
チベット仏教圏での古い布の話題です。
「チベット襤褸」
僕が勝手に呼んでいて、
勝手に提唱している価値観です。
正確にはチベット本土に限らず、
広範囲に広がる、
「チベット仏教文化圏に則した襤褸の古裂」
なのですが、
略して、チベット襤褸としております。
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今や、日本のBORO(襤褸・らんる)は世界的に知られた価値観です。
書籍も出版されております。
「ぼろの美」 青幻舎
英国の出版社での書籍もあります。
「the book of boro」(英語版)
日本の襤褸は有名ですが、
布物、織物類において、
チベット仏教文化圏の、
古い襤褸布も美しいと僕は感じています。
しかし、それらが理解される事は少ないです。
そもそも、その存在自体が知られていません。
イスタンブールで古布の研究者にも会いましたが、
老齢なコレクターでありつつ、
博学なイギリス人の研究者である彼でも、
チベットの古い布に関する知識は乏しかったです。
と言うより「全く未知の領域」だと言ってました。
彼はアイヌの民族衣装や、
ウズベキスタンのスザニの知識にも秀でていました。
その、知られていないチベットの布の中でも、
更に限定的な、チベット襤褸。
僕が勝手に見出しております。
その価値観を広める事は、
価値観の共有
または、商売上でも大切な事かもしれません。
現代アートのアーティストの村上隆さんがいう、
「認知領域の拡大」
それが重要になってくるでしょう。
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先日、中国人バイヤーに、
襤褸の民族衣装チュバ(チュパ)が売れましたが、
その中国人は交渉時に
「これは破れている。以前買ったのは良かった」
と中国語で何やら言ってましたが、
僕は無視しました。
どうせ、いくら説明しても、
彼らは理解しません。
その美しさの価値を。
中国人の価値基準は完品です。
彼らはキラキラでピカピカした物を好きです。
それを僕は分かっているので、
必要以上の会話はしません。
お金のやり取りのみです。
結局、彼は買いました。
それなりな金額でしたが、
中国本土より安値と思えます。
何故なら、僕は彼の売り先を知っています。
幾ら位で転売されるのか、も。
因みに、以前、その中国人バイヤーに、
同類のチベットの古い民族衣装を売りましたが、
香港の高額オークションで出品され、
約50万円で落札されていました。
僕がその事実を知っている事を、
彼は知らないでしょう。
それはともかく、
中国語で話しかけんなよ。
ここは日本だぜ。
日本語は無理だとしても、
少なくとも英語で話せや。
日本の外国人観光誘致政策の弊害です。
外国人を知らない、
無知な日本の政治家の間抜けさの結果です。
知人の中国人は、
日本文化や日本語を真面目に学んでいますが、
オールドスクールの中国人は困ったもんです。
もはや相手にしませんが。
インド人旅行者も、
より一層増えそうですが、
今後はどうなるのでしょう。
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さて、話を戻すと、襤褸の美しさです。


この民族衣装チュバ(チュパ)の、
破れも汚れも美しいのです。
それらも物語の一部なのです。
着用していた人や環境に、
想像を馳せるのも楽しいのです。

こんなチベタンが着用してたのかしら。
そう思うと、破れも愛らしく思えます。
草彅剛さんが、
古着の「襤褸の美学」を語るYoutube動画で、
ワクワクしながら、
彼自身の想像と趣向を話しているのを見る事ができます。
楽しそうです。
そう
人の楽しみ方や価値観は、
人それぞれです。
全く理解できない人も居るとは思いますが、
少なくとも、
有名人が語れば、その価値観は認知はされます。
反面、無名の人が語っても相手にされません。
それが現実社会です。
特に、日本では。
使い込まれた日本の野良着や、ボロボロの布が
新品より値段が高いのは、
コレクター的にも許容される一方で、
チベットの襤褸は、
破けや汚れや補修を
「ダメージ」として表現されます。
表現しなくては伝わりません。
しかし本来は、それはBOROと共通する、
ある種の「美の価値観」だと、
僕は個人的には思っております。



チベットの十字絞り柄ティクマの古い襤褸です。
美しい物語のある、
古く擦り切れた布です。
チベット襤褸だと、
僕は言い張ってます。
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この先、チベット襤褸の価値観は、
日本や世界で認知度が広まるか分かりません。
広まるように微力ながら発信はしますが、
誰も知らなかろうと、
誰も見向きもしなかろうと、
僕は、
人知れず、
「チベット襤褸」の価値観を扱っていきたいのです。
その美しさを理解頂ける日が来るのを、
密かに楽しみにしているだけです。
いつか認知されたら嬉しいな。
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余談です。
上記の村上隆さんのインタビューは面白いです。
現代アート業界を通して、
日本と世界の違いを話しています。
日本で嫌われる事が多いのに、
世界では大きく評価されている乖離と、
価値観の認識や理解の違いについて話していました。
アート業界やアニメ界隈、
世間での様々な見解や意見はあろうとも、
村上隆級の著名人でも(著名人だからこそ?)
評価基準を考える時、
怒りに似た感情を覚える時がある事を知り、
日本社会の特殊性を実感します。
彼を好き嫌いかどうかは置いておいて、
例え日本で嫌われても、
世界では同じとは限らない。
むしろ逆の場合もあるから、
日本にこだわる必要もないな。
そう思わせてくれるのは、
個人的に嬉しいです。