旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

マジで古い仏像を買ってみた

2024年07月19日 | 仕入れ旅



さて、ラダック。

何から書こうかしら。

今回も色々あったからね。

チベタン・ターコイズを買いまくったが、
まずは、仏像かな。
石仏ですな。

カシミール仏。

本物の。

15世紀以前の物だね。

15世紀にはカシミールはモスリム支配下になったから、
それ以前です。

それにしても、カシミール仏。
ラダックですらない。

「カシミールの物は、カシミールで買えばいーんじゃない?」と思われるかもしれんが、
大嘘つきモスリム・アンティーク商人からカシミールなんかで
怖くて買えません。

自分の眼に加え、
彼の家族も以前からよく知っている知人から買うのが良いのである。

そもそも、
アンティークに置いて、
モスリム系業者は、一部を除いて、よほど信頼関係がない限り、
値段交渉が面倒くさすぎる。




結構、でかい。
ズッシリとした重さもある。

一瞬、シヴァかと思ったが、
手に持つシャンカ(法螺貝)と蓮華、
四つの腕から、
ヴィシュヌ神だと思う。

カシミール様式のヴィシュヌ。

ヒンドゥーの三大神の一人です。
日本だと、那羅延天になるのかな。

カルギル近隣の巨大岸壁仏は、
700年から800年前のマイトレーヤ(弥勒菩薩)との事だが、
そのデザインと同じ様式。
日本での弥勒菩薩とは全く姿は違います。

この像も通常のヴィシュヌとは異なってます。







イケている。
パティナ(古色)が滲み出ている。
ガチ系だ。

バリバリのチベット鍍金仏も極めて好みだけど、
こういうのも欲しかった。

---

どうやって手に入れたのかって?

それは言えない。

来歴も明白で、説得力がしっかりしているが、
それゆえ、言えない。

だって、表に出ていないし、
ガチの仏像とタンカの売買はタブーで禁止されているから。

空港からも出せません。

手に入れる前、
知人の売主に
「ラダックから陸路で出るんだろ?」と確認された。

セキュリティ・チェックが厳しい、レーの空港。

「まー、そーなるよね」と僕は返した。

その瞬間、
僕はマナリ経由で陸路で遥々デリーに向かう事になった。

その前にも一悶着あって、
同席した、ある友人の地元の業者が手に取り、
彼のお客さんとスマホでやり取りしていた。

どうやら、お客が考えてるらしく、
友人は一旦、その場を離れた。

その隙に!

ワタクシ、ズバッといったよね。

一応、売主にも「わし、買って良いのか?」と確認して、
オーケーだ、と言われたので速攻で買い切った。

後日、その友人に会ったら、
「あの仏像、お前が買ったんだろ?
お客からオーケーが出て、戻ったら無かったよ。笑」と言われた。

そして彼は続けた。

「あれはヤベーよ、デリーの空港で」

知ってるわ、
出しちゃいけない系だしね。

その時は友人の店でお茶をしてた時の事だったが、
彼は棚をゴソゴソし、
「これで包めば大丈夫。銀紙に黒のプラスチック・バッグ(黒のビニール袋)で
包めば、X線を通さないからね」と銀紙を差し出し、言ってくれる。



その銀紙。
お菓子袋やんけ。

僕、一応、宿に戻り、包んだよね。

しかし、私は気が付く。

空港で、X線が通らない塊があった方が怪しくね?

そう、
僕は包みを解いた。

半身だし、分からんだろ。

最悪、スーツケースを開けられても、
「カーン・マーケットのインテリア・ショップで買ったんだ」と言えば、
いけるだろ。

手持ちのカバンにさえ入れなければ、
問題ない。

手持ちのカバンにNGの物を入れて空港に行ってしまって、
最悪な事になったチベタンの友人も知っている。

ただ、以前、イスタンブール空港でスーツケースを開けられて、
大騒ぎになった過去を持つ、僕。


・・・で、結果。

忘れてたよね、俺。

スーツケースに入れたまま放置していた。

だって、
ラダックから延々、合計28時間以上かけてデリーまで行き、
日数も経ち、デリーでも色々と忙しかったからさ。

そー言えば・・・、と気が付いたのは、
乗り継ぎのクアラルンプール空港の喫煙所。

デリーの空港では、
すっかり忘れてて、
グッド・アース(超イケているインテリアや食器、服の店)の服の事を考えていた。

俺は本当にアンティーク・ディーラーなのか?

いや、
前回のネパールで、
パッソ(象牙・一応違法)の、でかい数珠を自国に持って帰るのを、
超ビビってた、
タトゥーだらけのアメリカ人より、
その点に関しては、
僕の方が向いているだろう。

いずれにせよ、
全く怪しいそぶりも見せなくて済み、
完全にスルーできた。

無事に手元にございます。

結構な金額がしたが、
もうこれは手に入れざるを得ない物の一つでした。

もし売れなければ、
台座を作って自宅に飾ろう。


以上

中身がなかったですな。

古いカシミール仏像を買ってみた、でした。



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ラダックに渡航してました。

2024年07月18日 | 仕入れ旅


久々の更新です。

渡航していました。

インドです。
ラダックです。

もう何度目のラダックか分かりません。

昨年も来たし。


さて、今回。

日本から来た旧友と合流したり、
欧米人の同業者の友人と、偶然、同じ日にラダック入りしたりと
最初は色々と忙しかったな。


良い物はあるのかって?

結論から言うと、
有るには、有る。

クソな店から、
良い店、
見つけやすい場所や、
見つけられないであろう場所、
普段開いてない店まで、
レーに骨董屋は幾つもあるけど、
良い物は、基本、出ていない。

ただ、古く良い物は存在はしている。

地元民だって持っている。

時には、
ローカル・バスに乗り込むオバアチャンの首元には、
古いズィ・ビーズが巻かれていたりする。

一般的に目にできる範囲なんて、
ごく僅かなのである。

なので、
今回も、
地元民や業者に、声、掛けまくった。
色々な方法を使って探した。

少し離れた地区の茶屋で待ち伏せもした。

古く質の良いチベタン・ターコイズも、
200個を越える数を手に入れてきた。

ヤバい物も手に入れた。

それらは後日、書こうかしら。
分からんけど。

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そして、
古い物は、流通している。

つまりは、
昨日までなかったのに、
今日は誰かが持ってきた、
と言うのがある。

それらは予告なくやって来る。

どの地でも共通する事だけど、
「運次第」
となるのです。

では、
今回、僕は「運」はあったのだろうか?

分からない。

全力は尽くした。

でも、まだ出来た。

まだまだ、やれた。

いつも思う。
毎回、思う。

その辺の事は胸に秘めて置こうかな。

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ともあれ、
帰国後の今、お約束の下痢である。

今回もインドでは一度も下痢はしなかったが、
日本に戻った途端、下痢である。

疲れからくる体調不良、と思われるかもしれないけど、
実は違う。

SNSでは更新していたが、
インドでカレーを食べまくったので、
何なら、
太って帰ってきた。

毎日、あの油はヤバイ。

日本でダイエットなどをして、
腹筋も割れつつあったのに、
超絶なリバウンドをした。

僕は普段、肉類はあまり食べない(魚介と野菜中心)ので、
インドでも基本はベジタリアン系だったが、
日本に戻り、
即効で生のマグロとかを食べるから、
胃が驚くのであろうか。

尻汁、ブッシャー

汚くて、すみません。
トイレで体が反応してしまう。

もう毎回の事なので
分かってはいるけど、
日本のシーフードの美味さは本当にレベルが高いので、
やめられない。

インドで水道水を飲もうが、
ネパールで水牛の生肉を食べようが、
モロッコで羊の脳みそを食べようが、
全然、平気なワタクシの胃腸。

日本とは相性が良くないのかもしれない。


胃腸の不具合に加え、この時期の日本の湿度。

体、おかしなるわ。

そして、
日本の溢れる情報と広告の数々。

頭、おかしなるわ。

まぁ、いつもの事です。
いつまでも慣れないけど。


・・・で、今後は仕入れ旅の事や、
アンティークに関して更新して行こうかしら。


宜しければ、
引き続きお願いいたします。



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日常ベイベー

2024年04月22日 | 日記



その日、僕は胃が痛かった

今日は人に会わなければならない

決まった日の約束はしていないので、
今日でなくとも良いのだが、
今日、なのだ。

人は、会える時に会わなければ、
次に機会がいつ来るかは分からない。

例え、
息がドブの匂いがしている日でも、だ。

僕はそう思っている。

歯と舌を念入りに洗い、
支度をして家を出た。




味気ない、地下鉄の風景

僕の目には、
無彩色に映る風景

自分の意識が、
他人事みたいに思える

東京のメトロは、
何処か冷たく、
規則的で連続性を持った重い空気を感じてしまう。

「それがメトロと言うものだよ」と言われればそれまでだが、
ロンドンやニューヨークで、車内に音楽家が乗り込むみたいな事や、
パリのメトロ駅の通路に美しく響く生演奏、
または
イスタンブールみたいに、
猫とか犬とかが自由に乗れるくらいの柔らかさが、
東京のメトロにも欲しい、
といつも思う。

でも、
良くも
悪くも
日本人の気質的、社会性的に無理かな




浅草に着く

最近、浅草近辺に来る用事が多い

道中、雷門周辺の道路には、
白のアルファードとかの、
大人数乗り大型車が列をなして路上駐車している

車からは、何人かの中国人がゾロゾロと降りてくる

観光客だろう

運転席に残るのは、
車内でタバコを吸うヤカラみたいな中国人

今は、そーなっちゃってるんだね
と思いながら、
僕は浅草の奥へと足を進める






浅草は古い日本の風景が残る

東南アジア系の親子連れの観光客が、
スマホをいじりながら店から出てきていた




みぞれ肉そば、大人のオモチャ

エロい言葉だ。
官能的である。




ドロンしたい(昭和)

浅草は面白い店名の店が多い


---

知人に会い、
建設的でポジティブな話ができた事に、嬉しさを感じる。

彼は、美しい感性と深い心を持ち、
柔らかな空気感をまとわせ、
相変わらず、穏やかだった




美しい、古き良い日本文化

お寺は落ち着く

蔵前らへんにて


少し散歩をして、
浅草を後にする。




渋谷

駅前の喫煙所には、
入りきらないほどの若者で溢れていた

イギリスでは2009年以降生まれの人は、
タバコの購入は生涯禁止されるらしい

少し前にオーストラリアのニュースでも
似たような事を耳にした気がする

今や多くの世界で、
タバコの喫煙は悪として認定されているだろう

まぁ、間違ってはいないだろうが、
個人的には、
昔、若い頃のケイト・モスが喫煙する姿は、クールに見えたもんだ。

今でもクールな女性だと思えるが、
ザ・リバティーンズのピート・ドハーティと付き合っていた頃は、
退廃的でかっこよく見えた。

世間的には大不評だったようだが。

ドハーティも若くして亡くなれば、
伝説になったかもしれないが、
今や、太ってしまって、
病気はあるが健康的な生活をしているらしい。

突出した才能と共に、
破滅的な生き方をしていた、
エイミー・ワインハウスや
カート・コバーンもそうだが、
若くして、この世を去ると、
「若い姿のまま、人々の記憶に残る」

リンキン・パークのチェスター・ベニントンが
自ら命を絶った時はショックだったが、
彼の魅力的な歌声と、
何処か、悲しみを纏った容姿は、
人々の記憶に残るだろうと思う


才能があるかどうか、
いつ、あの世へ旅立つか、は置いておいて、
僕は「死ぬ時は美しい姿でいたい」と思う




帰路、
平日の帰宅時間帯に重なってしまった

ホームに溢れかえる人、人、人

そう言えば、
午前中に人身事故で大幅に遅れていたっけな


何年も前、
やたらと、人身事故が起きる瞬間に出くわす事が多かった時期がある

先頭車両に乗っていて、

ドンッと言う軽い衝撃

そのすぐ後、
ゴリゴリッと何かに乗り上げる感覚

それらの感触は今も忘れない

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山手線の駅のホームに立っていて、
すぐ隣、
1メートルも離れていない人が電車に飛び込む姿

ホームと電車の隙間に吸い込まれる影

急停車した車内の人々と、
ホームに居た僕の目が合った日

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他の日には、
飛び込みがあった直後に、
僕はホームに居た

救急隊員もまだ到着していない

飛び込んだ人がホーム脇に置いていたであろう、傘

数分前には、生きていた誰かの持ち物だった、その傘

寂しそうに見えた

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様々な人生

交差する生と死


その僅かな間を僕らは生きる

その繰り返しが、
人生って呼ばれるのかもしれない

多くの人にとって、
人生ってのは、
本人の捉え方次第だが、
良い事と
悪い事は
均等ではないかもしれない

日常ってのは、
人を幸せにする一方、
不幸せや、
退屈にもさせる

さて

そろそろ
また、旅をする時かな



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日々 回顧録

2024年04月16日 | 日記



少し前、用事があり東京の下町へ足を運んだ。

用事を終えて、次の約束まで時間があったので、
門前仲町あたりから東京駅まで散歩をした。

商店街を通り、
川を越え、
橋を渡り、
映画「パーフェクト・デイズ」で出てくる橋はこの辺りかと思いながら、
高そうなスーツを着たビジネスマンが行き交う兜町を抜け、
東京駅に到着した。

丸の内口の趣のある顔とは異なる、
八重洲口の味気ない近代的な風景

溢れかえるほどの、
大勢の外国人観光客を傍目にJRの改札へ向かう。

駅中のコンコースの路上に座る中国人団体客。
通路は、事故があったかと思うほどの大渋滞。

それを怒り、怒鳴り散らす日本人の中年男性。

やれやれ、だ

僕はホームへと上がる

騒がしい音声案内が響き渡り、
人で混雑したホーム

週末の午後

けたたましい音を立てて電車がホームへ勢いよく滑り込む。
僕は人混みに紛れ、電車に乗り込み、窓際に立つ

窓から見える風景は、
大きなビルが並ぶ東京駅周辺から、
中規模のビルと広告看板が隙間なく建つ風景となり、
やがて、
同じ様な外見の戸建の家々へと変化する。
そして、
再び大きな街へと電車は走る

淡々と過ぎる風景

それぞれの日常がそこにあるのだろう、と思いながら
車窓から流れる風景を見て、
僕は電車を降りる

改札の近くで
偶然、知人に出会う

地元が同じ知人だ

「今、日本に居るんだ?」と知人は僕に言い、
僕は、
「最近、どーなの?」と聞く

知人は、
地元の議会議員が如何にクソか、という話題を話す

相変わらずそうなのか、と思いながら、
僕は知人と別れを告げる

用事が終わると、
帰路の途中、
知人のバーでワインを飲みに立ち寄る

「正直、最近は本当に厳しいよ」と知人は言う

その店のすぐ近く、
年配の女性が趣味でやっていた居酒屋は、
コロナで給付金をたくさん貰ってから、
早々にやめてしまった。

僕が知る限り、
知人は真面目な性格で、
経営も正直にやっていたが、
誰かが言っていた
「正直な人が損する時代だよ」と言う言葉を思い出す。

どんな世界、
どんな業界でも同じかもしれない。


先日、偶然会った友人に、
「キハチさん、優しさ疲れしてるんじゃない?」と言われたっけ。

そうか、俺は疲れているんだ。


下町で見た巫女さんは、
日本の美しい文化だったな

彼女達もオナニーはするのだろうか

下衆な感想だろうと我ながら思う


----





昨年末

日本へ帰国した翌日に、
旧知の友人たちと忘年会をし、
その足でクラブへ行った

彼ら彼女らとは、
もう25年以上の付き合いになるのかな

終電前に帰るつもりだったが、
「最近の東京の夜はどうなんだろう?」と思い、
クラブへ行くという友人たちと一緒に行った

友人の力で案内された、
V.V.I.Pという、VIPの上のランクの特別室の隣のテーブルには、
音楽関係か広告関係者、
または、IT関係と思える若い服装をした中年男性2人と、
若いスタイルの良い女性2人のグループが座っていた

見下げるダンス・フロアは若い男女のグループで満員だった

友人が言うには、今日は有名なパーティとの事だ。

そうなのか、と思いながら、
フロアに降り、
少し踊る

何かが足りない

何処か、
勢いを感じない

タトゥーだらけの若い女の子も居るが、
何処かが
整頓されている

何処かに
見えない枠、
見えない制限、を感じてしまう

刺激的だった90年代、
イスラエル人などのパーティ・フリーク達が、
世界中からこぞって集まっていた、
2000年から2006,2007年頃の東京

渋谷近辺では、イラン人達の闇の商売も横行していた

今、
そのイスラエルとイランはミサイルを撃ち合っている


そして、
当時の、
ヨーロッパの狂ったクラブの数々

数年前にも、
ジョージアの盛り上がっていた、
無軌道なクラブ

インドの
無茶苦茶な人々

今の東京と、
何かが違う


僕が変わってしまっただけなのだろうか

僕以外の何かが、日本が、変化したのだろうか

それとも、

僕が知らないだけなのだろうか

分からない




深夜の東京

なんか小さく見えたな


日本

もう、だいぶ前に飽きちゃったよ

耳に入るのは悪いニュースばかりだ

日本は快適なんだけどね
素晴らしい部分、
美しい文化も沢山あるし、
好きなところも多い。
そして、
僕は日本人である

でも、
今は、
居心地が悪いし、
退屈だよ


遠くを想う



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不確かな実在と、感謝

2024年04月08日 | 日記



『そこに在る』

僕が物に対して、よく使う言葉です。
度々登場させてきた言葉です。

物の佇まいや、
物と人を取り巻く物語など

それらを表現したいので使っております。

しかし、同時に、

「実在はしていない」

とも感じております。

実在はしていないが、
僕が認識することによって、
「在る」と
位置付けているのを表現したい側面もあります。

これは、
量子力学でいうところの、
「観測(認識)されなければ、それは存在しない事と同じ意味」に由来し、
逆説的に言うと、
「見れば(見た時に)それは存在する」
という事を言いたいのです。

大丈夫かな、あってるかしら?
まぁ、そんな感じ。

量子力学は難しすぎるので、
僕はうまく表現できない。
そもそも分からない。

マジで難しい。
難しすぎるっす。



僕が知る限り、
デンマークのニールス・ボーアが唱えた理論は、
アインシュタインの理論とは異なり、
多くの論争が長年あったそうだ。

んー、
アインシュタインの説も、大いに共感できる。
(詳しくは理解できんが、何となく)

一方で、
僕自身が感じている事は、
ボーアの説に近い。
または、
「共感する・共感したい一面がある」印象を持っている。
(自身の経験が、理論を理解する壁になる場合もあるし、真理は分からんが)

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『僕を見つけて頂き、ありがとうございます』

初めてのお客様へ品物を送る時など、
僕が時には、
お手紙に添える一文でもある。

これは、承認欲求とは異なる、と僕は思っていて、

「誰かに認識してくれたおかげで、僕はそこに存在できる」

に近い感情を持っておりました。

存在欲求になるのかな?
知らんけど。

何となーく、
「あー、この感覚なのねー」と、
感じる時もあるのです。

そして、
僕が扱う品物たち

量子力学を自分的に解釈すると、
(例えば)僕の品物を、
僕や、僕のお客様達、が認識する(見る)事で、
その品物は「存在し得る」
となるのかしら。
(実在は別にして)

量子力学上で言えば、
もし見なければ、それは存在していない、のと同義なので、
僕や、あなたが、品物を見つけなければ、
品物は、僕らにとって存在しないのです。

これは、深い。

もっと大袈裟に言うと、
あなたの世界は、
あなたにとって、その世界が全てであり、
そこに僕が存在するか否かは、
あなたが僕を認識しなければ(見つけなければ)、
僕は存在しないのです。
それは、
世界に僕が存在しないと同義なのです。

では、僕は実在するのでしょうか。

逆の事も言え、
果たして、
あなたは実在すると言えるのでしょうか。

そう

実在っつーのは、
不確かなものです。

不確かなものを、世の中は信じているのです。

不思議ですな。

僕の超絶極薄(間違いも含め)の知識での物理学で説明すると、
表現が難しいのですが、
僕の感覚では、
「存在する事」に、
いや、
「あなたや、僕や、対象となるモノが、世界に存在する為に」
この仕事の意義や、
僕が生きている意味、
があるのかもしれない、と思う時もあるのです。

例え、
全てが
実在しようと、
実在しなかろうと、
僕らは
「存在を求めている」とは思えるのです。

難しくなってきちゃったなー

伝わらなかったり、
間違っていたら、すみませぬ。

とりあえず、
世に無数にあるモノゴトから、
僕を見つけて頂き、
また、
僕を見て頂き、
僕の品物を見つけて頂き、
本当にありがとうございまする。


それが言いたかっただけでした。



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