末慶寺
末慶寺はJR山陰線丹波口駅から東の方へ数百メートル。幹線道路から少し北側へ入った住宅街の中にある。浄土宗西山禅林寺派のお寺であり、見たところはごく普通のお寺という雰囲気だ。特に駒札もなくお寺の由緒その他についてはよく分かっていないが、おそらく江戸時代以前には創建されていたと思われる。このお寺が一部有名になっているのには次のような理由がある。
明治時代に入り、日本は鎖国政策が終わり諸外国との交流公益が始まった。そんな中日本を取り巻く情勢においては、隣に大国清がありその北には世界的な大国であるロシアがあった。ヨーロッパにおいては産業革命後、一般産業のみならず軍事面においても最先端の軍艦などが建造され、軍備拡張競争が始まっていた。ロシアも例外ではない。そんな中日本はまさにこれから国内の産業革命が、という時代だった。
1891年、ロシア皇太子が日本を訪問。大阪から京都そして琵琶湖の見学に行った際、現在の滋賀県大津市において、日本の警備隊である一警備員から突然刀で切りつけられるという事件が起こる。大津事件だ。幸い傷は軽く皇太子は京都に戻ってその後、海上に控えていたロシアの軍艦に戻り帰国の途につく。しかしこの事件は日本帝国の政府及び一般庶民の間にも大きな衝撃を与える。大国であるロシアの来賓に対して襲撃するという暴挙に出たことに対して、ロシア側からの報復攻撃があるのではないかと恐れたのだ。こうして日本国中が騒然となる。
そんな中、今の千葉県に居住していた畠山勇子と言う若い女性が、自らの持ち物などを質屋に入れ資金を作って一人京都へ向かう。彼女は子供の頃から本や新聞などを読んだりして、近所では変わり者として知られていたようだ。京都に着いて有名寺社を回った後、京都府庁の前に到着。その場で彼女は両足を布で縛り持参した剃刀で喉と腹を切り自害した。
この事件は瞬く間に日本国中に知られ、日本人が犯した大きな罪を勇子自らが責任を取って自害することによって、ロシアへその思いを伝えようとし、日本を救おうとしたものとして捉えられ、一躍英雄扱いとなった。こうして彼女は烈女と呼ばれるようになり、名前も知れ渡る。しかし遠い地からやってきたものであり、京都には遺体の引き取り手がなくそんな時に、松慶寺の住職がその遺体を引き取り境内に葬ることになった。後年有志によって墓が作られることになる。当時の彼女の持ち物が今も残されていると言う。またこのことを知ったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がこの寺を訪れている。
この事件から十数年後、日本はロシアと戦争することになる。日露戦争だ。その前の日清戦争を含めこれらの対外戦争を通して、日本は急速に産業革命が進み世界列強の一国として存在感を高めていくことになる。
末慶寺そのものは以降、今に至るまで現在の地で静かな佇まいを見せ、今も畠山勇子の弔いを行なっている。
末慶寺はJR山陰線丹波口駅から東の方へ数百メートル。幹線道路から少し北側へ入った住宅街の中にある。浄土宗西山禅林寺派のお寺であり、見たところはごく普通のお寺という雰囲気だ。特に駒札もなくお寺の由緒その他についてはよく分かっていないが、おそらく江戸時代以前には創建されていたと思われる。このお寺が一部有名になっているのには次のような理由がある。
明治時代に入り、日本は鎖国政策が終わり諸外国との交流公益が始まった。そんな中日本を取り巻く情勢においては、隣に大国清がありその北には世界的な大国であるロシアがあった。ヨーロッパにおいては産業革命後、一般産業のみならず軍事面においても最先端の軍艦などが建造され、軍備拡張競争が始まっていた。ロシアも例外ではない。そんな中日本はまさにこれから国内の産業革命が、という時代だった。
1891年、ロシア皇太子が日本を訪問。大阪から京都そして琵琶湖の見学に行った際、現在の滋賀県大津市において、日本の警備隊である一警備員から突然刀で切りつけられるという事件が起こる。大津事件だ。幸い傷は軽く皇太子は京都に戻ってその後、海上に控えていたロシアの軍艦に戻り帰国の途につく。しかしこの事件は日本帝国の政府及び一般庶民の間にも大きな衝撃を与える。大国であるロシアの来賓に対して襲撃するという暴挙に出たことに対して、ロシア側からの報復攻撃があるのではないかと恐れたのだ。こうして日本国中が騒然となる。
そんな中、今の千葉県に居住していた畠山勇子と言う若い女性が、自らの持ち物などを質屋に入れ資金を作って一人京都へ向かう。彼女は子供の頃から本や新聞などを読んだりして、近所では変わり者として知られていたようだ。京都に着いて有名寺社を回った後、京都府庁の前に到着。その場で彼女は両足を布で縛り持参した剃刀で喉と腹を切り自害した。
この事件は瞬く間に日本国中に知られ、日本人が犯した大きな罪を勇子自らが責任を取って自害することによって、ロシアへその思いを伝えようとし、日本を救おうとしたものとして捉えられ、一躍英雄扱いとなった。こうして彼女は烈女と呼ばれるようになり、名前も知れ渡る。しかし遠い地からやってきたものであり、京都には遺体の引き取り手がなくそんな時に、松慶寺の住職がその遺体を引き取り境内に葬ることになった。後年有志によって墓が作られることになる。当時の彼女の持ち物が今も残されていると言う。またこのことを知ったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がこの寺を訪れている。
この事件から十数年後、日本はロシアと戦争することになる。日露戦争だ。その前の日清戦争を含めこれらの対外戦争を通して、日本は急速に産業革命が進み世界列強の一国として存在感を高めていくことになる。
末慶寺そのものは以降、今に至るまで現在の地で静かな佇まいを見せ、今も畠山勇子の弔いを行なっている。
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