てんかん娘と働くママさん

てんかんを持つ長女と元気な長男次男にかこまれてヘロヘロになりながら働く母の日記というか独り言・・・・

てんかん娘の健康日記9

2008年12月03日 | Weblog

この前の続きです。

今までの経緯と長女の症状を整理して書いています。

<検査結果の説明> H13.7

東京の大学病院の検査入院の時のドクターの説明。

「今までやってきた治療は決して間違いではないし、診断もほぼ同じです。お母さんが希望している治療ですが、点頭てんかんでなくても症状があてはまれば有効だし、健康保険も使えますから、私としては一度お薦めします。」

だった。

地元の病院では『点頭てんかん』ではないから健康保険も使えないし、自費でやりたいといわれても、重篤な副作用の危険があるのでウチではやらないから・・・・と言われていたので、なんか拍子抜け。

大学病院では

「副作用の方も心配でしょうが、最近では最少の薬の量で効果があると研究されていて、副作用も昔に比べると軽くて済みます。」

あと、どうしても私が聞きたかった事を聞いた。

娘のてんかんはよくある症例なのか?
娘のてんかんは今の医学で完治が望めるのか?
娘の発達はこれからどうなるのか?
娘はこの病気で早死にしてしまわないのか?
娘を育てていく上で親として何を気遣ってあげたら良いのか?

「Kちゃんのてんかんはさほど多い症例ではありません。10年くらい前にアメリカの学会に発表されたかと思います。
残念ながらこの症例は、薬の反応が鈍く、発作がコントロールしにくいと思われます。
知的発達の遅滞は考えられますから、早くに発達外来にかかって下さいね。
事故が無い限り、てんかんが原因で早死にという事は考えにくいです。
ですから、親が一生面倒みていくことになると思います。
発作がコントロールされていなくても、Kちゃんの可能性や好きな事、社会性を身につける事や、毎日を楽しくアクティブに生活できるように心がけたら良いかと思いますよ。病気だから・・・・てんかんだから・・・・と甘やかさずに制限しすぎずに、なるべく色んな体験をさせて他のお子さんと変らないような生活環境を整えてあげたら良いと、私は思います。」

この生活水準重視の考えは地元の病院のドクターも同じだったので、私も洗脳されたか????
ほぼ同じ意見だ。

<入院治療>  H13.9~

平成13年9月から入院治療が始まった。

ACTHといって強い薬と筋肉注射で体内に入れるというもの。
副作用は感染症、食欲増進、血圧上昇、心不全だったと思う。

毎日、朝一番で入浴を済ませて、ドクターの診察を受け、異常がなければお尻に太い注射をする。
感染予防の為に個室入院だった。
その大学病院はその治療法の為だけに入院してくる患者もいたので、同じ治療を受ける患者同士で二人部屋だった。

娘は単語は発していたが、大人しくお絵かきや絵本が好きだったので、親としてあまり周りに気遣う事無く楽な入院生活だったと思う。

薬は最少量から始まり、効果があまりでないので、様子をみながら増やす事になった。
特の食欲増進で困ることも無く、むくみも殆どでなかったので、食事制限もゆるくすんだ。
何回かの血液検査でカリウムの低下が見られたので、食事に毎回デザートが付いて、病院食以外にも市販品の納豆や果物を食べてもよしとなった。

薬の量が増えてくるとむくみや血圧の上昇が出てきた。
投薬開始から2週間位だったと思う。
それでも、脳波が少し良くなっていて、発作も減っていたので、要注意の中でもう少し投薬を続ける事の説明があった。

たしか4週間目くらいに何回か心電図モニターを付けて、スタッフルームでの預かり看護が何回かあって、この治療の中止というか完了しますとなった。

完全に発作は止まらなかったが、ある程度の効果はあった事、娘の体力の限界なので、終了です。と。

この頃の娘の発作は睡眠して30分位に目が覚めて頭、腕、腰、足の付け根がカクっとなりすぐに元に戻る、これを2~3秒おきに繰り返して20分位で全て終わって睡眠に戻る。というもの。
時にこれを何度か繰り返し、本当に熟睡するのは夜中になったりしていた。

朝の目覚めの時も同様だが、朝はその後、何事も無かったかのように目覚める。

昼寝では同じ発作だが、やっぱり、また眠るか?そのまま目が覚めるかはその時によった。

ACTH治療中はこの一連の発作が少しだけ減っていた。
夜の発作の繰り返しが1回で済んだ、とか、朝は発作しないで目が覚めたとか。
でも完全には消えなかった。


入院中に知り合った母達は何回もこの治療の為に入退院を繰り返しているんだそうだ。

でも正直いって、娘のこの治療での入院には個室料がかかり、母である私は家を留守にするし、退院後も半年間は感染症予防の為に人ごみには出られないとか、いろんな事があって、私は、劇的な治療効果もないのに繰り返し入院する気にはなれなかった。
しかし、もしも何回も繰り返した方が治療効果が上がるとかって話だと考え直すだろうけど。
 
今後の治療計画とともにドクターに聞くと、

「効果がそれほど期待できないので、苦しいだけですからねえ。お母さんが希望するならやる事はできますが・・・・
今後は投薬による発作のコントロールとなります。
なるべく引きこもらずにいろんな刺激を与えて下さい。」

こんな感じだったかな?

てんかんと診断されてから約1年と半年・・・・・

ほとんど公園にも行かず、発作の観察で昼夜が逆転してしまった私。

入院を機に生活の時間はとりあえず規則正しく戻った。
それだけでも価値あったか???

<転院>  H13.11~

退院後の通院は地元の病院には戻らず、東京の大学病院にした。

車で行く事にしたら思ったより、気楽に通院できた。

娘が3才くらいになったのを機になるべく電車で通院するようにした。
経験は娘にとって財産だと思ったから。

最初は移動時間が短い方がいいに決まってると思って、快速電車を利用したが、娘がぐずってしまって、どうにもこうにも困ったりした。

東京に勤めていたことがある私の父に色々と教えてもらって、各駅停車で、乗り換えが1回で済むルートを定番にした。
父は一生通う病院かもしれないから・・・・と、入院中のお見舞いの時にいろいろと自分の足で試してくれたんだそう。

この頃は娘の発作は睡眠に関係したときだけだったので、お出掛けは気にしないで普通に行ってた。

夫の実家にもよく泊まりに行ったし、従姉妹のおねえちゃん達にいじくられて娘は楽しそうだった。

通院での経験から娘は切符を自動改札に通す事はきちんと出来た。
切符も自販機の前に自ら進んで行っていたので、切符を買う→改札を通る→電車に乗る  という図式は理解したようだ。

<療育手帳> H14.5~

退院してから、半年は外出を控えていた。

半年が過ぎたので、発達外来なるものを探してみた。

残念なことに私の住む地域ではあまりそういった施設がないらしい。

市の療育センターにお世話になる事になった。

月に1回か2回のリハビリ(?)
面談というか・・・・・イマイチよく分からなかったが、とりあえず前進あるのみと通った。

そこに勤務していたソーシャルワーカー(?)相談員(?)に
「こうやって療育センターに通っているって事は娘は知的な遅れがあるからですよねえ。私、自分の親とか、知人に私の育て方が良くないから、言葉がすすまないし出来ない事が多いんじゃない?って言われたりして辛いんです。なにか診断名でもつくとか、愛の手帳みたいなのってないんですか?」
と聞いてみた。

「知的に遅れがあると療育手帳というのがあるけど、Kちゃんはあてはまらないです。てんかんなら32条にあてはまると思いますけど」

と素っ気ない返事。

この経緯は他でも書いたけど、結局は自分で役所に行って書類を出して、審査してもらったら、重度の判定でした。
手当ての額を考えたら、もっと早く気付いて申請していたら、いろんな体験をそのお金でさせてあげられたのになあ~と悔しい思いと、自分でやっていくしかないんだ!!!っと痛感した。
療育センターに通ってから半年以上経ってしまった。

<保育園>  H14.12~

手帳の交付が一段落して、そろそろ娘も幼稚園に入れたいと考えはじめた。

療育センターでは個別のリハビリは一旦終了して、グループでのリハビリに移行した。
そこでは、同じようなお子さんと親が一緒な訳だけど、同じようで全然違う子供達なので、仲良くなる事もあまりなく、ただ淡々とこなしていく感じ。
でも定期で精神科のドクターの診察があったので、そこでは今後のこととかを相談していくので、年齢にあわせて、幼稚園や保育園の話も出た。

ドクターは同年齢の子供との集団生活は良い刺激だから、2年保育より3年保育を勧めると言っていた。
私は下の子を出産したばかりなので、仮に幼稚園に入園したとして、母子通園は無理だった。他のママで、地元の幼稚園にずっと前から見学とか相談に行ってた人がいて、その子は無事にその幼稚園に入れたんだけど、やっぱり母子通園だった。しかも、ただぼ~っとしている訳にもいかず、図書室の整理や園の配布物の印刷のお手伝いなんかをさせられていた。

そういったうわさというか、体験談は聞いていたので、母子通園したら、集団生活させる意味がないし、母親は飼い殺し????と私は思った。

下の子もいたので、そんなに活動していなかったが、普通の幼稚園や保育園はなかなか難しいようだった。

保育園は家庭保育が困難な状況って事で、就労が条件だったから、半ば無理やりにパートに出て、無事に保育園に入園する事になった。

でも、これにもまた一騒動あって・・・・

就労が条件なので、当然、下の子も入園希望をだした。
となると下の子はまだ1才にもなっていなかったので、保育料はめちゃくちゃに高い。
普通にパートに出たくらいだと、ほとんどお給料が無くなるか、逆に赤字だった。
うわさには聞いていたが、保育料って・・・・・・

で、なるべく自分のスキルに繋がるようにと派遣社員に決めたのだが、娘がてんかんだという事と療育手帳を提示しての障害児保育枠希望って事で、就労の形態を制限されてしまった。
内職か、短時間で保育園の近くでのパート。もちろん、時間外の利用も土曜日の利用もNG。
なおかつ、娘がなれるまでは、慣らし保育として、短時間しか預かれない、とか、しばらくは母子通園してくれ、とか・・・・・
保育料は障害児の手当てで何とかなるでしょう?って言われた。

・・・・・・・・・役所に泣きついた。

じゃあ、なんで障害児保育枠があるの?その保育園。
下の子と二人分の保育料を支払ったら、いくらになると思っているの???


結局は、私が折れて、内定していた会社を辞退して、しばらくは自宅で待機しながら短時間での保育をお願いした。

それに並行して、園から言われた条件でのパートを探して、何とか見つかり軌道に乗ったわけ。

しばらくしたらそんな出来事も忘れるくらいに保育園に馴染んだ子供達。
あたらしい事が始まる時って思った以上に大変だけど、過ぎてみればいい思い出だったりする。

入園前に合わせて駆け足で予防接種を済ませ、発汗抑制の副作用があるエクセグランという薬を止めた。

娘の発作はまだまだ睡眠中のみ。
保育園でも特に発作での困った事はないとの事。
この平穏な生活は1年以上続いた。

<新しい発作>  H16.5~

保育園生活が2年目になったあたりで、音に反応して倒れるようになった。

最初は年長児がやる夏祭りの和太鼓の音。

その年、初めての練習で、初めての音でふら~と倒れたらしい。
私も目視していなかったから、確認はできないが、今から考えると発作だと思う。
ベテラン保育師がそういった症例のてんかんもあるし、知的な障害を持ったお子さんは音が苦手な子もいるので、注意してみてくれていたそうだ。

それ以来、保育園では、大きな音を出すときは声を掛け合って、娘がびっくりしないように心がけてくれた。

その内、自宅でも音に反応して倒れるようになった。

玄関の鍵の音、
お風呂場の扉の音、
冷蔵庫の扉の音

この頃は倒れても、1~2分位、そのまま休めば普通どおりに動けていた。

だから、毎朝、支度をして玄関に娘が立つと誰かしらが扉を開けてしまって、
娘は倒れる→しばらく休む→その間に他の子は車に乗る→最後に娘を連れて行く
となる。
自宅でもなるべく声掛けしていったが、なかなか徹底できなかったし、声掛けしても倒れるときは倒れた。

保育園からの申し入れもあって、頭部防護帽をかぶることにした。
規格品に少し手を加えるだけのセミオーダーだったが、納品まで、時間がかかった。
療育センターの整形外科担当のドクターは、
「そんな帽子で怪我は防げないし、本人のストレスになる!」
と大反対したが、手元からはなして、他人に預ける親としては、何も策を講じないのもまずいし、恐縮ですが・・・・・とお願いしてやっと作ってもらった。

なんか変・・・・・・・



<就学相談>  H16.4~

年長児の春から療育センターで、就学相談もかねた集団リハビリが始まった。

母子一緒に出向いて、プログラムは母子分離。

母親は情報交換したり、息抜きを兼ねた座談会だった。

そこで、わりと近くに住んでいる方と一緒に学校見学なんかも行った。


学校見学をしなくては子供を安心して通わせられないっていう現実にまず驚いた。
障害児の受け入れが学校にもよるらしく、実際の目で確かめるのが一番だと言っていた。

ここで、大問題!!!!


てんかんって病気としては重病扱いされないのに、預かる施設からはレッドカードらしい。

どの特別支援学級の教師もてんかんのお子さんは事故が怖いので・・・・・みたいな扱いで、こちらの話も聞いてくれないし、娘を一度体験教室に連れて来なさい、とも言わない。

本当に凹んで毎日だったかな。

それは特別支援学校も同じで、特別支援学校の学区が決まっているので、見学できる学校も1つだけなんですが、かなり拒否オーラが出てた。

見学会はだいたい5~6月の間で、あとは個別にお願いするのだけど、なかなか個別での見学を快諾する学校も少ない。

娘の発作は音に反応してしまい、当時は怪我こそなかったものの、いつ大きな事故に繋がるか分からなかった。

<救急車>  H17.10

保育園生活での最後の運動会の日。

いままでは、出番が終わると少し早めに帰宅していた。
下の子も小さかったから。

この時は年長児という事と役員をやっていたので、初めて最後まで、参加した。

感動ものですね。
子供の行事って。

私の母が留守番してくれていたので、早速撮影したビデオを鑑賞し始め、娘は記念品としていただいたメダルを自慢するように首に掛けてお絵かきを始めた。

突然、娘が今までにない勢いで転倒した。

様子を見ると、チアノーゼが出始めて、目は白目を向いている。
すぐにダイアップを入れたが、変化なく、こわばりが続くので、救急車を呼んだ。

今までにこういった発作は経験がなく、睡眠に関係するシリーズの発作か、音に反応する転倒する発作しか知らない。
チアノーゼが出たのも初めてだし、唇の横から唾液が出てそれが小刻みに震える体の振動で泡になっていた。
泡を吹くってこういう事だったんだあ~と変に感心しつつ、こわばりつつも数秒間おきに呼吸をする娘をみて少しほっとそた。
こわばりが解けた瞬間に息を思い切り吸うらしく、ぐは~っと音というか喉を鳴らすというか、いびきのような呼吸をした。
母が脳疾患とかで、倒れるといびきをかくと言ってとても心配したが、それとは違うと思った。
救急車は5分くらいで到着したが、なかなか受け入れってくれる病院が見つからなくて、自宅の前で20分位留まっていた。
その間に娘は回復しつつあり、特に重篤になる危険性は少なかったとは思うが、これが救急医療の現実なんだ!!!!!と思い知らされた。

救急指定病院についてからは娘は特に重積の発作ではなかったので、殆ど診察という診察もなく、その病院でのてんかんの治療経歴がなかったので、点滴も何もしなかった。
発作の拍子に持っていた鉛筆で、目の際を刺してしまったので、消毒と傷口が広がらないようにテープ留めしたくらい。

でも、夫が迎えにくるまでの約3時間(診察が終わってベットで休む事になってから連絡したので)ずっと小刻みに体は痙攣していたし、もっとなんかしてもいいんじゃない????って気持ちは拭えない。


でも、この事で、今までは大丈夫でもこれからは分からないって事に気付かされた。
見学に行った学校の教師達の態度が妙に納得できてしまった。


<入学試験>  H17.11

運動会の日の一件から、就学は特別支援学校に決めた。

家庭内で気を付けさえすれば十分にケアできるてんかんだと思っていたが、もう、どんな事故が起きても不思議ではないと痛感したからだ。

特別支援学校(当時は養護学校)は、障害の種類によって入学可能な学校が決まっていた。
目に障害があれば、盲学校、耳だと聾学校、病弱児が入学できる病院併設の学校、入院中のお子さん対象の院内学級とか。

娘が入学対象にあてはまる学校はもう見学したが、もうひとつ、国立の大学附属の学校があった。
たしか、このあたりの年代から、国立ではなくて、特別学校法人になったと思う。

たまたま、保育園の園長先生が素晴らしい学校だから!!!!!と強く勧めるので、6月に行われた体験入学に行っていた。
その流れもあってそんなに強い意志を持ってなかったが、その大学附属特別支援学校を受験する事になった。
体験入学の際に、「どうぞ受験してください!待っています。」と言われたのはその後で入学するか決める時に大きな後押しになった。
受験の申し込みの前に個別で相談に行ったが、その時もウェルカムな対応だった。
てんかんの発作が思った以上に増えてしまった事、薬でのコントロールがきかないが、生活にあまり規制をかけるのは好ましくないと思っている事、知的障害云々ではなくて、てんかんに対しての私の思いを話した。
発作にビクついて腫れ物をさわるような態度は困るとか・・・・・
「慣れていますから大丈夫ですよ~」
かる~く流されたのだが、そこが今まででない対応だったので、かなり親近感沸いたのを覚えている。

いつだったか、長門裕之さんの介護のドキュメンタリー番組で、
「信念をもった言葉で誰かに導いてほしい」
ってうい、くだりがあったんだが、本当にその通りで、いままで、私は「大丈夫なの?」とか「娘さんはどういった感じですか?」と質問や不安を投げかけられる事が多く、この
「慣れていますから大丈夫ですよ~」
と言われた事がどれだけほっとしたか。すくわれたかしれない。
「任せて下さい」
と自信を持って言われる事がどれほどにこちらの気持ちをすくうだろう。


受験といってもどんな障害を持っているのか、子供の特性をみるでけのもので、後は親に対する説明と面談だった。

我が家では、エントリーもしないで、後で受験しておけば良かった~となるのは嫌だから、とにかく受験する!っていうスタンス。

学校始まって以来の高倍率で、たまたまくじ引きで当ったので、後にも引けず、ウェルカムな態度を始めてしてもらったのもあって、入学を決意。
だって、ウェルカムな態度は就学活動してから初めてだったんだもん。

<発作・増・増・増>  H18.4~

高倍率の難関をくぐり抜け、入学した特別支援学校。

毎日が運動会のような大騒ぎ。

今までは、車での送迎だったし、保育園の園庭も広くはなかったから学校での運動量は半端なく多いらしい。
先輩ママからも最初の一年は帰宅したら、バタンキューだよって、言っていた。
多動傾向があったり、自閉症や知的障害ではよく睡眠障害というか、睡眠時間が極端に少ない方もいる。
そういったお子さんは本当に久方ぶりに親が安心して眠れるらしく喜んでいる。

娘はもともとよく眠る子だったし、バタンキューすぎて、夕食が取れない事があった。
この頃、ちょうどデパケンを止めて半年経っていて、食欲増進の副作用が無くなった頃だったから、娘は痩せてしまって困った。
22Kgあった体重がたった3ヶ月で17Kgになってしまい、顔はおねえさんっぽくなってよかったけど、ちょっと急激に痩せすぎたと思う。
もっと注意していればよかった。

みるみる体調が不安定になった。

学校は楽しいらしく何時見学に行っても楽しそうだったし元気っぽかった。
でも電池切れするみたいで、帰宅途中で、発作してそのまま眠ってしまう事が多かった。

この時期から、睡眠時のシリーズ発作は減っていて、夜は爆睡、夕方発作してまた爆睡って事が多かった。
しかも、音に反応しなくても日に何回も転倒するようになっていた。
だいたいは頭、腕、腰、足の付け根がカクっと折れるので、柔道の受身の体勢になるから、あまり大きな怪我は少なかった。
でもこの頃は、その転倒する発作でぶつけどころが悪く、怪我が増えた。
それから、起きていても突然にぼ~っとしたり、持っている物を落としたりする発作が出てきた。
前々からあったのかもしれない。
でも顕著に現れて、日常に支障が出始めたのはこの頃。

やっと重い腰を上げて静岡てんかんセンターに行く事にした。

















 


3 コメント

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Unknown (ちーちゃん)
2008-12-03 19:10:42
頑張って現在まで来たんだね。
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ちーちゃんさんへ (きぬきに)
2008-12-04 13:21:04
流されるままにやってきています。
子供の事なので、投げ出す事もできず、逃げ出す事もできず・・・・
自分の気持ちや様子を言葉にして伝えられない娘のなで、発作の時はどんなに苦しいのか?想像もつきません。
きっととても辛いんだと思うんで、それを思うと発作を止めてあげたいですね。
かといって発作を止めるだけの生活でずっと入院しているとか、寝たきりの状態なのも良くないと思って・・・
暗中模索というか、手探りというか、目の前のことをこなしていくのが精一杯ってことろです

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個室 (M)
2017-05-08 08:33:20
昔のブログなので見られて居るかわかりませんが念のため個室料について書きます。
感染症予防のため個室にされ個室料を取られていたそうですが、感染症予防や、病院の都合による個室の使用では利用者は個室料を払う必要はありません。
きちんと政府が定めていますので、今後入院される際はその事を病院へ訴えられた方がよろしいかと思います。
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