小競り合い的なちょっとした戦闘が勃発する。そして大きな戦いに至るのが「鳥羽・伏見の戦い」だ。これをきっかけに戊辰戦争へと繋がっていく。
鳥羽・伏見の戦いは文字通り、鳥羽から伏見にかけて、つまり今現在の伏見区南部一帯、もちろん淀も含め、さらには川の対岸の現八幡市の橋本などにも及ぶ。そして幕府軍は劣勢となり、一部がこの富ノ森の地に退却して止まったと言う。そういった意味では、わずかながらこの豊田神社も、幕末の動きの中で関係があったということになる。結果的には明治維新となり新政府が発足。日本は新たな出発を迎えるということになった。
神社の入り口には赤い鳥居があって、ちょっとした参道が続いている。すぐに割拝殿が目に入り、その奥に少し小さめの本殿がある。本殿は石垣が積まれた少し高めの所に設置されており、前には狛犬が構えている。建物自体はさほど古さを感じさせない。多分江戸時代から明治時代くらいに再建されたものだろうと思われる。全体としては森に囲まれていて静かな雰囲気のごく普通の神社という感じだ。ただ近くを京阪電車の本線が走っているので頻繁にその音が聞こえてくる。
明治維新前後の史跡などを尋ねて見てみるのも勉強になっていいのではないかと思うし、この辺り一帯が幕末において大きな意義を持つ土地であるということも踏まえ、是非訪れてみるのもいいと思われる。
京都市内の南北の大通りである堀川通りが、南の方へ延長され、高架の阪神高速京都線が建設された。その側道が堀川通であるが、こちらでは油小路通と呼ばれ、下鳥羽地域のその幹線道路沿いに一切神社はある。
何十回どころか100回も200回もこの場を通っているのに、今まで全く気が付かなかった。よく見れば樹木が塀のように張り付いており、その間に細めの鳥居が立っている。ちょうど信号もあるので、本来なら信号待ちの間に周りを見回すと気がつきそうなものだが、なぜか全く気がつかなかったのだ。視線の延長線上には写真にもある通り、14階建ての高いマンションが見えている。嫌でも目立つマンションなので、ちょうどその視線の方向にこの神社が目に入るはずだ。今回は地図で確認できたので改めて行ってみた。まさかここの幹線道路には駐車できないので、少し奥まったところにコインパークがありそこに入れる。
神社は至って簡素な状況であり、これといった由緒書きその他何もないので、結論から言うと名前以外何もわからない。鳥居をくぐるとほぼ正方形の敷地に、以前はちょっとした大木があったようだが、2mほど残して上部は切りとられている。おそらく 一昨年の台風19号の影響だろうと思われる。道路沿いの並べられた樹木以外にはこれといった緑もなく、石灯籠と本殿を覆う覆い屋がポツンと建っているだけ。覆い屋の板塀に隙間がほとんどないので本殿そのものを見ることができない。
したがって撮影は数枚撮って終わりとなってしまう。ネットで様々調べてみるとごくわずかな情報があった。
祭神は大国主命。創建年代は不明。今では上三栖地域の産土神として崇敬されている。「一切」との表記から「人斬り」との意味にも扱われ、この神社の前を通ると襲われるとの話もあったようだ。ただ名前の由来はこれも一切分からない。
祭神の大国主命というのは、記紀に登場する神のことで、国津神の代表的な神とされている。元々は高天原にいる神々の総称、あるいは天孫降臨の神々の総称として記紀に記るされていた神だ。
豊田神社
『豊田神社
古くは、一二〇〇年〜一三〇〇年前 、山城地方に神々しさを秘めた大きな森が八つあり (山城八森)、富ノ森を含め、 それぞれに神社が祀られた。
富ノ森神社の祭神は、宇賀ノ御魂大神、別雷神の二柱を祀る。 上賀茂社司富野氏、森氏の祖神で、昔は、毎月の神事に社司両家が修禊したという。
この辺りは、古くは巨椋池に臨む河原で、 一口に渡る賃船発着場であったため「古渡」ともいわれた。
豊臣秀吉が伏見城築城に際し淀堤改修を行い、それに伴い富ノ森神社を現在地 (北ノ 口) に移築し、豊田神社と改名された。
幕末には、富ノ森は会津領(役料)となる。 鳥羽伏見の戦いでは、賊軍となった旧幕府側は多くの戦死者を出した。その亡骸は近くの千両松の墓地に四一名、愛宕茶屋の墓地に三八名が今も静かに眠っている。
京都市』 (駒札より)
豊田神社は京都競馬場の北側にある。
京都競馬場は全国の競馬ファンにとってみればあまりにも有名な競馬場であり、開催日には周囲に広がる広大な駐車場が満杯になり、京阪電車の淀駅は競馬ファンでごった返す。大きなレースになると10万人近くが来場すると言うから、日本を代表する競馬場の一つといえる。詳しく言うと競馬場の北側に横大路総合運動公園というのがあり、さらにその横に豊田神社がある。周囲は広大な駐車場の他に田畑が広がっている。というのもこのあたりはスポーツ総合運動公園としての再開発の計画が何度も持ち上がっており、一時は京都にあるサッカークラブの本拠地グラウンドを整備する話が出たこともあった。(サッカー場は結局亀岡市に建設された。)
競馬場から少し離れたところに下鳥羽地域を斜めに横切る幹線道路があるが、神社そのものが横大路総合運動公園の横の森に隠れるような形になっているので、ここに神社があるということを知っている人は地元以外ではほとんどいないだろうと思われる。実際幹線道路を走っていても全く見えない。しかしこの豊田神社はそこそこの由緒を持つ歴史ある神社ということのようだ。
京都市による駒札が立てられていた。内容については上記に掲載しておく。創建時期については詳しいことは分かっていないが、駒札によれば1200~1300年前と言うから、平安時代の辺りということになるんだろう。元々はこの場所から少し北側にある富ノ森地域に建てられており、名称も富ノ森神社であったようだ。
この地は旧巨椋池の近くでもあり、三川合流の地域として淀の港があった所でもある。そういった意味ではかつては船による物資輸送が中心であったので、いわば物資輸送・交流交通の要衝であった地域だ。それだけに時の権力者たちにとっても、極めて重要な地域となる。朝廷もそうであったし政権を奪った武士にとっても同様だ。いわば直轄地としてこの地を支配し大きな利益を上げていたということになる。
室町から戦国時代にかけての頃は各地で新興の武士たちが名乗りを上げ、各地で争いが盛んになる。そんな中この地方にも小さな城が各地に建設された。今現在の淀城趾もそうだし、ここ富ノ森神社のあった所にも富ノ森城があったと言う。今現在では堀らしきものが少し残るだけで、その名残をほとんど感じられない。むしろ豊田神社の本殿を支える石垣の方がお城の石垣のように思える。
平和な日々が続いた江戸時代末期、倒幕運動の動きが現れ様々な不穏な事件が立て続けに起こる。そんな中、徳川慶喜に依る大政奉還の儀が発せられ、今度は後に王政復古の大号令が発せられる。薩摩や長州、安芸など各藩の倒幕運動はさらに高まり、その中で各地で小競り合い的なちょっとした戦闘が勃発する。そして大きな戦いに至るのが「鳥羽・伏見の戦い」だ。これをきっかけに戊辰戦争へと繋がっていく。
鳥羽・伏見の戦いは文字通り、鳥羽から伏見にかけて、つまり今現在の伏見区南部一帯、もちろん淀も含め、さらには川の対岸の現八幡市の橋本などにも及ぶ。そして幕府軍は劣勢となり、一部がこの富ノ森の地に退却して止まったと言う。そういった意味では、わずかながらこの豊田神社も、幕末の動きの中で関係があったということになる。結果的には明治維新となり新政府が発足。日本は新たな出発を迎えるということになった。
神社の入り口には赤い鳥居があって、ちょっとした参道が続いている。すぐに割拝殿が目に入り、その奥に少し小さめの本殿がある。本殿は石垣が積まれた少し高めの所に設置されており、前には狛犬が構えている。建物自体はさほど古さを感じさせない。多分江戸時代から明治時代くらいに再建されたものだろうと思われる。全体としては森に囲まれていて静かな雰囲気のごく普通の神社という感じだ。ただ近くを京阪電車の本線が走っているので頻繁にその音が聞こえてくる。
明治維新前後の史跡などを尋ねて見てみるのも勉強になっていいのではないかと思うし、この辺り一帯が幕末において大きな意義を持つ土地であるということも踏まえ、是非訪れてみるのもいいと思われる。
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