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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−68(中世前期の石見の来住者−2)

<鎌倉末期の石見豪族達の大まかな分布図>

(図の点線は現在の市町村の境界を示す)

 

 

27.2. 佐波氏

伝承によれば、佐和義連が正治元年(1199年)常陸国矢貝より、邑智郡下佐波庄に来住し、佐波氏と称したと伝わっている。

この佐波氏は平安時代中期の文章博士三善清行の後裔で、清行の子浄蔵貴所から5代後の子孫が義連である。

鎌倉殿の13人の一人である、三善康信とは従兄弟の関係である。

義連は石見国佐波郷を分与されて 現地に下向したというが、おそらく三善惣領家の領地に代官として派遣されたものと思われる。

佐波に入部した義連は下佐波の簗瀬を住居とした。

その後高山に移り開墾し、山頂に上り矢飼ヶ城を築く。

また上佐波(沢谷)にも勢力を拡大し、さらには出雲赤穴(飯南町)地方にも勢力を及ぼし 石見東部の安濃・邇摩両郡(現大田市)の国人領主に成長していった。
 

石見国に土着した佐波氏は、当時の武士として農業を中心とした領地経営を行いつつ、鉱山の開発(銅が丸鉱山、美郷町乙原)にも努め経済力を蓄えていったものと考えられている。

義連から3代後の暉連は弘安4年(1281年)筑前に赴き防衛に当たり、帰国後には石見の東海岸防備を受け持った。

鎌倉時代末期の6代目顕連は富永氏の女を妻に迎え、泉山城(邑智郡美郷町酒谷)を整備して出雲方面へ勢力を伸張する足がかりを築いた。 

この顕連のとき、後醍醐天皇の倒幕運動から元弘の変が起り、佐波氏は否応なく激動の時代を迎えるのである。

 

 

沖丈遺跡(美郷町乙原)

江の川沿いでも、古来から人々が生活していた。

美郷町乙原で弥生時代の遺跡が見つかっている。

1995年から1996年にかけて邑智町教育委員会によって発掘調査が行われ、弥生時代前期の配石墓群が発掘された。塊状配置構造をとる墓地が特徴であり、管玉102点等が見つかっている。


 

建武の新政と南北朝の動乱

元弘3年(1333年)、隠岐に流されていた後醍醐天皇は閏2月24日の暁、千種忠顕を伴って、小舟で隠岐を脱出する。

伯耆の豪族名和長年は伯耆国船上山に城郭を構えて天皇を匿う。

後醍醐天皇はここ船上山で倒幕の兵を挙げた。

佐波顕連は三隅兼連らとともに直ちに馳せ参じ幕府軍と戦う。

同年5月23日、後醍醐天皇は帰京の途についた。

この5月23日は鎌倉幕府が滅亡した翌日である。
しかしこの時、後醍醐天皇らは鎌倉幕府滅亡を知ってはいないはずである。
ただし、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府を攻撃するといった知らせは届いていたのは間違いがない。

顕連らは同行し6月5日に入京する。

 建武政権が発足すると、佐波顕連は一連の功により正六位上三河守に任じられた。 

しかし、功のあった武士に対する恩賞が薄かったことから、多くの武士が新政への失望感を深めていった。 

やがて、足利尊氏が反旗を翻したことで新政は崩壊し、南北朝の内乱が始まる。

佐波顕連は 高津長幸・三隅兼連らとともに南朝方として奮闘する。

貞和3年/正平2年(1347年)、顕連は新たな拠点として下佐波青杉に城を構え、石見南朝方の中心勢力として、 武家方の石見守護上野兼頼と各所に戦った。

観応元年/正平5年(1350年)、足利尊氏の弟直義と高師直の対立から 観応の擾乱が起こった。

足利尊氏の庶子で足利直義の養子となっていた足利直冬の勢力が石見に浸透してくると、 顕連は兼連とともに直冬党に属した。

対する高氏は石見の南朝方を討つため高師泰を派遣、 備後の山内一族、安芸の毛利氏らを味方とした師泰軍は二万を超える大軍となり、 顕連は一ヶ月にわたって防戦につとめたが青杉ケ原城は陥落して討死する。

 

27.3. 出羽氏

出羽氏は富永氏を本氏とする。

27.3.1. 富永氏

富永氏は大伴家持の後裔と言われている。

治承四年(1180年)源頼朝が挙兵すると、近江国でもその挙兵に応じて、近江源氏の一族木山義経、その弟柏木義兼らが反平家の旗色を明かにした。

このとき、近江国野洲郡三上庄の荘官富永祐純もこれに同調した。

しかし、この挙兵は平家によって平定され、祐純は石見国邑智郡久永荘に流罪に処された。
 
その後、文治元年(1185年)三月、平家は壇の浦で滅亡し、源氏の天下となり、石見国守護には近江国の佐々木定綱が補任された。

富永祐純は佐々木定綱によって久永庄および出羽郷の地頭職に取り立てられた。

 

富永祐純は佐木庄の地頭の佐々木由綱の娘を娶り、朝輔が誕生する。

かくして祐純は地頭として、瑞穂・石見両郷の支配にあたることになり、その勢力を伸長していった。

 

貞応二年(1223年)、祐純の跡を継いだ朝輔は二つ山(邑智郡邑南町鱒渕)を築いて本城とした。

この朝輔は寛元二年(1244年)に長門国尼ケ瀬に出陣し討死することになる。

この長門出陣の目的は不明である。

 

27.3.2. 出羽氏 

富永祐純の18代後裔の佑直が、自らの所在地をもって出羽氏を称するようになる。

建武の新政がなり、やがて、足利尊氏が叛すると、益田・小笠原・吉見・出羽氏らは尊氏方に属した。

延元2年(1337年)石見守護となった上野頼兼は、安芸の武田・吉川、長門の厚東、石見の小笠原・出羽氏らと連合して、宮方の三隅が拠る高城(浜田市旭町市木)にせまった。

しかし、宮方はこれらを撃破する。

以後も、石見国では宮方と武家方が小競り合いを続け、互いに相手方に徹底的な打撃を与えることができず、やがて膠着状態となった。

 

当時、出羽氏は二つ山に実清が居城し、君谷の地頭所城(美郷町地頭所)に子の実祐がいた。

正平5年/観応元年(1350年)八月、武家方の高師泰軍は佐波顕連の拠る鼓ケ崎(美郷町明塚)を襲撃し、顕連は討死、城は落城した。

師泰は小笠原・出羽・吉川氏らの勢力を加えて三隅城へ向かった。

三隅城の攻囲戦は翌年正月足利尊氏が高師泰を呼び戻すまで続けられたが、結局、三隅城は落ちなかった。

その後、上野頼兼が戦死し、その次の守護は荒川詮頼が任じられた。

詮頼は武家方の勢力拡大に努力したが、このころ明確に武家方であったのは小笠原氏と出羽氏位であった。

康安元年/正平16年(1361年)高橋氏が足利直冬の指令に応じて出羽に進撃する。

出羽実祐はこれを迎え撃つ。

この攻防戦は半年続けられる。

石見守護荒川詮頼、小笠原長義らは出羽方に応援に向かうが、高橋氏はこれを抑え、ついに九月に出羽勢を永明寺の城郭内に追い込み、火を放って全山焼き尽くした。

実祐は猛火のなかで討死した。そして家に伝わる重宝・文書類も灰塵に帰した。

その時、実祐の子祐忠は君谷(邑智郡美郷町)にいてその領地を確保し、以後、君谷が出羽氏の根拠地となった。

 

出羽氏の失地回復運動は、荒川詮頼の守護時代、大内義弘の守護時代を通じて執拗に行われた。

そして、明徳3年(1392年)義弘の調停によって、高橋・出羽両氏の地頭職をめぐっての紛争も終わりを告げた。

出羽七百貫のうち、高橋氏から二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させることで両氏の和睦がなったのであった。

 

27.4. 高橋氏

高橋氏は、古代氏族の大宅氏から出て、駿河国高橋光盛を祖とする。

高橋光圀のとき、備中高梁に移封される。

鎌倉幕府滅亡の際、光圀は北条氏と運命を共にしたが、その子光義は備中松山で、足利高氏に味方し各地に出陣した。

観応元年/正平5年(1350年)光義の子師光は、佐波顕連を討った恩賞で、邑智郡阿須那三千貫を与えられた。

阿須那に藤掛城(邑南町木須田)、鷲影城(邑南町阿須那)を築き居城する。

<続く>

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