私の町 吉備津

私の町 吉備津

応神、仁徳天皇の時代の「吉備の国」について

2015-05-26 10:18:53 | 古代吉備国
 此の二人の天皇の記事にも大きな差異があります。

 応神天皇の兄媛は「書紀」にありますが「古事記」には一字の記述も見当たりません。その代わりと言ってはなんですが、古事記には応神の後の仁徳の中には、また別の角度からの吉備の国が語られている記述が見られるのです。

 この「仁徳」という人についての吉備との係りをお話する前に、この天皇の人柄と云いましょうかその政治政策等について、まず、お話しから始めたいと思います。

 この天皇の業績の一つに帰化人を登用して開発した土木工事があります。中国の秦の国からの移住者を使って、池を作ったり、川を改修したり、新田を切り開いたりして、大和政権を強固なものに作り替えております。此の国の政策は、当然、吉備の国等においても、盛んにまねられて、地方創生の礎となったのです。地方創生という何か随分と新しい造語のように聞こえ、安部政権が打ち出した全く新しい独自の政策のように思えますが、考えてみますと、この政策は、2000年も前、とっくの昔に行われていた政策の一つに過ぎません。さも新しく現代人の耳には聞こえるのですが、ただの見せかけたものだけなのです。そんなに驚くほどの事のものではありませんよ。

 なお、応神が吉備国に行幸した、あの「葉田」も、元は「秦」から来ております。半田、土田、幡多、羽田も、総て2000年も昔の「地方創生」の落とし物なのです。

 

もうそろそろ??

2015-05-25 19:37:30 | 古代吉備国
 又もや、此の主人公「兄媛」の事が長たらしくなりました。どうでもいいことなのですが、書き出したらあれもこれもという気がして、ついつい長くなりました。

 此の「兄媛と神武天皇」の恋愛事件は終わりにしますが。是を読んでいくと、最後になりましたが、どうしても「どうしてだろうか」と思えることがあります。
 それは「御友別」の兄「浦凝別」の姓<カバネ>についてです。彼は「苑縣<ソノアガタ>を封<ヨサシタマウ>」と記されております。そして、彼も他の御友別の子供や弟た同じく「臣<オミ>」の姓<カバネ>を賜わったと思うのですが、どうしたことでしょうか、彼だけは「直<アタヒ>」という一団と低い姓を貰っておるのです。
 おかしいでしょう。同じ一族ながら差別があるなんて。まして「鴨別」は「浦凝別」の弟なのです。

 まあこんな下らない事に目を付けて読んでみたのです。改めて思うのですが、「歴史って面白い!!!」という思いです。

 これで、日本書紀に記されている吉備と応神天皇との関係を拾い上げてみましたが、これで終わりになっております。さて、この兄媛のことについては「古事記」にはありません。

 その古事記に書かれている吉備の国との関係については、書紀の記述とは、全く、違ったものが画かれております。明日からは、その「古事記」についての内容をご紹介します。

 読んでいただければ幸いに存じます。あまりおもしろくも何もないのですが????

雨月物語の「吉備津の釜」

2015-05-23 09:39:28 | 古代吉備国
 話があちらに行ったり、こちらに寄ったりして、筋がどうなっているのか分からないようになってしまったのですが、要するに、話は、応神天皇の時(ただし、日本書紀では)その妃というか恋人といった方がいいのかも知れませんが吉備出身の「兄媛」を慕ってて天皇が、はるばる、吉備の国まで来られます。その時の話です。その兄媛の兄弟や兄「御友別」の子供たちに、吉備の国を分けて与えております。その中に「香屋臣」とか「鴨臣」等の名前が出てくるのです。

 それだけを頭に入れておいてください。今日は、別のお話をしますので。

 さて、私の町には、このような古代社会の出来事についての物語と云いましょうか言い伝えが沢山残っております。その内の一つに上田秋成の書いた「雨月物語」もあります。『吉備津の釜』です。
 この中で、秋成は
 「従来<もとより>かの家は吉備の鴨別が裔にて、家系も正しければ・・・」
 と、日本書紀にある家系を引っ張り出して物語を構成しております。書紀に出てくる正式な吉備津神社の神主の家系は鴨別ではなく「仲彦<なかつひこ>」なんですが、「彦」より「別」という字の方が、何かこのお話の筋としては読者に訴えるに都合がよいと考えたのかもしれませんが。

「香屋臣」とは??

2015-05-22 11:42:54 | 古代吉備国
 栄西が賀陽氏の出であると云うことから、私の間違いを書いたのですが、
 「そんなら。書紀にある{香屋臣}<かやおみ>と云うのは何んなんじゃ」
 と云う問い合わせがありました。良く分からないのですが、孫が中2です。その社会科の本を借りて、久しぶりに、日本の古代社会の政治制度について勉強をし直しました。

 5~6世紀の大和時代の政治形態を示す「氏姓制度」というのがあります。「氏<うじ>」「姓<かばね」の政治制度です。

 その中で「臣」という姓は天皇の政治を直接補佐する最高の人達に与えられてものなのだそうです。とすると、栄西の祖先である御友別の子「仲彦」に与えられている「臣」と云う姓は、天皇の政治を補佐する重要な位置を占めていたことになります。兄の稲速別も鴨別も「臣」という姓を賜っております。尚、この中、御友別の兄である浦凝別は「直<あたい>」という姓を頂いております。
 
 なお、兄媛は女性であったからでしょうが、「姓」は与えられておりません。多分、結婚もしてはなかったのだろうと推察しております。その祖先がどうなったかは不明です。

“栄西は賀陽氏の出”

2015-05-21 11:29:49 | 古代吉備国
 昨日の「吉備津栄西茶会」で、栄西は賀陽氏の出身だと説明しました。それを受けて、ある御婦人から
 「賀陽氏って何??」
 という、質問がありました。それに対して、私は
 「賀陽氏と云うのは朝鮮半島からの渡来系の人ではないでしょうか」
 と、説明しました。
 家に帰ってから、『吉備津神社記』を読み返してみました。すると、私が御夫人にしたご説明が間違っていることに気がつきました。

 今、このブログで「兄媛と応神天皇」について書いております。応神天皇が吉備に行幸された時に、その膳手として大いに天皇の為に働いた兄媛の兄「御友別」の一族に、天皇は恩賞として吉備の国を別けて「縣<アガタ>」を安堵しております。書紀には、この「賀陽」こと「香屋」について、次のように書いておると、この本に出ております。
 
 “御友別の中子の「仲彦」に対して上道縣を封<ヨサ>す。是は上道臣、香屋臣等が始めの祖<ミオヤ>なり。”

 と。(「封」を「よさす」と読ませ、「任務を授ける」「お任せになる」と云う意味です。)
 
 すると、栄西は渡来系からの出ではなく、大吉備津彦の弟である若日子建吉備津日子命の子孫であることが分かります。

 大変な間違いをしてしまいました。何時かの機会にその誤りを正さなくてはと思っております。